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それは、あのサンシャインでのイベントから遡ること数日前。
五時間目に行われた学級会でのことだった。
教壇の前には先生ではなくて、学級委員の加藤正義君が立っている。
黒板にチョークで字を書いているのは副委員の水上さん。
彼女はあの源内さんのグループの子なので、さーやとはあまり話したことがなかった。
いや、正確にはさーやから話しかけたことはあったけど、避けられているような気がしたので必要以上には関わらないようにしたのだ。
特にあのグループは結束が強いし、リーダーである源内さんに嫌われているさーやと話しているところを見られるのは、彼女にとっては問題だったのだろう。
さーやはそういうことをいちいち気にしたりはしないけど、さーやが原因で彼女がいじめられたりするのは嫌だった。
どういうわけか、源内さんはさーやを嫌っているのに、さーやを直接いじめたりはしなかった。せいぜい嫌みを言われる程度。気にしていないのでどうと言うこともない。
それなのに、さーやと関わろうとする人はいじめのターゲットにすることが多かった。
お陰で女子の友達は委員長――いや、翔華ちゃんだけ。
男子は学級委員の加藤君とよく話すし、ムカつくことに等々力が絡んでくるからなのか、そういったこととは無関係だった。
そういえば、翔華ちゃんもいじめられたって話、聞いたことなかったな。
もしかして、さーやに隠しているのだろうか。
翔華ちゃんの性格を考えると、ありえるかも知れない。
今度、聞いてみないと。
翔華ちゃんがいじめられていたら、さーやは戦わなければならない。
できれば、そんなくだらないことにかまけていたくはないけれど。
翔華ちゃんは唯一の親友だから、他の女子たちみたいに避けるわけにはいかない。
だって、ほとんどのクラスの女子がさーやを腫れ物でも扱うようにしてるのに、翔華ちゃんだけはずっと変わらない。
それなのに、さーやの方が態度を変えるなんて、どう考えても間違ってる。
考えてたらムカムカしてきた。
「小山内を推薦します」
急に名前を呼ばれて、さーやは我に返った。
良かった。あのまま考えていたら、学級会の最中だというのに源内さんに問い質してしまうところだった。
「はあ? あんた何考えてんのよ!?」
立ち上がって抗議したのは、今まさにさーやの想像に上がっていた源内さんだった。
えーと、一体何のことでもめているのだろう。
事情がまったくわからなかった。
「だって、しょうがねーだろ。誰も立候補がいないんじゃ。それともお前が走るのかよ」
さーやの名前を挙げた等々力が挑戦的に笑った。
「そ、それは……でも! 小山内さんはそんなに足が速くないじゃない! 一番得点の高いリレーに出すなんて間違ってるわ!」
「り、リレー!?」
聞き捨てならないキーワードが飛んできて、思わずさーやは叫んだ。
黒板を見ると、今月行われる運動会の各種目に参加する選手名が書かれている。
その一番最後。
クラス対抗リレーにさーやの名前があった。
「ちょ、ちょっと待って。さーやにリレーは無理よ」
体育は嫌いじゃない。いや、むしろ好きな方だけどそれとこれとは話が別。
クラス対抗リレーは運動会の最後を締める花形競技で、もちろん得点も一番高い。
つまりは各クラスの体育の成績が優秀なメンバーが集まる競技なわけで、体育の成績が平均点のさーやには務まるわけがない。
「でしょう?」
源内さんはなぜか勝ち誇ったような目をしてさーやを見ていたが、さっきまでのムカムカはどこかへ行ってしまっていた。
それよりもこの状況を回避するためには、たとえ普段敵対している間柄でも、源内さんと共闘するしかない。
「別にいーじゃねーか。男子は俺と正義が走るんだぜ。女子の一人くらいトロイヤツがいたってちょうどいいハンデだよ」
「そんなことをして一体何の意味があるのよ!? 小山内さんより足の速い女子はいるじゃない。その子を選べば確実に勝てるのに、どうしてわざわざ小山内さんを選ぶの!?」
飄々と言ってのける等々力に、益々ヒートアップする源内さん。
さーやは心の中で源内さんを応援していたが、二人の言い争いを遮るように加藤君が手を叩いた。
「ストップ、そこまでにしよう。話し合いが盛り上がるのはいいけど、本人不在じゃ結論は出ないと思う」
そこまで言ってみんなの注目を集めてから、加藤君はさーやへ目を向けた。
実に大人な対応だ。
担任の先生が黙ってみていたのも、このためだろう。
「小山内さん。等々力君が推薦してくれたわけだけど、どうする?」
……加藤君は気を遣って言葉を選んでくれたけど、本当のところは推薦じゃないと思う。
等々力のことだから、いつもの悪ふざけのつもりでさーやを推薦したのだ。
その理由だけでも、さーやが断ることは可能だったと思う。
「さーやがリレーに出るのは、クラスのためにならないと思う。等々力は本気じゃないだろうし、源内さんの言ったことも間違ってない。だから、さーやにはできない」
本音を言えば、出たくないわけではなかった。
元々目立つことは嫌いじゃないし。そもそもそうだったならレイヤーなんてやっていられない。
体育も好き。得意ではないけど苦手でもない。
ただ、さーやでは勝てないことは間違いなかった。クラスの足を引っ張ることになることがわかっていて、それを受け入れられるほど無神経ではない。
フンと等々力が鼻を鳴らしたような気がしたけど、聞かなかったことにした。
「そう……。じゃあ、他に誰か推薦して欲しいな」
「え?」
加藤君から予想外の攻撃。
いや、別にそういう意味の言葉ではなかっただろうけど、さーやにしてみれば断って話が終わったはずだったのに、まだ発言しなければならないみたい。
しかし、困る。
推薦できる程、仲の良い女子なんていない。
かといって適当に誰かを指名するのも気が引ける。
花形競技というのは注目を浴びる競技だし、等々力や加藤君みたいに絶対に活躍できる人たちなら楽しみだろうけど、そうでない人にとっては、出ることさえ恥ずかしいものだろう。
さーやみたいに目立ちたいだけで出てみたいと思う人は少ない。
「ねえ、小山内さん。僕は、君にリレーに出てもらいたいと思う」
「どうして!?」
答えあぐねていると、追い打ちをかけるようなことを言ってきた。
「君が勝ち負けを気にして断ろうとしてるから」
「だって、それは……」
加藤君はリレーで勝ちたくないのだろうか。
「僕だって負けたいわけじゃないよ。でも、運動会で一番大切なことはみんなが全力でがんばることだと思う。体育が得意な人も得意じゃない人も……ね」
それはさーやだけでなくクラスのみんなに向けられた言葉だった。
ぐうの音も出ない程の正論だった。
「……わかった。でも、その結果負けても知らないからね」
返した言葉はとても説得力に欠ける言葉だった。
それに引き換え、加藤君は力強く笑った。
「小山内さんが全力で走ってくれたなら、それでいいよ。勝負は僕と……等々力君が責任を持つから」
いきなり責任を持ち出されて等々力は椅子から転げ落ちそうになったが、さっき似たようなことを言った手前、反論はできなかった。
――こうして、さーやは初めてリレーの選手に選ばれた。
「ただいまー!」
上機嫌で帰るなり、さーやは二階の部屋で仕事をしているであろうお父さんに向かって叫んだ。
教室ではクラスメイトに迷惑がかかると思ったからあまり乗り気じゃない態度でいたが、本音を言えばリレーの選手に選ばれたことは嬉しかった。
体育の成績だけで決められていたら、絶対に選ばれることはなかったと思うから、喜びもひとしおだ。
お陰で挨拶がちょっと大きくなってしまった。
「おかえりー」
お父さんは少しくぐもったような声で返事をした。
すぐにでも報告したくて、さーやは自分の部屋よりもまずお父さんの部屋に入った。
「何だ? やたらテンション高いけど」
液晶ペンタブレットに向かってペンを走らせながら、振り返りもせずに言った。
「お父さん、今度の運動会……リレーの選手に選ばれちゃった!」
少し溜めてから、大げさに報告する。
「何!? さーやが!? どうして!?」
さすがのお父さんもこれには驚いて手を止めた。
「……成り行き、かな」
「さーやのクラスって、運動得意なヤツ少なかったっけ?」
「ううん、そんなことないと思う」
「じゃあ、急に足が速くなったとか?」
「ううん、相変わらず平均点。だいたい、お父さんの娘なんだから、そんな突然速くなるわけないじゃない」
言っていて虚しくなるけど、お父さんが納得する理由としては十分のはずだった。
「いや、ほら。魔法少女になったから、その影響で普段のさーやも何かに目覚めたりするかも知れないだろ」
「残念ながら、普段のさーやさんは変わりませんよ」
どこに隠れていたのか、ずっと気配を消していたルリカがさーやの足下でお父さんの希望的観測を否定した。
「じゃ、どうして選ばれたんだよ。まさか、さーやに恥をかかせようとかってんじゃないだろうな」
お父さんはさーやがクラスで孤立していることを知っている。
正確には、男子とは普通に話したりするけど、女子は翔華ちゃんしか友達がいないと言うこと。
遊び相手が翔華ちゃんしかいないのだから、いくら鈍感なお父さんでもさーやの置かれている状況は気付いたみたい。
普通の親だったら、もっとみんなと仲良くした方が良いとか、周りに合わせた方が良いとか言うところだ。
ただ、お父さんは変わり者でもあるから、無理してまで嫌っている連中と付き合う必要はないって言ってくれた。
直接何か実害を受けない限りは、そういう人たちとは関わらない方がいいんだって。
お父さんに言われるまでもなく、さーやもそう思っていたのは、やっぱり親子だから考え方が似ているのだろう。
さーやから見ても子煩悩で過保護なお父さんは、もし何かされたら漫画家生命を懸けてでもさーやに敵対する連中を叩き潰すらしい。
……お父さん個人にそんな力はないだろうけど、いじめを題材にした実名漫画を発表したら、きっとさーやに敵対してる人たちはいろんな意味で有名になれるだろう。
さーやと違ってお父さんは友達も多いし、それなりにファンもいる。
もちろん、そんなことをすれば本当に漫画家としての命は絶たれるかも知れないけど、相手にはそれ以上のダメージを与えられる。
ペンは剣よりも強し。というやつだ。
特に最近は情報がすぐに広がるから、お父さんはある意味世界で一番強い武器を持っているようなものだった。
そう考えると、二次元世界を救えるのは魔法少女の力じゃなくて、お父さんのような人たちの力なんじゃないかと思えてくる。
「さーや? もしかして、本当に恥をかかせようとしてる連中がいるのか?」
「ううん、違う。そもそもさーやは選手に選ばれて嬉しかったんだから」
考え事をしている間に、お父さんが変な想像を膨らませてしまったみたい。
「そういやそうだったな。でも、何か納得できないというか……」
「種明かしをするとね、たぶん等々力がいつもの悪ふざけでさーやを推薦したんだと思う」
「等々力って、あの今どき年中半ズボン穿いてそうなガキ大将キャラか?」
「……ガキ大将キャラって」
さすがに少し等々力が可哀想になって苦笑いをした。
この前の授業参観で間近に見ていたから思い出したのだろう。
お父さんは腕組みをしながら何か思案していた。
「ふーん、あいつがねぇ……」
「もちろん、断ろうとしたんだけど……そしたら今度は学級委員の加藤君がさーやが出た方がいいって言ってくれて」
「学級委員って、確か悪の妖精に乗っ取られた母親の息子だっけ?」
「そう」
「何か、ムチャクチャ優秀なヤツなんだろ?」
「……そうだったんだけど、あの時の魔法で加藤君のお母さんが漫画好きになっちゃったじゃない? なんだか最近、加藤君もさーやたちみたいに染まってきてるんだよね」
「そりゃ、いいことじゃねーか。テストの点数が取るだけが上手くなっても本当の意味で優秀な人間にはなれない。感性や想像力に欠ける人間は薄っぺらいヤツばかりだからな」
それはさすがにお父さんの偏見だと思ったけど、口にはしなかった。
「しかし、あのイケメンまでさーやを推したのか……」
「うん、だからね。負けてもさーやは責任感じなくてもいいんだって。加藤君が等々力と一緒に責任取るって言って、決まったの」
「…………それって……いや、ナンデモナイ」
今度はお父さんが苦笑いを浮かべている。口調もちょっと変だったし、なんでもないわけないと思うけど。
「なーに?」
「……さーやは将来、とてつもない悪女になりそうな気がする。そういえば、彩佳もちょっと小悪魔っぽいところあったしな」
お父さんは一人でうんうんと納得している。
「なにそれ、言っている意味がよくわからないんだけど」
詰め寄ろうとしたら、ガシッとお父さんがさーやの両肩を掴んで真顔になった。
「さーや、いつまでもこの話の意味がわからないままでいてくれ」
「……う、うん……?」
あまりの勢いに押されて、思わず頷いてしまった。
夕食の後、さーやはリビングでDVDを見た。
お父さんのライブラリから借りてきた、スマイルプリキュア。
その第十八話を見返したくなったのだ。
さーやがリレーに憧れるきっかけになった話だった。
「……でも、意外でした」
さーやを座椅子代わりにしていたドールに宿った二次元の妖精――ルリカが立ち上がっていった。
「何が?」
「教室でのことが全部演技だったとは思いませんでした」
腕組みをしているけど表情は変わらないものだから、いまいちルリカの言っていることの真意は伝わってこない。
それでも、勘違いしていることだけはわかった。
「別に、演技していたわけじゃないよ」
「え? でも……リレーの選手にはなりたかったんですよね」
「憧れていたことは確かだよ。だけど、客観的に見たらさーやには務まらないとも思ってた。さーやのワガママでみんなに迷惑かけたくないと思っていたことも、本当だよ」
リレーの選手に選ばれたきっかけは、紛れもなく等々力の悪ふざけだった。
しかし、それがさーやにとって渡りに船だったことも間違いなかった。
利用するつもりはなかったけど、結果的にはそういうことになったのだろう。
後は、決まった以上悔いが残らないようにがんばるだけだ。
画面の中でやよいちゃんが一生懸命走っている。
――そう、彼女のように。
「ところで、さーやさん。もしかして……リレーの選手に憧れたのはこのアニメの影響ですか?」
「まあね」
簡単にあらすじを説明すると、
体育祭でスマイルプリキュアのメンバーが全員でリレーをする。
運動の苦手なやよいちゃんの葛藤があって、それがメインかと思いきや最後になおちゃんが美味しいところを全部持って行く。
何度見ても感動しちゃう神回の一つだから、これを見たら走ることに自信がなくてもリレーに出てみたい、と誰もが思うはず。
「少しでも気になったら、ちゃんと見てみるといいよ」
「……さーやさん? それは私に言っているのですか?」
「さぁ?」
ルリカはもう何も言わず、さーやと一緒に食い入るようにテレビを見ていた。
この影響もあって、その週末に予定していたサンシャインフェスティバルという同人誌のイベントでは、プリキュアのコスプレをすることになった。