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「新刊二部ですね。ありがとうございます!」

 さーやは滴り落ちる汗を気にもせずに、元気いっぱいにそう言って真新しい同人誌を手渡した。

 普通ならとても耐えられる環境じゃなかったけど、関係なかった。

 だってここは、さーやにとって夢のように楽しい世界だから。


 ――年に二度の世界最大の同人誌即売会。

 コミック市場。

 ここはその会場である東京ビックサイト。


 さーやが売り子を手伝うサークルはお父さんの個人サークルで、ある程度の売り上げがあらかじめ見込まれて壁に配置される……いわゆる壁サークルだった。

 お陰で開場してから三十分が過ぎたというのに人の列が途切れない。

 ダンボールの中から次々と机に新刊が並べられていくけど、それらはすぐになくなってしまう。

 ダンボールは畳む暇もないので、空になったものはただ後ろのスペースに投げ捨てられていた。


「さーや、大丈夫か? 少し休んでてもいいんだぞ?」

 小声でお父さんが耳打ちした。

 気遣いはうれしいけど、さーやは少しだけ首を振って「大丈夫」と答えた。

 そして再びお客さん――ううん、ここでは確か一般参加者という呼び方をするんだった。

 その並んでいる一般参加者と向かい合う。


「あの……新刊一部ください」

「はい、えーと五百円です」


 本音を言えば、さーやだってこの一般参加者たちのように同人誌を買いに行きたいし、せっかくコスプレしているのだからコスプレ広場にだって行きたい。

 でも、今はサークルの手伝いをしないと。

 このサークルの売り上げが、お父さんの年収の大部分を占めてるんだから。

 それに――。

 いずれはさーやもお父さんと同じように同人誌を描いて売りたいと思っているので、きっと勉強になる。


「お久しぶりです、さーやちゃん」

「あ! リコさん!」


 Tシャツとリュックサックを背負った男たちばかりの中から、一際異彩を放つ美女が現れた。

 リコさん(本名は中野(なかの)理恵子(りえこ)さん。知っているけど、もうハンドルネームで呼び合うのがクセになってしまっている)は去年の夏コミで出会った大学生のレイヤー仲間で、今日も合わせ――一緒の作品でコスプレをする約束をしている。


「さーやちゃん、その“なのは”のバリアジャケット、自作……ですよね」

「お父さんにも手伝ってもらっちゃったけど」

「よくできてます」

「ありがと、リコさんのソニックフォームも結構決まってるよ。っていうか羨ましい。涼しそうで」


 リコさんは黒のレオタードを基調とした衣装にオーバーニーソックス。

 白とはいえ長袖にロングスカートのさーやの衣装は見てるだけでも暑そう……いや、もはや熱そう、かな。


「体調だけは気をつけてくださいね」

「あのさ、さーやに中野さん。悪いけど、雑談だったら後にしてくれる? 後ろつっかえてるし」

 お父さんに注意されて気がついたけど、列の整理をしてくれているスタッフの視線が痛い。

「ご、ごめんなさい。えと、新刊三部お願いします」

「あ、はい」

 慌ててリコさんはお父さんの新刊を買ってその場を後にした。


 確かに、忙しいし、暑いし、疲れるけど。

 それ以上に――楽しいから問題なし!


 その後も列は三十分くらい続いた……。


「完売まで一時間とちょっと、か。今回の新刊はもう少し用意しとくべきだったかもな」

 空になったダンボールを畳みながらお父さんがそう言った。

「でも、とらのあなとかにも委託してるんでしょ?」

 同じようにさーやもダンボールを畳む。

「まあな、でも直接こうやって手渡しで売る方を重視したいんだよ。せっかく並んでくれた人が買えないことがないようにさ」

「わからないでもないけど……」

「それより、この後どうする? サークル巡りしてくるのか?」

「それなんだけど……」


 さーやは空のダンボールの山をかき分けて、小さなショルダーバックを取りだした。

 その中から小さなメモ帳を取って、一ページだけ切り取る。

「お願い、お父さん。さーやがチェックしたサークルも一緒に見てきて」

 さーやが渡したメモ用紙を片手に、お父さんは少しだけ困ったような顔をさせたが、

「ずるいぜ。さーやの売り子はそれだけで売り上げに関わるからな……、俺が断れないとわかっていて用意しておいたんだろ」

「ううん、違うよ。お父さんならさーやの願いは聞いてくれると思ったからだもん」

「そりゃ、余計に質が悪いな。将来とんでもない悪女になったりしないだろーな」

「大丈夫だよ。さーやはお父さんの娘だし」

 ポカンと口を開けたお父さんをそのままに、さーやはサークルのスペースである机をくぐって通路に出た。

「じゃあ、コスプレ広場でリコさんと待ってるから」

 それだけ言い残し、人波をかき分けてコスプレ広場へと向かった。


 東館の1ホールから中央の通路に出る。

 通路のベンチは買い物を済ませた一般参加者がぐったりとした様子で座っていて、廊下の端にも座り込んでいる参加者が大勢いた。

 さーやは少しだけ早歩きで階段を目指した。

 コミ市に参加するのはこれで三回目なので、もう地図も柱に貼り付けられてある案内も必要ない。

 程なく階段は見つかって、そこから先は人の流れに身を任せているだけで目的地であるコスプレ広場――西館の屋上展示場へと着いた。

 まだ午前中だからか、コスプレ広場はそんなに混雑していなかった。

 今日は男性の参加者が多いコミ市三日目だから、コスプレイヤーも少なく、男性の参加者はほとんどがまだお買い物中だからカメコさんたちの姿も少ない。

 さーやはコスプレイヤー入場口から、コスプレ登録書を提示しながら入る。


 まずはなんといってもリコさんを探さないと。

 あんな素敵なコスプレ姿、見てしまったからには撮らないわけにはいかない。

 さーやもお父さんに負けず劣らずオタクであり、カメコでもあった。

 あのお父さんの娘なんだから仕方のないことだけどね。

 別に後悔しているわけじゃない。

 むしろお父さんには感謝してる。

 きっとお父さんの娘じゃなかったら、こんなにすばらしい世界があるなんて、きっと気付きもしなかっただろうから。


「あの、写真撮ってもいいですか?」

「へ? あ、はい」

 ボケッとしていたら、数人のカメコさんたちに囲まれていた。

「僕も一緒に撮らせてもらっていいですか?」

「え~と、はい。いいですよ」

「あ、じゃあ僕もお願いします」

「一緒にお願いしまーす」

 さーやがポーズを決めていると、次から次へとカメコさんたちが集まってくる。

 撮る側の気持ちもわかるし、撮られることは嫌ではないので、気軽に答える。


「目線お願いしまーす」

「はーい」

「さーやちゃん、こっち向いて」

 さーやを取り囲んだカメコさんたちの中には、前回や前々回のコミ市で知り合った人も来ていた。

「あの、私も一緒に写真撮っていいですか?」

 さーやを撮りたがるカメコさんはもちろん男の人が多いので、たまにこうして女の人に声をかけられると嬉しくて優先的に撮らせてあげたくなる。

「はい、どうぞ――って、リコさん。なにナチュラルにカメコに混じってるんですかっ!」

「うーん、怒った表情もなかなかキリリとしてていいですよ」

 リコさんは手を止めるどころか、ますますさーやにカメラを向けていた。

「いや、あの……。表情を作ってるわけじゃなくて、本当に怒ってるんですが」

「でも、なかなかいい写真が撮れましたよ」

 十数枚シャッターを切ってから、やっとリコさんはカメラの液晶から目を離してさーやの方を見た。


「何が“でも”なのかわからないけど」

「そんなことより、ここに来られたってことは小山内先生のサークルはもう完売しちゃったんですか?」

「その呼び方だと、なんかピンとこないけど、一応完売です」

 普段のお父さんを見ていると、とても先生と言う言葉は似合わないけど、稼ぎは少ないとはいえ一応プロの漫画家でもあるお父さんのことを指している。


「……あの……写真撮らせてもらってもいいですか?」

「え? ああ、はい」

 さーやがリコさんと話し込んでいる間も、カメコさんたちは困惑しながら待っていたようだ。

 さーやが了承すると、カメコさんたちはみんな一斉にカメラを構えた。

「それじゃ、せっかくだから私も一緒でいいですか?」

『是非!!』

 さーやも含めてその場の全員の気持ちが一つになった。

 いつも冷静で落ち着いているリコさんもさすがに驚いているみたい。

 さっそくさーやもカメラを構える。


「あのね、さーやちゃん。あなたは撮る側じゃなくて撮られる側でしょう?」

「う、リコさん。目が怖い」

「さっきの仕返しのつもりですか?」

 さーやはすごすごとカメラをショルダーバックに入れて、リコさんの隣に立つ。

 二人でポーズを決めるとあらゆる方向からフラッシュの光を浴びせられた。


 ――やっぱり、コスプレって最高に気持ちいい!


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