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水の供人  作者: 畑中希月
第一部 ミル・シャーンの冬営地
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序章 少年と水神

 少年は夜の中にいた。空に浮かぶ満月が青白く辺りを照らす、そんな夜だった。少年の他には、人影ひとつない。昼間、焦げるほどに太陽の光を浴びた大地も、今はすっかり蓄えた熱が逃げ、肌寒い空気に晒されていた。


 少年がたたずんでいる広場には、普段から街の人々が使う井戸と、白い石でつくられた祠があった。祠には、この街の水源を司るという水神が祀られていた。


 街の中心にある【水の院】には、水神たちの母であり、長でもある水神の女王が祀られているのだという。この街の周りには、川もなければ湖もない。あるのは、ひたすらに続く黄色い砂漠だけだ。


 地下水脈から湧き出る泉や井戸だけが頼りの人々にとって、水神は古くからの神々と同じ──いや、それ以上に崇敬の的となっていた。


(このハサーラを潤して下さって、ありがとうございます。──それから、僕がもっと強くなれますように)


 祠に祈りを捧げると、少年はその場から少し離れ、腰に帯びた棒切れを抜き放った。突く、斬る、弾く、守る。兵士たちの稽古から見よう見真似で覚えた剣術の基本の動作を、少年は幾度も幾度も繰り返した。


 少年が武術の稽古をするようになってから、一年がたつ。武術を始める少し前、少年の父親が死んだ。


 父は、腕のよい医師だった。その腕を見込まれ、父は隣村の村長に往診を頼まれた。父は儲けにはこだわらない人だったが、相手から報酬を弾むといわれ、張り切っていた。


 少年は幼い頃から、父の跡を継いで、医師になろうと決めていた。貧しい患者でも、嫌な顔ひとつ見せずに治療する父は、少年の誇りだった。


 あと数年もすれば、少年はかつての父と同じように、医術学院に上がることになっていた。その費用を貯める必要がある父にとって、高額な報酬は願ってもないことだったのだろう。


 道中の安全のため、武装した案内人に守られた隊商とともに、父は出発した。いつもは無口な父が、照れくさそうに家族に向けて手を振る姿。それが、少年が見た、最後の父の姿だった。


 ハサーラに帰る途中、父は死んだ。同行していた隊商が、運悪く盗賊団に襲われたのだ。猛禽に襲われた砂漠鼠のように、父は無惨に殺された。


 どうしようもない怒りがこみ上げ、少年は棒切れを振るう手に力を込めた。


 あの日から少年は、父を殺した盗賊たちを憎み続けた。いつか出会ったら、必ず殺してやると心に念じた。


 しかし、燃え盛るような憎しみが、何かの拍子にふっと消えてしまうと、代わりに灯るのは、父が隣村へ旅立つ原因となった、自分への怒りだった。


 他の少年たちよりも医術学院への入学に、少し時間がかかってもいい。無理をして学資を貯める必要などない。あの時、父にそう言ってあげることができれば……。


 今もまた、心の隙間に、ひび割れるように後悔が忍び込んでくる。


(──けど、一番悪いのは、父さんを殺した奴らだ!)


 迷いを払うように、少年は棒切れを一閃させた。


 棒は空を切り、あとにはただ、風に吹かれる木の葉の音だけが残った。雲に隠されてしまったのか、月明かりは消えていた。


 少年は棒切れを下ろし、上がった息を整えた。集中が解けたからだろう、急に喉の渇きを覚える。くるりと身体の向きを変え、少年は井戸へと歩き出した。


 ふと、少年は足を止めた。いつの間にか、井戸の傍に白っぽい人影がいる。


(……あれ、人じゃないな)


 少年は、まるで犬や駱駝でも見かけた時と同じような感想を持った。


 砂漠には、「シャンニー」と呼ばれる精霊があちらこちらにいる。シャンニーに定まった姿はなく、彼らが人や獣に化けた時以外、普通の人間には見ることができない、と言われていた。だが、ごく一部の者には、化生する前のシャンニーが見えるのだ。少年も、その一人だった。


 シャンニーを見ることができる子供は、将来、神官になるのが望ましいとされている。だが、少年は医師になりたかったから、その力のことは秘密にしていた。


 少年にはシャンニーが、地上をゆっくりとうごめいたり、空をゆったりと飛んでいくような、薄ぼんやりとした光に見えた。それなのに、今、井戸の傍にいる影は、見間違えようがないほどはっきと見える。


(何だろう。人に化けたシャンニー……?)


 気配は明らかに人のものとは違ったから、少年は不思議に思いながらも、井戸に近づいていった。


 その時、月を隠していた雲が風に流され、満月の光がさっと差した。月光に照らされた影を見て、少年は息を呑んだ。


 影は、すらりとした女の姿をしていた。身につけた衣は、抜けるような白。その上に、麗しい刺繍入りの外套を羽織り、頭と顔を面紗で覆っている。


 面紗から覗いた女の双眸そうぼうを見て、少年は息が止まるほどに驚いた。女の瞳は、透き通った青だった。その水を思わせる青が、きらめくような光を帯びて輝いている。


(水神さまだ……!)


 ハサーラでは、青い瞳を持つ者は水の女神だと伝えられている。北からの旅人の中にも、青い瞳の者は少なくなかったが、水神の瞳は、彼らとは全く違う輝きを放っているのだという。


 少年の膝が震え始めた。それなのに、縫いつけられたかのように、その場から動くことができず、水の女神から視線を外すことすらできなかった。女神もまた、少年を見つめていた。


「ハサーラの子よ……」


 水神の面紗がかすかに揺れた。楽の音ように美しい声だ。


「恐れることはない。わたしはローダーナ。そなたらが敬う水神の女王から、この地を任された【源を司る娘】」


 水神の目元がほほえんだ。それでも少年は、相変わらず口をきくこともできなかった。目の前の相手は、この地を潤す水神であり、面紗を取れば、さぞかし美しいであろう女人でもある。

 ハサーラでは、例え子供であろうと、家族や親族以外の女人と軽々しく会話をするなど、考えられないことだ。けれども、水神は言葉を紡ぎ続けた。


「そなたはハミードのように、普通の陸の者には見えないものが見える。そうであろう?」


 ハミードとは、かつて、ハサーラを存亡の危機から救った聖人の名だ。確かにハミードは、優れた霊力を持っていたとされる。だが、自分の力が聖人と同列に扱われていいものか、少年には見当もつかなかった。


 少年の戸惑いを察したのか、水神は声に笑みを滲ませた。


「無理に答えずとも、よい。そなたは、なかなかに謙虚なようだ。──そなたは、毎晩のように、ここで武術の稽古をしておるな。稽古の前、強くなれるよう、必ずわたしに祈るのを、聞いておる」


 少年は真っ赤になった。心の中で唱えていた声が、本当に聞かれていたのかと思うと、無性に恥ずかしかった。


「何故、強くなりたいのだ? よければ聞かせておくれ」


 水神の声の優しさは、はっとするくらい、幼子だった頃の少年をあやしてくれた、死んだ母のものに似ていた。少年は緊張がほぐれていくのを感じた。


 水神が井戸端の草地に座るよう手で指し示したので、少年はまだ少し戸惑いながらも、礼を言って腰を下ろした。一方、水神は優美な動作で、井戸の縁に腰かけた。


 少年はぽつりぽつりと、父が死んでからのことを話し始めた。それは、祖母や妹にさえ明かしたことのない、少年の心のうちだった。


 少年が語り終えると、いつしか水神の瞳に憂いが浮かんでいた。


「……それは痛ましい思いを味わったのう。だが、烈しい憎しみを抱きながらも、そなたは淀みのない、実によい目をしておる」


 少年が目を瞬くと、水神は微笑した。


「自分では分からぬのも無理はない。とにかく、わたしはそなたが気に入った。そなた、名は何と言う?」


 少年がおずおずと答えると、ローダーナは優しく頷き、霧のように消えてしまった。

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