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セミの鳴き声が遠くに聞こえる。
きっと外は今日も暑いのだろう。
でも部屋にこもってクーラーを使っているさーやには、あまり関係なかった。
夏コミが終わってから早一週間。
さーやはコミ市での戦利品を整理していた。
ってゆーか、一週間も経っているのに一向に整理できていなかった。
理由はまあ、なんというか……さーやの意志が弱いからかな。
「えーと、この同人誌は一番大事だから、この本棚の奥に入れないとでしょ……」
普段はあまり使うことのない、本棚の一番下。
同人誌に順位を付けて一番大切なサークルのものはそこに収納していた。
しかし、その場所の前にはいつも雑誌が山積みにされていて、こういう時でもないとそこに収納されてある同人誌は見ることができない。
だから、巻数ごとに並べようと思って一度同人誌を取りだして並べ直していると、どうしても読みたくなってしまう。
そんなに読みたくなってしまうほどのものなら、もっと取り出しやすいところに置くべきなのかも知れないけど、そうするとその大切な同人誌たちが日焼けをしてしまう。
同人誌のほとんどはお小遣いから買っているので、保存用と読む用の二冊なんて買うことはできない。
だから読むには不便だけど、大切な同人誌は一番日焼けがしにくい場所に保管しておくことが優先されるのだ。
「――あ、そっか。今回のは総集編だから、ここに入れると、こっちのサークルの本が入らない……」
新刊も含めて一つのサークルの本を読み終えたさーやは本棚に戻そうとして、独り言をつぶやいた。
整理が上手く進まないのはもう一つ理由があった。
さーやの部屋には二つ本棚があり、一つが普通の書店で売っている漫画や本をしまっておく本棚で、もう一つが同人誌専用の本棚なのだが、そのどちらも最近満杯に近い状態だった。
普通の漫画を収納する本棚はもはや新しいシリーズをしまうスペースがないので、何か新しく欲しい漫画ができると、まず今までしまっておいたシリーズの内どれかを破棄しなければならない。
それにしても数日は悩まされる。
同人誌の方はというと、そういうわけにはいかない。
漫画は書店に行けば買えるが、同人誌はそのイベントで買い逃したら二度と手に入らないことが多い。
だから目当てのサークルのものは手当たり次第手に入れている。
買ってきてから本棚との相談になるのだけれど……。
「仕方ない。このサークルの順位を下げて、上の棚に移動させよう」
泣く泣く決断してサークルごとに同人誌を移動させるが、そもそも本棚には空きがほとんどないので、またさらにそこから順位を下げることになる。
しかも、順位づけをするにも、また同人誌の中身を何度も確かめるからそこで時間が費やされる。
一週間が過ぎても整理できないのは、仕方のないことだった。
――ちなみに、こうしてところてん方式に移動してさーやの本棚に収まりきらなかった同人誌はどうなるのかというと――。
「お父さん、いい?」
「ん? 開いてるぞ」
今日も一つのサークルの同人誌を持ってお父さんの部屋に入る。
お父さんは机に向かって漫画を描いていた。
さーやが部屋に入っても、手を止めることはない。
「ねえ、ドロップマニアの同人誌預かってもらってもいい?」
「何冊くらいだ?」
「十冊かな」
「…………ま、それくらいならまだ何とかなるけどよ」
そこまで言ったところで、お父さんは液晶ペンタブレットからペンを離してさーやの方を向いた。
お父さんはさーやが物心ついた頃にはすでに紙の原稿用紙からフルデジタルでの漫画制作に変えていた。
だから、お父さんが漫画家だと知るまではパソコン関係の仕事なのかと思っていたくらいだった。
「やっぱりもう一つさーやの部屋に本棚買った方がいーんじゃねえか?」
「あの部屋のどこにそんなスペースがあるの?」
さーやはすぐにお父さんの提案を拒否した。
さーやの部屋にあるものは同人誌だけではない。
テレビゲームやフィギュアや玩具。
それらが所狭しと整理されているので、本棚なんて場所の取るものをこれ以上部屋に置くわけにはいかなかった。
「……ハァ……。その内、ホントにどこかの倉庫でも借りるかな。このままじゃ家中同人誌で埋め尽くされることになるぞ……」
「それはそれで本望じゃない?」
お父さんのつぶやきに言葉を返して、さーやは自分の部屋へと戻った。
これでやっと半分くらいだろうか。
コミ市でお父さんにサークルを巡ってもらった分は終わったけど、大手サークルのものはショップで委託販売しているものを通販で買ったので、コミ市の翌日にダンボールで届いたまま手つかずになっていた
このままのペースだと整理できずに夏休みが終わってしまう。
夏休みの宿題はコミ市の前にほとんど終わらせてるからそれは心配してない。
ただ、さすがに学校が始まると整理に使える時間は限られるし、その内冬コミのことも考えなければならないのだ。
夏コミと冬コミの間は準備期間が短いから早めに動かなければならなかった。
別にさーやが同人誌を描くわけではないけど、売り子を手伝う以上、お父さんの描く同人誌の元ネタになる作品のコスプレをしたいと思っていた。
もちろんリコさんとの“合わせ”で。
――ということは、今の内に今度はどんな同人誌を描くのか聞いておいた方がいいかな。
そう思いかけてやめた。
こういうのを確か現実逃避というんだ。
「整理しよ」
さーやはダンボールのガムテープをカッターで慎重に切った。
大丈夫だとは思うけど、同人誌を傷つけてしまったら嫌だから。
――優しいんですね――。
不意に、声が聞こえたような気がした。
慌ててカッターから手を離す。
「……?……」
辺りを見回しても、もちろん誰もいない。
再びカッターを持とうとしたら、
――ごめんなさい、驚かせるつもりはなかったんです。
また、声が聞こえた。
空耳じゃない。確かに声が聞こえた。
何だか、ドキドキワクワクする。
まるで漫画やアニメみたい。
さーやはカッターを机の文具入れに戻して、声の主を探すことにした。
机の上、引き出しの中、ベッドの上と下。
本棚――はぎっしり漫画や同人誌が入ってるから見る必要はない。
フィギュアを飾っている棚はフィギュアを一つ一つ丁寧に退かしながら隅々まで見る。
一応閉めてあるタンスの中まで見てみたが、それらしいものは見当たらなかった。
お陰でますます面白くなってくる。
姿の見えない不思議な声なんて……。
なんて……、なんて素敵なことなの。
――そう思った時だった。
カタンと何か物が落ちるような音がした。
確か、机の方から聞こえてきたような……。
机には、六分の一サイズの椅子が倒れていた。
風で倒れたわけではない。
クーラーの風は“弱”にしてあるから物が倒れるなんてことはない。
ううん、そんなことよりももっと大事なことがある。
「瑠璃華は、どこへ……?」
机の上の六分の一サイズの椅子は、誕生日にお父さんからもらった瑠璃華というドールの椅子だった。
いつもそこに座らせておいたのに、椅子が倒れる音がして、そのままドールもいなくなってしまった。
「瑠璃華?」
「――イタタッ」
足下からさっきと同じ声が聞こえた。
それは今までよりももっとはっきりと聞こえる声だった。
さーやはすぐに足下に視線を落とす。
「あなたの反応があまりに常識外れだったから、思わずこけてしまいました」
ただのドールであるはずの瑠璃華が、そう言って頭をさすっていた。