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 さーやはあんなことを言っていたが、今回こそは授業参観に行くつもりだった。

 実のところ、今年は夏コミの原稿前からスケジュールを綿密に立てていた。

 全ては予測通りことが運んでいた。

 ……夏コミが終わるまでは。

 夏コミで描いた同人誌を読んだ出版社が、どういうわけか新しい仕事をくれたのだ。

 その出版社とは一度も仕事をしたことがなかったが、信志は一も二もなく引き受けた。

 仕事を選べる立場にはない。

 すぐに、スケジュールの修正を行った。

 その時点では、まだ余裕があった。

 いや、実際に原稿だってほぼ予定通りに進んでいたさ。

 じゃあなんでここ五日ほどほとんど完徹状態なのかというと……。


 原稿のデータが前半十ページほど飛んでしまったのだよ。


 漫画の制作をフルデジタルにして便利になったのは間違いないんだが、その弊害が一気に来た感じだ。

 ……ま、なんつーか……この手の修羅場は経験済みだから、動じることはない。

 理由を調べたり、どこかにバックアップがないか調べたけど、それも一時間で切り上げた。

 そんなことに時間を使うくらいなら、書き直した方が早い。

 ってなわけで、ただいま完徹五日目。


 ……もう八時半か……。

 プリキュアもさーやの朝礼も始まってるんだろうな。

 でも、今日は確か三時間授業だって話だから、まだ間に合う。

「せ、先生~。時計を見て笑ってる暇があったら手を動かしてください」

 信志の担当編集者が半泣きで言う。

「お前だって泣いてる暇があったら、完成してる原稿にセリフを入れてけっての!」

「やってますよ~!」

 入稿がド修羅場になることは予測済み。

 アシスタント代わりに、今日の朝さーやが家を出た後に担当を呼んでおいたのだ。


「せ、先生後二枚です」

「わーってる!」

 液晶ペンタブの上をスタイラスペンが走る。

 もはや下書きなんぞ書いてる時間はない。

 信志は一発描きで残りの原稿を仕上げた。

「ど……どうだ……?」

 精根尽き果てた顔で、セリフが入っていない完成原稿を担当に渡す。

 我ながら、記録的な速さで描けたはずだが……。


「確かに、文字で表すと数行しか経ってませんけど……、実際にはもう十時四十分を過ぎてますよ」

「な、なにぃ!!」


 じゅうじよんじゅっぷんっつったら、もうさんじかんめのじゅぎょうしかのこってねーじゃねーか。


 思考が回らない。

 立ち上がろうとして、目の前がふらつく。

 なんていうか、今すぐベッドに倒れ込みたい。

 しかし、信志はベッドの横をすり抜けてドアノブに手をかけた。

 あの、プリントを渡したときのさーやの顔が、信志の心を目覚めさせる。


「待っていろ、さーや。俺は必ず……」

「それじゃあ、私はこの原稿を編集部……いえ、もうこのまま印刷所じゃないと間に合わないですね」

 信志の横を担当がすり抜けようとした。

 ――すかさず黒いスラックスの裾を摑む。

「うわっ! 危ないじゃないですか、先生」

「お前確か……バイクで来てたよな?」

「え、ええ」

 こういう急ぎの時は車よりも、小回りの利くバイクの方が重宝される。

 特に都内だと、車で渋滞に捕まったら身動き取れない。

 だから、入稿ギリギリの時は、必ずバイクで来ることを知っていた。

「そうか……ククッ」

 不敵な笑みを浮かべた信志を、冷や汗を垂らしながら担当が見下ろす。


「――どうなっても知りませんよ!!」

 風を切りながら、バイクのヘルメットがゴツゴツぶつかる。

 幸いなことに、お陰で何を言ってるのか、まったく聞こえなかった。

 ま、警察にスピード違反で逮捕されるのは担当なわけだから、正直どうでもいい。

 今はとにかく一刻も早くさーやの教室に行かなければならない。

 そのためなら、多少のスピード違反は許されるのだ。

 お上が許さなくても、信志が許す。

 愛娘のためならば、親は時に非情にもなれるのさ。


「――行けー!!」

 信志の声も風に飛ばされる。

 担当の運転するバイクはさらにスピードを上げて、横を走る車がまるでスローモーションしているかのように後ろへと下がっていった。


 校門の前の道でバイクはターンを決める。

 焦げ臭い匂いと、道路に残ったタイヤの跡――半円形のブラックマークがくっきりと描かれていた。

 信志はバイクから転げ落ちるようにして降り、校門を抜けようとして警備員に捕まった。


「あのねえ、そんなあからさまに怪しい人を通すわけには……」

「ふざけんな! 俺は、ここに通ってる娘の親だ!!」

 さーやに渡されたプリントを警備員の鼻っ面に突きつける。

「わ、わかりましたから……でも、校内に入るときはせめてそのヘルメットを脱いでいただかないと……」

「――は? ああ、そっか……」


 指摘されてから、未だにフルフェイスのヘルメットをかぶったままだったことに気付き、それを脱いで抱えながら校舎へ走った。

 校舎の上にある時計を見ると、四十五分を指していた。

 信志が下駄箱でスリッパに履き替えていると、懐かしいチャイムの音が校内に響き渡る。

 何とか三時間目の授業には間に合った。

 バイクだったとはいえ、五分もかからなかったというのは、驚異的を通り越して魔法でも使ったかのようだ。

 信志の家には、本当に魔法を使える者がいるが。

 信志はさーやの待つ、四年一組の教室へと急いだ。

 旧校舎の二階。

 この小学校には信志も通っていたから、勝手はよくわかっている。

 下駄箱の側にある階段を上って三階まで駆け上がる。廊下を左に進み最初に目につく教室がさーやのクラスだ。

 廊下は静けさに包まれており、まだ授業が行われているのか、少し不安になった。

 その思いを振り払うかのように、勢いよく四年一組のドアを開ける。


 ガッタン、ガタガタ!


「――え? あれ?」

 教室のドアは引き戸だったのだが、それが妙な音を上げて外れてしまった。

「うわっ、わわ……」

 教室の視線が一斉に扉を外して右往左往している信志に注がれる。

 その中で一人だけ、机に突っ伏したまま震えている少女がいた。

 顔が見えなくても、それがさーやであることは明白だった。


「お父さん、そのドアは小学生の力でも簡単に開くようなドアなんですよ。そんなに力を込めて開けたら、壊れてしまいます」

 さーやの担任の先生が、笑いを嚙み殺しながらそう言った。

 他の親たちはクスクスと笑っている。

「す、すみません」

 さーやに寂しい思いをさせなかった代わりに、恥ずかしい思いをさせてしまったかな。

 信志は赤くなった顔を隠すように外れてしまった引き戸をはめようとした。

「――ん? あれ?」

 しかし、今度ははまったまま動かなくなってしまった。

 ……これじゃ、教室に入れない。


「アハハハハッ!! ダメ、お父さんそそっかしすぎ。フックククッ……あーはっはっはっはっ!!」

 さーやが声を上げて笑うと、せきを切ったようにみんなが爆笑した。

 っていうーか、さーやは恥ずかしくて突っ伏してたんじゃなくて、笑いを堪えてたのか。

「もう、しょうがないなぁ」

 そう言いながら、さーやは目に涙を溜めたまま、信志を閉め出しているかたちになっている引き戸の前に立った。


「お父さん、そっち側持って。もう一度外さないと、上手くはめられないから」

「あ、ああ」

「小山内、俺も手伝うよ」

「え? 等々力……?」

 今どき珍しい、Tシャツに半ズボン姿のいかにもガキ大将的な男の子がそう言って、引き戸を外すのを手伝ってくれた。


 そうして、再びはめようとしたら、また今度は別の男の子が信志親子の前に現れた。

「待ってください。このドアは上手く溝にはめないと、また先ほどと同じようになってしまいますから」

「加藤君まで……」

 やけに礼儀正しいその少年は、小学四年生とは思えないほど落ち着いていた。

「小山内さんのお父さん、上の溝からはめていただけますか?」

「ああ」

「それから等々力君と小山内さんは、まだ下の溝に入らないように注意していて」

「お、おお」

「うん、わかった」

 今すぐどこかの男性アイドルの事務所辺りにでも入れそうなその礼儀正しい少年が、上手く指示を出してくれたお陰で、何とかその引き戸を溝にはめることができた。

 すると、他の保護者たちや、さーやのクラスメートから拍手がわき起こった。

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