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池袋のサンシャインで行われたイベントもそれなりに成功して終わった。
それなりに……なのは、コミ市の時みたいに完売しなかったのだ。
都内で季節ごとに開催されている、歴史の長いイベントだから、参加者も多いはずだけど、さすがにコミ市と比べると規模が違うからってお父さんは笑ってた。
余り落ち込んではいないみたいだったのは、それも織り込み済みだったのかな、とは思う。
ただ、コミ市での成功があったからか、今回は結構部数があるのだ。
あの在庫、どうするつもりなんだろう。
……そういえば、今回は同人ショップでまだ売っていないから、そっちに卸すのだろうか。
お父さんのことだから、きっと何か考えているはず。
朝食のトーストをかじりながら、新聞を見ているお父さんをじっと見つめた。
何かを探るようなさーやの視線に気付いたのか、お父さんは新聞を畳んで見つめ返してきた。
「……何だ?」
「ううん、何でもない。それよりも、今日から例のリレーの練習が始まるから、帰るのがちょっと遅くなるよ」
「え? そうなのか?」
少しだけ心配そうな顔をさせた。
そういえば、選手に選ばれたことは言っておいたけど、練習については言っていなかった気がする。
「何時頃になるんだ? あんまり遅くなるようなら、迎えに行くぜ」
こういうところ、やっぱり過保護だなって思う。
小学四年生にもなって、迎えにくるだなんて。
お父さんと一緒に帰るって言うのは、嫌じゃないけど。
これくらいで甘えるわけにはいかない。
確か今月も結構締め切りギリギリのはずだ。
「お父さん、さーやの運動会を見たいなら、締め切り守らなきゃダメだからね」
「――う! 痛いところを……」
授業参観の時はなんとかなったものの、運動会は学年ごとに全員参加の競技とかあるからさーやも何時頃に出番があるとははっきり言えない。
リレーだけは最後って決まってるけど、それも進行によっては時間がずれる。
だから、さーやの活躍を見たかったら、朝から見るしかない。
今回はきっちり締め切りを守らなければならないのだ。
「わかってるよ。今回は三重にバックアップも取ってるしこの前みたいなことにはしない」
まるで、運動会の選手宣誓のように手を挙げてそう言った。
余った左手でスマホを持ち、画面を見た。
「ま、最近は学校から送られてくる不審者メールもないし、心配ないかな。――何より、さーやは魔法少女だしな」
「そういうこと」
「……あの、それって相手が素人でも魔法少女の力を使うつもりですか?」
リビングでテレビを見ていたルリカが台所にやってきた。
ルリカは妖精だから、人間のように食事はしない。
それでどうやって生きていられるのかと聞いたら、さーやたちみたいな二次元世界を愛する人の想いが直接ルリカの力になっているらしい。
この世にオタクが存在する限り、ルリカは永遠に生きられる、と言うことだった。
だから、ルリカは世間の様子に常に目を光らせている。
変わったことが起これば、そこには悪の妖精が絡んでいると言うことになる。
テレビのニュースなんかをよく見ているのは、そのためでもあった。
「違うよルリカ。小学生の女の子を狙うような輩は、すでに悪の妖精に汚染されてる。そういう人たちも魔法少女の力で救ってあげなきゃ、二次元世界なんて守れないよ」
「モノは言いよう、と言うヤツですね」
呆れたような声でそう言ったものの、いざとなったらルリカは手を貸してくれるはずだ。
さーやが危ない目に遭って一番困るのはきっとルリカだから。
「ルリカ、そろそろテレビ消して。行くよ」
「はい」
ルリカはリモコンを律儀に両手で押して、二階へ向かった。
さーやはもちろんランドセルを背負って玄関へ向かう。
「行ってきまーす!」
このところ天気には恵まれてる。
イベント当日も、今日も雲一つない青空だった。
この調子ならきっと、運動会当日も晴れるに決まってる。
まだ走る練習をする必要なないのだけれど、妙にテンションが昂ぶっちゃって、登校班の集合場所まで走って向かった。
運動会の練習は体育の時にもやっている。
ただし、それは学年全体が参加する競技に限られる。
個人競技はほとんど自主練するしかなかった。
それも、できる競技は限られる。
だって、障害物競走とかは、練習のためにいちいちコースを用意することはできないから、そういった競技は練習なんてできない。
玉入れとかも体育の授業では練習するけど、放課後勝手にみんなが道具を出して練習することはできなかった。後片付けが大変だし、何か事故があったとき先生も対処が難しいからだろう。
その結果、放課後わざわざ居残りで練習しているのは、主にリレーに参加する選手ばかりだった。
グラウンドのトラックはそう何度も使えない。
クラス対抗リレーはちょうどさーやたちの学年から行われる。
つまり三学年、四クラス。計十二チームが練習している。
そのみんなが一斉にトラックを使ったら、事故が起こるのは必然。
そんなわけで、トラックを使っての練習は時間で学年ごとに区切られている。
一応事故が起こらないようにと、時間ごとに各学年の先生が交代でみんなの様子を見に来ている。
最初にトラックを使って練習できるのはさーやたちの学年だったけど、今日はトラックを使っての練習はしない。
加藤君と等々力が、まだそういう段階じゃないって言って、一緒にグラウンドの端に移動した。
そこは他の競技の人たちも何人か練習していた。
……よく見ると、他の競技と言っても一つしか練習していなかった。
全員参加の競技ではなく、練習するのに場所を必要としない。しかし、練習するとしないでは結果が大きく変わると思う。
リレーもバトンの受け渡しとか大事だけど、ある意味それ以上に呼吸を合わせるのが大事な競技――つまりは二人三脚の練習をしていた。
さーやたちは二人三脚の練習の邪魔にならないように軽く準備運動をすると、
「それじゃー、まずお前走ってみろよ」
前置きもなくいきなり等々力がそう言ってきた。
「……さーやだけ?」
「当たり前だろ。正義が速いのは知ってるし、俺が速いのも知ってるよな」
「それはそうだけど……だいたい他のメンバーは? リレーって六人で走るんじゃなかったっけ?」
今さらだけど、放課後リレーの練習のために集まったのはさーやたち三人だけだった。
トラックを使って練習しなかったのは、そのせいでもある。
全員揃っていないのにトラックで練習しても意味はない。
「他の連中は塾だと、まー……ずる休みっぽいのもいたけど、やる気のない連中を無理矢理参加させても意味ねーだろ」
「……そういうこと。僕としては小山内さんさえ練習に参加してくれたらそれで良かったんだけど」
加藤君は腕組みをしながら等々力に挑戦的な視線を送っていた。
「あ? 何言ってんだてめー。それは俺のセリ――ゲ、ゲフン、ゲフン。ってゆーか、正義も塾行ってんじゃなかったか?」
等々力も負けずに言い返そうとするが、言葉を途中で濁して話題を変えた。
……何を言いかけたんだろう。
「運動会までの間は休むことにしたんだ。別に、塾へ行っても行かなくても僕の成績は変わらないし」
「……それ、加藤君以外の人が言ったら嫌味にしか聞こえないよね」
「いや、俺にとっては正義が言っても嫌味にしか聞こえねー」
さーやたちの妬ましい声を、加藤君はさわやかな笑顔で躱して、話を戻した。
「そういうわけだから、取り敢えず今の小山内さんのタイムを知っておきたいんだ」
「わかった。でも、本当に速くないんだからね。あまり期待しないでよ」
走る前から言い訳をして、さーやは位置に着いた。
等々力の、「よーい、どん」で駆け出す。
体育の成績が平均的で、それほど運動が得意ではなくても、イコール体育嫌いではない。
体を動かすのは、どちらかというと好きだった。
脳裏に、昨日見たスマプリの映像が思い出される。
一生懸命走っていたやよいちゃんのように、さーやも歯を食いしばり地面を強く蹴る。
周りの景色が流れるように変わり――五十メートル付近で待ち構える加藤君が近づいてくるのがわかる。
自分も風になったような気持ちで、加藤君の前を通り過ぎて、地面を滑るようにして止まった。
ストップウォッチを片手に難しい顔をしている加藤君に、ちょっと気が引けたけど近寄る。
「どう……ハァ、ハァ……何か、参考に……なった?」
息も切れ切れに聞く。
「う~ん。まあ、正直に言うと、平均的だね」
わかってはいた。アニメの影響で気持ちだけ速くなったような気がしても、そう簡単に速くなったりはしないのだ。
「それで、どうするの? 三人だけでもバトンの練習する?」
「いやいや、それよりも小山内のダメなところを何とかするのが先だろ」
等々力が駆け寄ってそう言った。
さすがにその言葉は聞き捨てならない。
「さーやの何がダメだって?」
「そりゃ、お前……走り方だよ」
「走り方にダメとかあるの? だいたい、一回走ったくらいで等々力にそんなことがわかるの?」
等々力に指摘されたことがムカついて、いつものように言葉を返す。
でも、等々力はいつものようにムキになったりはしなかった。
得意分野だから自信があるのだろう。
余裕を浮かべた表情が目についた。
「そりゃ、お前。典型的な女走りだもんな。腕は横に振ってるし、そのせいで体もぶれてるし。とにかく格好わりぃ」
身も蓋もない。余りに容赦のない評価に、怒る気さえ沸いてこない。
ま、事実を突き付けられて怒るのは、さすがに筋違いだと思ってるけどさ。
等々力は言葉を選べるような紳士ではないし、クラスの女子たちと違って嘘はつかない(と言うより付けない)性格なところだけは嫌いじゃない。
「でも、小山内さん。これだけ直すべきところがはっきりしてるんだから、運動会までにきっと速く走れるようになれると思う」
さーやの肩に優しく手を置いて、加藤君がフォローしてくれた。
落ち込むところだったけど、そういう前向きな考え方もあるのか、と感心した。
……モノは言いよう、と言うヤツだろうか。
どこかで聞いたような言葉だけど。
「おい、どうでもいいけどいつまで小山内の肩を抱いてるつもりだよ」
「あ、ご、ごめん。そういうつもりじゃ……」
そう言って慌てて加藤君が離れた時、女子たちの笑い声が聞こえてきた。
それはグラウンドではなく、学校の敷地を隔てる金網の外――道路から聞こえてきたのだ。
その道は学校の登下校に使われる道で、ちょうどさーやたちや二人三脚の練習をしている人たちが見渡せる。
「……走るのは苦手でも、男を誘惑するのは上手いのねー」
明らかにさーやに向けられた言葉は、源内さんの取り巻きの一人が発した。
ランドセルを背負って、源内さんとその取り巻きが四人並んでガードレールに座っていた。
「ホーント、それが目的でリレーなんか引き受けたんじゃない?」
「お前一人が恥をさらすのは勝手だけど、私たちのクラスに迷惑かけんなよ、ビッチが」
取り巻きが罵っている間、源内さんはプイと遠くを見たまま決してさーやと目を合わせようとしなかった。
等々力が彼女たちの前にあるフェンスを蹴り飛ばした。
「うるせーな! 邪魔するつもりなら失せろ! クソブスどもが!」
「何よ!」
また教室でのように言い合いになりそうになったところで、加藤君が間に入ろうとした。
「帰るわよ」
――だけど、つまらなそうに源内さんが一言ぽつりと言って歩いて行く。
「あ、待ってよ心愛」
アヒルの親子のように取り巻きたちは源内さんに付いていった。
「ったく、あいつら何がしたかったんだ?」
「……さぁ……」
等々力と加藤君はお互いに顔を見合わせて不思議がった。
「あまり、気にしない方が良いよ」
さーやにだけ聞こえるように加藤君が言った。加藤君だけが気を遣ってくれたのは、きっと等々力は本当にあの人たちが何をしたかったのかわかっていなかったのだろう。
さーやが女子たちの中で孤立しているということは、男子はあまり気付いていない。
等々力がそれを知ったら、さーやに対して気を遣うようになるかも知れない。
でも、それはさーやの望むことではなかった。
等々力とは今のように正直に文句を言い合えるような関係の方が望ましい。
全てを察した上で、加藤君はさーやにだけ聞こえるように言ったのだ。
……さーやは年齢に比べて大人びていると自覚しているけど、加藤君はそれ以上に大人な人だった。
ただ、少し間違っているのは、さーやはあの人たちの悪口に関してまったく気にしていない。
はっきり言えば、相手にしていない。
例えば、小鳥たちが人間に対して悪態をついていたとしても、聞き耳ずきんでも持っていなければそれは伝わらないわけで、人間にしてみれば可愛らしい音色で鳴いているな、くらいにしか思えない。
本当の意味がどうであれ。
さーやにとってはあの人たちの悪態はその程度のものでしかない。
意味のない言葉はさーやには届かない。そんなものは本当の意味で聞くだけの価値のない言葉だから。
そういう意味では、唯一気になる言葉はあった。
源内さんが放った、力のない言葉。
友達と一緒で楽しいはずなのに、それを感じさせない去り際の言葉だけは、なぜかさーやの耳に残った。
「気を取り直して、練習の続きをしよう」
「ああ、そうだな。取り敢えずは小山内の走り方を何とかしよう」
「ええ~、なんでさーやだけー」
わざとらしい不満を言いながら、元の調子に戻した。
それから二人はずいぶん熱心に走り方を教えてくれた。
腕は真っ直ぐに振るだとか、足は空を飛ぶような感覚で蹴り出すだとか。
意外にも等々力は体育が得意なだけあって、教え方も上手かった。
もちろん、加藤君が教え上手なのは、練習する前からわかっていたこと。
でもこれじゃあせっかくリレーの練習のために集まったのに、さーやのための集まりになっちゃうから一応最後にバトンの受け渡し方だけは練習した。
走りながらじゃなくて、三人並んでバトンを渡すだけ。
等々力からさーやへ、さーやから加藤君へ。
一通り練習が終わると、辺りは少し暗くなり始めていた。
練習していた他の人たちも片付け始めていた。
「……僕らもそろそろ今日は終わりにしようか」
校庭から見える校舎の時計は五時を回ろうとしていた。
「だな」
等々力も頷き、さーやも加藤君の意見に賛成だった。
これ以上遅くなると、お父さんが迎えに来てしまうかも知れないし。
教室で体育着を着替えて、一緒に校門へ向かった。
さーやは気にしていなかったけれど、二人ともさーやが着替え終わるのを廊下で待ってから着替えていた。
いつもの体育の時は男女一緒に着替えていても、特別意識することはなかったのに。
珍しく等々力まで一緒に気を遣っていたので、さーやもからかうのは止めて早く着替えた。
さーやたちはみんな登校班が違う。
でも、途中まで帰る道は同じだった。
その別れ道まで来たところで、問題が起こった。
「ちょっと待てよ。お前の家はこっちじゃないだろ」
「この中で一番家が遠いのは小山内さんだ。女の子を一人で帰らせるわけにはいかないよ」
「だったら、俺が送っていくから良いよ」
「等々力君を信用していないわけじゃないけど、何かあった時君一人で何とかできるのかな」
ケンカ……とまではいかないけど、二人の押し問答はどちらも譲らないまま結論がなかなか出せずにいつまでも続きそうな雰囲気だった。
仕方がないからさーやが強制終了させる。
「二人とも、行くよ」
何のために練習を切り上げて帰ることにしたのかわからなくなる前に、さーやはスタスタと歩き出す。
「え……」
「お、おい……」
言い争っていた二人は、さーやが引っ張って家まで案内してあげた。
「……さーや、それはいくら何でも強引すぎないか」
玄関先でさーやと等々力と加藤君を出迎えたお父さんが顔を引きつらせながらそう言った。
「だって、二人のケンカに付き合ってたらいつ帰れるかわからないし」
「……うーむ。と、とにかくさーやを送ってくれてありがとうな」
「いえ、男として当然のことをしたまでですから」
「俺は別に、帰る方向が一緒だっただけで……」
「じゃ、また明日。学校で」
さーやはさよならの挨拶をしてすぐに玄関を上がってしまったが、お父さんは二人の肩を抱いて何やらコソコソと耳打ちしていた。
……少しだけ聞こえてるんだけど。
さーやが小悪魔だって。そんなんじゃないんだけどなー。
いちいち訂正するのも面倒なので、台所へ向かった。夕食の準備をするために。
今日はたくさん運動して疲れたから、簡単なものですませよう。
その日の夕食は肉じゃがにした。