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週末、さーやがプリキュアのオンリーイベントに急遽参加することになった。
信志は最初からこのイベントに申し込んでいて、急遽ではない。
そもそもこのイベントに参加するから、この前のサンフェスでの新刊を多めに刷っておいたわけで。
今回の新刊はない。サンフェスでの新刊を売る場を増やすために申し込んだのだ。ペーパーも用意する気さえなかった。
サンフェスの新刊の在庫をそのまま全部ショップに卸してもよかったのだが、来週まで延ばしたのは、やっぱりイベントでの手売りが好きだからだ。
コミ市のように大きなイベント以外だとなかなか信志のファンも全員が参加するというのは難しい。
サンフェス新刊も仕事やら用事やらで買いに行けないというファンの声を聞いていたので、あらかじめオンリーイベントに申し込んでおいたのだ。信志のファン全員とまではいかなくても、二つのイベントに参加すればある程度は直接買ってもらえるはずだった。
このことはさーやにだけ知らせていなかった。
と言うのも、ここのところ連日運動会の練習とやらでがんばっているみたいだし、せっかくの日曜日にイベントに連れ回すのは酷だと思った。
今回は売り子の手伝いもいることだし、ゆっくりと家で休むようにさーやに言ったのがイベント前日の土曜日。
「はぁ!? じゃあ、明日はさーやは家でお留守番で、お父さんはイベントに参加するって言うの!?」
一言目ですでに失敗したなと信志は思った。
どうシミュレーションしても、さーやが一緒に行くというイメージしか出てこない時点で、負けは確定。
……いや、別に何に負けたというわけでもないのだが。
あえて言うなら、さーやを休ませたいと思う信志の親心が、さーやにはまったく伝わっていなかった。
「ほら、さーやは毎日リレーの練習でがんばってるだろ? その上売り子の手伝いなんて大変じゃないか。明日はこの前のサンフェスよりも規模の小さいオンリーイベントだし、他に売り子の手伝いもいるし、別にさーやに無理をさせてまで協力してもらう必要はないって言うか……」
もっともらしい言葉を並べてはみたが、言えばいう程自分でも説得力がないなと思った。
黙って信志の話を聞いていたさーやは、口元は笑ってはいるが目が据わっていてちょっと……いや、だいぶ怖いなと思った。
彩佳――亡くなった信志の嫁が怒る時もこんな表情をさせていた。
「ねぇ、お父さん。さーやにとって一番嫌いなことってなんだと思う?」
静かな問いかけ。一見優しそうに聞こえるが、とても内心穏やかではいられない。
この問題は、絶対に間違えてはいけない。そういう意味が込められていた。
小学生の実の娘を相手に、信志は身が縮むような思いだった。
「…………仲間外れにされること、か?」
考え抜いて出した答えに、さーやは少しだけ顔を綻ばせた。
「お父さんに、仲間外れにされること、だよ」
信志の答えから足りなかった言葉を強調して、正解を教えてくれた。
そういえば、さーやはクラスの女子たちから仲間外れにされてるんだっけ。
そのことで傷ついたりしていないのは、さーやにとってどうでもいい連中にどう思われていようと問題ではないからだ。
その辺は信志や彩佳と考え方が似ている。
仲間外れにされることはさーやにとって気にする程のことではない。
さーやは、好きな人たちに仲間外れにされるのが嫌なんだ。
「ごめん。余計な気遣いだったんだな」
「わかってくれたならいいよ。別にお父さんだって悪気があって言ったことじゃないってわかってるから」
なんだか、どっちが親なのかわからないような言い方だ。
「ってことは、明日は一緒に行くんだな?」
「当たり前でしょ。もちろん、ルリカも一緒だよ」
「はい、そうしていただけると助かります。ああいう場所は、そこにいるだけで私の力が満たされてきますから」
さーやの肩に座りながら、成り行きを見守っていたルリカが楽しそうに言った。
「ところで……売り子の手伝いって誰?」
「え?」
何という耳ざとい娘か。軽く聞き流してしまいそうな話もしっかりと記憶している。
まるでどこかの『見た目は子供、頭脳は大人』な名探偵のようだ。
「誰が売り子の手伝いをするの? 編集部の人?」
「いや……」
どうせ明日にはわかるんだし、隠す必要はないのだが、こう詰め寄られると答えにくい。
かといって、隠していると何かやましいことでもあるのかと疑われる。
観念して答えることにした。……って、これじゃまるで悪いことをしているみたいだが。
「中野さんだよ」
「え? リコさんが売り子を手伝うの? あ! へー……ふーん、それで……」
答えを知った途端、さーやはみるみる表情が変わって、仕舞いには見下すような視線を向けてきた。
「さーや、お前は何か誤解してる」
「いいよ、別に。そういうことにしておいてあげるから」
「だから、それが誤解だっての」
「そりゃーリコさんは美人だもん。二人きりでイベントに参加したいって気持ちはわからないでもないよ。それならそう言ってくれれば、大人しく留守番してあげたのになー」
「違う。断じてそんな気はない。ほら、さーやも参加するなら明日の準備をしたほうがいいぞ。せっかくだからコスプレもするだろ?」
「はいはい」
そう言ってさーやは自分の部屋へと戻っていった。
なぜか、敗北感でいっぱいだった。
こうして迎えた日曜日。
天気は朝から快晴で、実にイベント日和。
さすがに昨日のことをこれ以上引きずっていても仕方ないので、大人らしく気持ちは切り替えてある。
すでにサンフェスでの新刊は宅配便で搬入している。
今日の荷物は夏コミ以前の既刊を少し持っていくだけだ。
オンリーイベントだから、ジャンル外の既刊はあまり売り上げ的には期待していない。
ただまあ、新しい出会いもあるかも知れないし、少しでもファンを増やすための努力は惜しむべきではない。
折りたたみできるシルバーの台車を転がしながら、信志はさーやと一緒に最寄りの駅まで歩いて行った。
台車には両手で抱えられる大きさのダンボールを固定してあり、中身はもちろん既刊だ。
この格好はサンフェスや夏コミの時と変わらないが、一つだけ違うところがあった。
それらのイベントの時は、さらに肩に大きな筒状のケースをかけていた。
中身はポスターを飾るためのスタンドだったのだが、今回のイベントでは持ち込む気はなかった。
大きなイベントと違ってその気になれば全てのサークルの立ち読みをするくらい余裕がある。
遠くから目立つようなことをする必然性がない。
まあ、それでなくても今日はたぶん目立つと思う。
さーやは昨日あれから中野さんと連絡を取ったらしく、プリキュアのコスプレ衣装を持ち込むことにしたようだ。
夏コミの時と同じように小さなスーツケースを転がしている。中身はもちろん、衣装一式だ。
二人が売り子をしていたら、それだけで信志の同人誌に興味がなくても男どもが寄ってきそう……いや、寄ってくる。
駅に着くなり、信志は自分の予想が間違っていなかったことを確信した。
「あ、おはようございます」
「おはよー、リコさん」
美女と美少女の挨拶に、周囲の視線が集まったような気がした。
彩佳一筋で娘のさーやを溺愛しているにもかかわらず、中野理恵子さんは信志の心をぐらつかせる。
あまりに魅力的すぎる女性というのは、ある意味それだけで罪な存在だなと感じさせた。
って、こういうことを考えてると、またさーやに何言われるかわかったもんじゃないな。
さーやは自分の恋愛ごとになると鈍感なのに、妙に鋭いところがあるから。
「お父さん、いつまで惚けてるの。行くよ」
「いや、別にそういうつもりじゃ……って言うか、俺まだ挨拶してないけど」
信志の声を無視してさーやはどんどん行ってしまう。
中野さんはクスクスと可愛らしく微笑みながら、
「おはようございます」
そう改めて言って、さーやの後を追った。
信志も「おはよう」とだけ返して二人に続いた。
電車を二回乗り継いで一時間くらいかけてようやく目的地である駅に着いた。
今回の会場はオンリーイベントではよく使用される施設。
――大田区産業プラザPIO。最寄り駅の京急蒲田駅からは徒歩で数分だ。
学生時代は一般参加者として何度かオンリーイベントで足を運んだことがある。
サークルとしての参加は初めて。
信志の活動方針は基本的にオールジャンルの即売会がメインだった。
もちろん、その中心にあるのはコミ市で、それ以外のイベントは年二回しか開催されないコミ市の合間を考慮して参加している。
今回オンリーに参加したのは主に三つ理由があった。
一つは前述の通り、サンフェスだけではファンが買いに来るチャンスが少ないということ。
もう一つは、夏コミでの売り上げがよく、仕事も増えたので大きくないイベントでもある程度売り上げが期待できるんじゃないかと見込んだこと。
そして最後に、サンフェスでの新刊が初挑戦のジャンルだったこと。
プロの漫画家として事業拡大している今こそ、新たな顧客獲得のチャンスだと思って、以前から画策していた別のジャンルへの挑戦。
マンネリ感の漂っていた信志の個人サークルに新たな風を起こしたかった。
だが、それにはもちろんリスクも伴う。
古い付き合いのファンは信志が何を描くのかある程度わかっている。だから、安心して新刊を手に取ってもらえるし、そういうファンはほとんど立ち読みはしない。
しかし、ジャンルが違うと言うことはその前提が崩れると言うことになる。
案の定、今回の新刊は立ち読みをするファンが多かった。
中には以前からホームページ等で告知しているのに「なのは」の新刊はないのか聞いてくるファンまでいた。
それはある意味ではありがたいことではあるのだが、逆に新規の顧客にとっては近づきにくいサークルになってしまっていただろう。
そんなわけで、サンフェスでは新刊は完売しないだろうと予想していた。
ちなみに部数は夏コミに比べたらさすがに数は落としたが、前回のサンフェスよりは多く刷った。
このオンリーで売れ残ったら、それは全部ショップに卸すことになるだろうが、できればこのイベントで完売したらいいなと、淡い期待も抱いていた。
駅から出るなり、信志はショルダーバッグからサークル参加の案内書が入った封筒を出し、それに記されている簡略化された地図を見る。
一般参加したのはもう何年も前だから道順なんて覚えていない。
「ねぇ、お父さん」
「何だよ、今地図見てるんだから――」
「たぶん、あの人たちについて行けば着くと思うな」
さーやが服の袖を引っ張ってきた。
何のことを言っているのかと、めんどくさそうにさーやの指した方を見ると、見るからに同じ目的の人たちがぞろぞろと歩いていた。
「行きましょうか」
またもやクスクスと笑いながら中野さんがそう言った。
信志はため息をつきながら二人に従った。
会場には滞りなく辿り着いた。だから、さーやの判断は間違っていなかった。
それについて、さーやは何も言わなかった。
まだまだ子供だな。
こういう時は子供に気を遣われる程惨めなことはないというのに、そう言うところまでは空気を読めないようだ。
会場の前はすでに一般参加者の列が形成されていた。
スタッフが声を上げて一般参加者たちを誘導している。
信志たちは一般参加者の列を横目に、開かれている入り口から中に入った。入り口にもスタッフがいると思ってサークル入場証を用意したが、そこでは必要なかった。
それが必要だったのは大田区産業プラザPIOの入り口ではなく、今回の会場となっている、大展示ホールの入り口だった。
ここまで、あまり大きくないと表現してきたが、大展示ホールはこの施設の中でも一番広いホールで、体育館二つ……いや、三つ分くらいあるだろうか。
一般参加した時とは、また少し感覚が違った。
大展示ホールは正面の道路に面した入り口が全面ガラス張りで、一般参加者の待機列がよく目に入る。
期待と不安を混ぜたような気持ちになりながらも、信志は自分のサークルスペースを探した。
事前にわかっていたことだが、信志のサークルの配置は壁だった。
確かに今年の夏コミでも壁だったから、これくらいのイベントならば納得のいく場所ではある。
しかし、そこにプレッシャーのようにサンフェスでの在庫のダンボールが並べられているのを見つけて、少しだけここでいいのだろうか、と言う気持ちになった。
「じゃあ、お父さん。さーやとリコさんは着替えてくるから」
「ああ」
「え? いいんですか? 設営のお手伝いは?」
そういえば、中野さんは信志のサークルのファンであり、いつも中身を見ないで買っていく、付き合いの長いファンでもあったが、こうしてサークル参加の手伝いをしてもらうのは初めてだった。
まあ、普通はファンに手伝ってもらうというのは、ちょっと気が引けるしな。
そういう意味ではさーやが個人的に付き合いがあるというのはラッキーだった。
「リコさん、それはお父さんに任せていいよ。たぶん、さーやたちがいてもあまり役には立てないと思う」
すでに信志のサークルを手伝ったことのあるさーやが先輩風を吹かせて素っ気なくそう言い更衣室へと向かった。
「……いつもそうなんですか?」
心配そうに聞いてくる。
「うん、まあね。こっちはいいから着替えて来なよ」
信志がはっきりそう言うと、理解力の高い中野さんはそれ以上聞こうともせずにさーやの後を追った。
設営と言っても本を並べるだけだ。
サークルスペースは一つ当たり90㎝しかない。よほどの大手でスペース二つ分取っている例外を除いて、壁だろうが島中だろうが広さは同じ。
椅子も二人分しか並べられていないし、その狭いスペースに三人で準備をしていても特に早く終わるわけではない。
むしろ、邪魔になる可能性の方が高い。
新刊は別のダンボールにまとめてあるから兎も角として、既刊は手持ち搬入した一回り小さいダンボールに詰め込んであって、信志でなければ何がどの辺りにあるか把握していない。
一人でスペースを広く使った方が設営は早く終わるのは道理だった。
元々さーやたちは売り子の手伝いとして期待しているので、早く着替えて戻ってきて欲しいというのが本音だった。
……無論そこには二人のコスプレ姿が見たいという欲も含まれてはいる。
サンフェスの時も見たけど、あの時は中野さんは一般参加でさーやを伴って撮影できるスペースの所へ行ってしまったものだから、二人のコスプレ姿はほとんど見られなかった。
今回はそのリベンジも兼ねている。
信志は本を並べ、サークル参加登録票と見本誌を本部に持っていく。
本部と行っても別の部屋にあるわけではない。
サークルスペースと同じ長机に二つ分のスペースを使って本部としていた。
初めて参加したオンリーイベントとはいえ、準備はそれ以外のイベントと大きな差はない。
滞りなく準備を終えてサークルスペースに戻ると、着替え終わった二人に出迎えられた。
「おかえりー」
「お帰りなさい」
思わず写真撮ってもいいですか、とカメコのように聞きたくなってしまった。
二人のコスプレはサンフェスの時と同じだが、あの時はこうして間近に見ることはできなかった。
中野さんもさーやも当たり前のように似合っていた。癪に障るが、二人を見ているとさーやも連れてきて正解だったと言わざるを得ない。
この二人が揃って売り子をしているというのは、少し卑怯かなと思うクオリティだった。
「ねぇ、お父さん。今日は新刊ないの?」
信志の葛藤を知ってか知らずか、さーやは編集者よろしく質問してきた。
「ああ、サンフェスの新刊を直接売る機会を増やすために申し込んだイベントだからな」
「……やっとわかった。それでいつものサンフェスよりも多く印刷したんだ」
「まあな」
「……なんだか、緊張しますね。さーやちゃんは大丈夫?」
「うん、もう慣れてるから」
「そういえば、中野さんはサークル参加初めて?」
「はい、私には絵の才能はないので、同人誌を描くということは……」
「ああ、いや。そうじゃなくて大学のサークル活動とかで参加したことがないのかなって」
これほどの美女が同級生にいて、おまけにオタクだったら誘われそうなものだ。
あるいは、利用するために駆り出されそうなもの。
……信志にしたって、ただのお手伝い以上に期待している部分はあるのだから。
「……私、大学ではサークル活動に参加してないんです」
少し表情が曇ったような気がして、これ以上深入りするのはよくないかなと思った。
「そうなの? どうして?」
しかし、さーやが口を挟んだので、信志が気を遣ったことは無意味になった。
「こら、さーや。そういうことを聞いたら悪いだろ」
「いえ、いいんです。大学の友達や先輩にはアルバイトがあるのでってお断りしてるんですけど、本音を言えばそういうグループに所属したくないんです。いつでも自由に自分の好きなものを楽しみたいので」
「それじゃあ、今日は申し訳ない頼み事をしちゃったかな」
「そんなことはありませんよ。参加したくなければ、私は断りますから」
それを聞いて安心したというか、ちょっと感心した。
美しさばかりに目を奪われてしまいそうになるが、中野さんはしっかりと自分の考えを持つ、精神的に自立した大人な女性だった。
「お父さん、そろそろ時間だよ」
さーやに言われてスマホのディスプレイを見ると、十一時になろうとしていた。
『それではただいまよりプリキュアクリエイションを開催します――』
アナウンスが流れ、拍手が会場に広がる。それが鳴り止まないうちに正面の扉から一般参加者が入場してくるが……。
何というか、夏コミやサンフェスと違って随分と余裕がある。
まあ、その二つと比べる方が間違っているが、押したり走ったりすることなく、実にまったりと入場が続いていた。
それでも壁サークルのいくつかはすでに待機列が形成されている。
おそらくは今日の新刊が用意されているところだろう。
新刊がない信志の所は、それでもぽつりぽつりと客が訪れていた。
開場してから三十分が過ぎた時、椅子に座って売り子をしていたさーやが振り返った。
ちなみに、信志は追加の椅子を借りてきて、二人の後ろでゲームをやっていたりする。
「お父さん、交代」
それだけ言うと、さーやはサークルスペースの前に出た。
「んー、わかった。あまり遅くなるなよ」
どこに行くのかは聞く必要ない。
同人誌即売会に来て、何も買わずに帰るということはない。
さーやは一般参加者の列に紛れて流されるように他のサークルを見に行った。
信志は携帯ゲーム機をしまい、さーやが座っていた席に座る。
さすがに売り子をしながらゲームをしているというのは、格好が悪い。
「……意外でした」
不意に隣りに座って笑顔を振りまいている中野さんが表情を変えずに言った。
「えーと、何が?」
さーやと違って、中野さんが何を言っているのかはわからなかった。
「夏コミの時、すぐに完売していたので……今日もあれくらい忙しくなるのかと……」
あまり歯切れがよくないのは、気を遣っているからだろうか。
「いやいや、壁サークルとは言っても今日は新刊もないし、うちのサークルの規模だとこんなものだよ」
コミ市とは一般参加者の数に大きな開きがある。
オンリーイベントのいいところはこのまったりとした雰囲気の中でゆっくりと同人誌を見て回れるところにある。
「ってことは、中野さんはオンリーイベント自体初めてだったってこと?」
「あ、はい」
「それでよく売り子の手伝いを引き受けてくれたね」
「それは――」
「あの、見せてもらっていいですか?」
中野さんが何か言いかけた時、信志のサークルの前にお客さんが来た。
よれよれのシャツにジーンズ。リュックサックを背負い、眼鏡をかけたひょろ長の男。その右腕には紙袋が提げられていて、今日の新刊をゲットできたのだろう。
「どうぞ」
信志が返事をすると、そのお客さんはサンフェスの新刊を手に取りぱらぱらとページをめくる。
すぐに閉じてしまったので、ダメかなと思ったが、何やらポケットをまさぐっている。
信志は中野さんの肩を指で叩いて目配せをした。
新しい顧客獲得だ。信志が対応するより、中野さんが対応した方が良いだろう。
お客さんがやっと財布を取り出したところで、中野さんは最高の笑顔を向けた。
「え、えと……これ、一部ください」
少しだけうろたえながら、おずおずとサンフェスの新刊を指した。
「ありがとうございます。五百円頂戴いたします」
普段コンビニでバイトしているという接客の技は遺憾なく発揮されていた。
こんなに社交性があるように見えるのに、サークル活動には興味がないというのは、それこそ意外だなと思った。
それからもちょくちょくお客さんがやってきて、お昼頃には新刊のダンボールの一つがなくなった。
残りは二つ。この調子だとショップに卸すことになるかな。
そう思いながら、信志は気にかかっていることがあった。
そもそもこのオンリーイベントに参加するきっかけになった話。
サンフェスに参加できないファンがいたから、このオンリーに申し込んだのだ。
それなのに、彼らの姿をまだ見ていない。
古い付き合いのファンは名前こそハンドルネームしか知らないが、だいたい顔も覚えている。
今週も何か用事が入ったのだろうか。
彼らはサラリーマンだと言っていた気がするし、そういうこともあるかも知れない。
……しかし、信志のブログのコメントには参加すると書かれていたのだが……。
これから来るのか、それともすでに来ていて他のサークルを見て回っているのか。
「ただいまー」
会場を見渡そうとした信志の視界に、同人誌を数冊抱えたさーやが入ってきた。
「お帰り、さーやちゃん」
「あれ? リコさんずっとお父さんの手伝いしてるの? 買い物しなくていいの? せっかくイベントに参加してるのに」
さーやは衣装を入れてきた小さなスーツケースに同人誌をしまいながらそう言った。
「でも、今日は売り子として参加しているので……」
「いやいや、そこまで気を遣わなくていいよ。さーやも帰ってきたことだし、ちょっと見て来なよ」
律儀な中野さんにこれ以上気を遣わせてしまったら、罪悪感に苛まれそうだ。実のところ客寄せとしては十分役目を果たしてくれていた。
今日サンフェスの新刊を買っていったお客さんのほとんどが新規顧客だった。
一応中身を見てから買ってくれているから、ネタも評価してもらえたのだろうが、こういうまったりとしたイベントでは立ち読みしてもらうことが大事だったりする。
美女が売り子をしていたら、取り敢えず見てみようという気にはさせる。
悲しいかな、男なんて所詮そんなものだ。
「そうそう、ずっとお父さんの話し相手になってたんじゃ疲れたでしょ」
「……いえ、楽しかったですよ。でも、せっかくですから私も新しいサークルを開拓してきます」
中野さんが立ち上がり、入れ違いにさーやが座る。
そのままぺこりと頭を下げて「行ってきます」と言い、一般参加者の中に紛れていった。
「ねぇ、お父さん。凄く嫌な感じがする」
さーやが急に信志にだけ聞こえるくらいの声で言った。
「嫌な感じ?」
「さっき、ルリカとも話したんだけど……何かが起こってる気がするの」
さーやの真剣な眼差しは真っ直ぐ前を向いていて、会場を見渡しているようだった。
中野さんに席を外させたのは、この話をするためだったのだ。
「まさか、ここに悪の妖精がいるって言うのか?」
「ううん。それならさすがにルリカが気付いてる。そうはっきりしたことじゃなくて……」
「違和感?」
「それ、その言葉が凄く当てはまる」
奇しくもそれは信志も抱いていた感覚だった。
「何かがいつもと違うの。でも、それが何かわからない」
さーやの言う悪い予感は、それだけでも十分信志の不安を煽る。
何しろ、魔法少女の言葉だ。
これほど説得力のある不安感というのも他にはないだろう。
さっきまでの違和感は、すでに不安へと変わってしまっていた。
改めて会場を見渡す。
さーやはすでに席に座ってそうしているようだった。
……だが、二人の暗い気持ちとは裏腹に、イベントは特に問題もなくまったりと時間だけが過ぎていく。
そうしているうちに、中野さんが戻ってきた。
「ただいま戻りました……ってどうしたんですか? 二人とも凄い目つき。それじゃ、誰も寄りつきませんよ」
何冊かの同人誌を大きめのショルダーバッグに詰めながらそう言った。
確かに、中野さんが席を離れてから、同人誌は一冊も売れていなかった。
いや、それどころではないのだ。
「さーや、ルリカも連れて三人で会場を回ってみないか?」
さーやに耳打ちすると、同じことをさーやも考えていたようで、コクリとうなずいた。
「リコさん。悪いんだけど、少しだけここを任せてもいいかな。お父さんと見に行きたいサークルがあるんだ」
こういうことはさーやから言った方がいい。信志は演技が苦手だから、ポロッと余計なことを言ってしまいかねない。
つくづく、さーやには小悪魔の素質があるようだが。
今はそうもいっていられない。
「ええ、構いませんよ。楽しんできてください」
微笑んで送り出してくれた。ちょっとだけ罪悪感。しかし、これも全てオタクの世界の平和のためだ。
いそいそと自分のサークルスペースを出たものの、信志たちに行く当てはなかった。
そもそも、ルリカがすでにここに悪の妖精はいないと言っているのだ。
何かが起こっているかも知れない、を探すのは困難を極める。
それでもじっとしていられなかったのは、さーやがすでに悪の妖精と戦ったことがあり、信志がその被害者になってしまったからだった。
サークルスペースを順に回る。
たまに立ち読みしてみたくなるサークルもあったが、さーやに引っ張られるようにして会場を回った。
結局これといって収穫もないまま、会場の端に設けられているコスプレ撮影スペースまでやってきてしまった。
コミ市やサンフェスのように、コスプレ写真を撮るにはこのスペースでなければならない。
同じようなルールになっているのは、そうしなければそこここで撮影会が始まって収拾が付かなくなってしまうからだろう。
「どうした? せっかくだから写真でも撮るか?」
さーやがコスプレ撮影スペースを見ながらボケッとしていたので聞いた。
今回の衣装はサンフェスでも着ていたし、すでに写真も撮ってあるが、違う会場でも記念に撮ってもいいだろう。
ただし、今日はデジカメを持ってきていないからスマホでの撮影になってしまうが。
「……わかった」
「は?」
一瞬、さーやが何を言っているのか理解できなかった。
さーやのことならばあうんの呼吸で何でもわかるはずなのに。
「違和感の正体だよ」
「どういうことだ?」
「今日は一度もコスプレ写真を撮ってもいいかって声をかけてもらってない」
コスプレをしている人が全て写真を撮ってもらうわけではない。
だから、普通に考えたら、それはたまたまそういうイベントの時もあるだろうで済む話だ。
しかし、さーやの場合、それはありえない。
さーやのコスプレ写真は信志の個人サークルのホームページにも専用のコーナーが作られているが、それ以上にファンサイトの方がよりよく尚かつより多く掲載されている。
コスプレイヤーとしてのさーやの知名度は、ある意味信志以上。
そこらの名の売れていないアイドルより有名だ。
もちろん、そこまで有名になるとファンクラブ的なものも勝手に作られている。
信志もさーやもそれを公認しているわけではないが、二人の邪魔にならない限り黙認する構えでいた。
彼らの中心はコスプレの写真を撮るカメコであり、それに所属するカメコは必ず誰か一人さーやが参加するイベントに参加していた。
信志が売り子としてさーやが参加するかどうか、ブログで告知してもしなくても、だ。
今回だってさーやの参加は突如決まったが、信志のサークルは前々からこのオンリーに参加すると告知していた。
さーやを撮影するカメコが一人も参加していないというのは、あまりに不自然だった。
思い返せば、サンフェスに参加できないと言っていた例のファンも、さーやのカメコの一人。
「そういえば、今日俺のサークルに新刊を買いに来たお客も、新しい人ばっかりだったな」
「さーやたちのファンに、何かが起こっている?」
「そこまではわからないな」
中野さんはさーやと個人的に付き合いがあるから連絡先を知っているが、それ以外のファンに信志の個人的なアドレスは教えていない。当たり前だけど。
これ以上は、信志とさーやにはできることはなかった。
信志が初めてサークル参加したプリキュアクリエイションは何事も起こることなく無事終了した。
信志たちが去って以降、一人残された中野さんのお陰で、新刊のダンボールはもう一つ分なくなった。
ショップに卸す数は、予想よりもだいぶ少なくなりそうだった。
それは素直に嬉しかったのだが、さーやも信志もそれどころではなかった。
違和感の正体に気付いたまではよかったが、それから先打つ手がないことにも気付いた。
せっかく中野さんに手伝ってもらったのに、ほとんど話ができないまま帰路についた。
途中から思いきり落ち込んでいたさーやを見て、中野さんも気を遣ってくれたのか、あまりそういう雰囲気にならなかった。
朝、三人が集合した駅まで戻ると、
「あの……今日はありがとうございました」
そう言って中野さんが頭を下げた。
「いや、それは俺のセリフじゃない?」
先に言うべき言葉を奪われてから、信志は自分たちのことばかり考えて、失礼なことをしてしまったと思った。
初参加のイベントで結果を残せたのは、中野さんのお陰なのに。
己にふがいなさに自己嫌悪に陥っていると、中野さんはそんな信志の心を癒やしてくれる優しい笑顔で言った。
「いいえ。今日は小山内先生のサークルの関係者として参加できて、本当に楽しかったんです。もし、また機会があったら誘ってくださいね。さーやちゃんも、約束ですよ」
「う、うん」
さーやは頭の回転が速い子だから、中野さんがわざとらしく明るく振る舞っている理由も理解しているはずだ。
中野さんと指切りをして、一緒にイベントに参加する約束をした。
「それじゃ、また」
「うん、またね」
「俺はたぶん、水曜日には会うことになるかな」
中野さんは信志の近所のコンビニでバイトをしている。
週刊誌はほとんどそこで買っている常連だ。
「じゃあ、『サンデー』を用意して待ってますね」
少しだけ苦笑いを浮かべてそう言い、手を振って別れた。
信志とさーやも軽くなった荷物を引きながら、来た道を帰った。
「……どういうことだ? これは……」
違和感ばかり募ってしまって気味が悪かったので、夕食を食べて落ち着いてからパソコンでさーやのファンサイトを開いた。
それを見た瞬間、思ったことが勝手に口をついて出てきた。
さーやのファンの連絡先はわからなくても、さーやのファンサイトには彼らのブログもリンクしてあるから何かしらのことがわかるかも知れないと思っていたのだが……。
「さーや! ちょっときてくれ」
呼びかけると隣の部屋にいたさーやはルリカと一緒に信志の部屋へ入ってきた。
「なあに?」
「……今日、イベントでさーやのファンが来ていなかった理由がわかったぞ」
「どういうこと?」
親子だからなのか、さーやは信志と同じことを言った。
さーやにもパソコンの画面を見せると、表情まで同じになってしまったみたい。
それもそうだろう、さーやのファンサイトを開いたはずなのに、全くの別人の写真ばかりが掲載されていたのだ。
開いたページを間違えたのかとも思ったが、ブックマークから飛んできたサイトだ。間違えるはずがない。
「この写真……源内さんのだ……」
「知ってる子なのか?」
「うん、クラスメイトの源内心愛さん。確か、読者モデルをやってるとかって」
「つまり、さーやからその子に乗り換えたのかねー」
「……違うと思う」
信志も本気でそう思っていったわけではなかった。さーやのファンサイトはさーやがコミケでコスプレするようになってから有志が作ったもので、すでに二年以上もさーやだけを追いかけている。
信志が作ったさーやのコスプレ写真を載せたホームページよりも充実しているのに、そう簡単に宗旨替えするはずはない。
……まして、こんな化粧で素顔を隠しているようなケバい女の子はさーやとはあまりに対照的すぎる。
「……ルリカ、これも悪の妖精の仕業なのかな……?」
「これだけでは、さすがにそうと言い切ることは……ですが、さーやさんの関わる人に何かが起こっていることは確かなようです」
「さーや。その源内って子、気をつけていた方が良いかもしれないぞ」
「うん……」
さーやは気持ちのこもっていない返事をした。まるで、ため息そのものを吐き出すような。
それもそれで気にはなったが、信志には締め切りの方が大事だった。
何しろ運動会の場所取りは大変だと聞いているから。当日どころか前日まで締め切りに追われているわけにはいかない。
だから、ルリカが悪の妖精の仕業だと断定できない以上、信志にはできることはなかった。