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 空になったダンボールを一人で片付け終えた信志は、売り上げの確認をしていた。

 百円ショップで買ったプラスチックの救急箱のような物に、今日の売り上げが雑然と突っ込まれている。

 それを一枚一枚確かめながら数える。

 さーやに頼まれていたサークルや自分でチェックしたサークルに早く行きたいのは山々だけれど、売り上げをまとめておかないことには身動きは取れない。

 幸い、行かなければならないサークルのほとんどが混雑する壁サークルではなかったので、焦らなくても大丈夫だろう。


「新刊だけで……六十、か」

 ショップで委託販売してる分も合わせれば、まあだいたいいつも通りってところだろう。

 ありがたい限りである。

 プロとしては鳴かず飛ばずの信志にとって、コミ市での売り上げは年収の半分以上を占めている。

 しかし、売り上げを気にしたものは描かないというのが信志の個人サークルのスタンスなので、いつも自分の趣味に走った同人誌しか描いていない。

 それでも毎回買ってくれる人がいるというのは、感謝以外の言葉が見つからない。


「……そう考えると、やっぱりさーやを売り子に使うのはちょっと卑怯かもな……」

 小学生の女の子が父の手伝いを一生懸命やっていたら、売っている同人誌に興味がなくても買っていってあげようという気持ちにさせてしまうかも知れない。

 でもなあ、もうさーやは信志の目から見ても後戻りができないほどのオタクに成長してしまったし、今さら手伝いをするなといっても嫌がるだろうし……。


「おっと、まずい。これ以上ボケッとしてたら、壁サークルじゃなくても売り切れちまう」

 さーやのことを考えていたら、ふとさーやに頼まれていたことを思い出した。


 売り上げの入ったプラスチックの救急箱をリュックに詰め込み、ほとんど片付いた自分のサークルスペースを抜け出した。

 信志はまず自分のサークルが配置されていた東館の1~3ホールを巡った。

 十年以上コミ市には参加しているから三日目の状況は熟知していた。

 それでも、男で埋め尽くされた人波に流されるのは、不快指数千パーセントを超えている。

 こんなことには慣れないだろうし、慣れたくもない。

 押し寄せる津波のような人混みに流されながらも、透明なファイルに入れたサークルの配置図と、柱に貼られてある記号を照らし合わせて目的地へと向かう。


「す、すみません。新刊一部ください」

「はい。えーと、一部五百円です」

 さっきまでの自分とは立場が逆になっているが、やりとりは同じだ。

 受け取ると、早々にそのサークルの前を立ち去る。

 というか、買う時以外は立ち止まることが許されないほど混雑しているわけである。

 ただでさえ、今日の最高気温は三十六度で暑いというのに、ここはまたそれ以上の熱気に包まれている。

 ……ある意味、この必死な感じが楽しいともいうが。


 信志はその後、東館1~3ホールと対になっている東館4~6ホールを巡り、さらには西館も巡った。

 どこを通るにしても満員電車に乗っているかのような混雑ぶりだったが、思っていた通り目当てのサークルの新刊はほとんど買うことができた。

 全てではなかったのは、いくつかのサークルが新刊を落としていたからだったので、正確には新刊の出ているサークルは全て手に入れることができた、なのだが。


 信志は戦利品を確かめもせずに、家から持ってきたビニールで防水加工されている紙袋に入れた。

 ……安心したからだろうか。

 ついさっきまで片手で抱えていたはずの同人誌が、急に重さを感じるようになった。

 この紙袋は強度が結構あるから底が抜けてしまうことはないだろうが……。

 よくこれだけの同人誌を片手で抱えながらサークルを巡っていたものだ。

 火事場の~というやつだろうか。

 こりゃ明日以降左腕の筋肉痛が酷いことになりそうだな。

 左手を握ってみて握力を確かめながら信志はそう思った。

 聞き手は右手だから、漫画は描けるだろう。


「さてと、そろそろさーやを迎えに行くか」

 腕時計を見るともう午後一時になろうとしていた。

 信志はリュックサックを降ろして、中に入れておいた水筒のスポーツドリンクで喉を潤してから、立ち上がった。

 特に集合する時間を指定していたわけではないから、急ぐ必要はない。

 両手で紙袋を持ち、何とか引きずらないようにだけはして、この西館の屋上展示場へと向かった。


 時間が時間だけに、コスプレ広場は多くの一般参加者で溢れかえっていた。

 買い物を済ませた参加者がコスプレを見に来たのだろう。

 あるいは撮影しに来たのか。

 とにかく、コスプレ広場だというのに、コスプレしている人よりしていない人の方が多い。

 かくいう信志もコスプレしていない人の一人なわけだが。

 信志は一般参加者と撮影者用の入り口から、取り敢えずは人の流れに押されるかたちで入った。


 ……しかし、これだけ混んでると探すのは難しいような……。

 せめて撮影していればさーやと中野さんのコンビならかなりのカメコに囲まれているはずだから見つけやすい。

 だが、今はホール内ほどではないものの、撮影できるスペースさえないくらい混雑している。

 取り敢えずはコスプレ広場を一周してみるが、この照りつける太陽の下では、信志だって休み休みでなければ見て回ることはできない。

 ――あ、ってことはさーやがここに来たのは十一時過ぎのはずだから、どこか日陰を探して休んでるってことはあるかも知れない。

 コスプレ広場は屋上展示場なので、開放的ではあるが、日陰は少ない。

 少ない日陰を中心に探していけば意外とあっさり見つかるかも。


「――カウントを取ります!」

 人波をかき分けて日陰のある方を探しに行こうと歩き出したその時、近くでコミ市スタッフの声が聞こえた。

 それはつまり、その辺りでカメコがコスプレイヤーを取り囲んでいて邪魔だという合図でもあるのだが……。

 すでに混み合っているこの状況下で撮影しているカメコがいるってことは、よほどのネタかあるいはクオリティが高いコスプレイヤーか。

 取り敢えず、カウントが終わるまで待たないとこの辺りから動くのは難しそうだ。


「――五――四――三――二――一――ありがとうございました!」

 喉の奥から張り上げるようなスタッフの声が響き渡る。

 すると、黒山の人だかりが徐々に人波に流されて、少しだけ辺りが開けてきた。

 って、これだけ混雑しているのに開けた場所ができるということは、かなり広く場所を占拠して撮影していたのか。

 いったいどんなコスプレイヤーを撮ってたのか。


「あ、お父さん」

「さーや! 中野さん! 君らだったのか!」

「白々しいにもほどがあるよ、お父さん」

「え? そ、そうか?」

「これだけ前振りがあってさーやたちじゃなかったら、ここまでの数行が無駄になってるんだからね」

 呆れたようにさーやが腰に手を当てて言った。

 ま、確かにな。

 開き直っているから何度でも言ってやるが、さーやは可愛い。

 茶色がかった長い髪、二重のまぶたはどこか儚げで、それでいてつぶらな瞳は優しい性格を表すかのよう。

 これだけの美少女がコスプレしてるんだ、どんなに混んでいても囲んででも写真を取りたいって気持ちは痛い程わかる。


「お久しぶりです、小山内先生」

 金髪でツインテールの長いウィッグをかき上げて、中野さんが緊張気味にほほ笑んでいる。

 黒のレオタードを基調としたハイレグ(死語?)のコスプレは似合ってはいるが、目のやり場に困る。

「こ、こちらこそ、さーやの面倒まで見てもらっちゃって、すみません」

「……お父さん、みっともないから鼻の下伸ばさないでくれる?」

「――う。し、仕方ないだろ。こんな美人を目の前にして、冷静でいられる男がいたら、そいつは普通じゃない!!」

「オタクであるお父さんは十分普通じゃないと思うけど」

「それじゃ、さーやも俺と同じってことになるが?」

「うん、安心して。さーやは自分が普通じゃないって自覚してるから」

「……ううっ、俺はさーやの将来が心配だよ……」

「今さら遅いと思うな」

「あの……日陰に行きませんか? こんなところで立ち話をしていたら、二人とも熱中症になってしまいますよ」

 中野さんの冷静な声に、信志とさーやは揃って頷いた。


 とはいえ、コスプレ広場の中にはそれほど日陰はなく、あったとしてもすでに他のコスプレイヤーたちが休憩を取っているので、信志たちは一旦コスプレ広場から出ることにした。

「そうそう、さーやに頼まれてたサークルは全て新刊確保したからな」

 日陰を見つけて、同人誌のつまった重い紙袋を降ろしながら信志はさーやに報告した。

「ありがと」

「喉は渇いてないか? 俺の水筒にはまだ結構残ってるから、欲しけりゃ言えよ」

「うん、じゃあ少しもらっておく」

 信志から受け取った水筒をゴクゴク音を立ててさーやは飲んだ。

「中野さんは大丈夫? さっきからボーッとしてるけど。体調が悪いんだったら……」

「あ、いえ。そういうわけではないんです。ただ、ちょっと……さーやちゃんと小山内先生のことが羨ましくて」

「羨ましい?」

「――小山内先生? って、あの『幼いコーポレーション』の?」


 中野さんの言葉の意味を聞こうとしたら、近くで同じように休憩していた人たちの中から信志のサークル名が飛び出した。

「え? あ、はい」

 振り返ると、そこにはたくさんの紙袋を抱えた典型的なオタクが一人。

 ……信志も人のことはあまり言えんが。

「あの、サインとかしてもらってもいいですか?」

「……ずるいね、俺の新刊出されちゃったら、断れないもんな」

 そう言いながらもまんざらではなかったので、信志は快く自分が今日売った同人誌にサインを書いた。

「ありがとうございます! 僕、『快楽園』で先生の作品見てからの大ファンなんです」

 そう言うと、彼はスキップでもするかのように軽やかな足取りで駅の方へと向かって行った。


「……よかったね、お父さん。あんなエロ漫画でも一応ファンの人がいてくれて」

「それは誉めてるのか? 貶してるのか?」

「さあ?」

「――っていうか、あれほど俺が仕事で描いているものは見ちゃダメだっていったのに、やっぱり見てやがったな? 小学生のさーやには早すぎるっつーの!」

「し、知らなーい!!」

 傾きかけた太陽にさーやの声が吸い込まれていった――。

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