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彼女の父は、中学の教師だった。
その教育方針は、クラスメイトに言わせれば窮屈で厳しいものだったらしいが、当人である彼女は幼い頃からそれが当たり前だったのでそうは思わなかった。
それよりもむしろ、厳しく接してくれた父に感謝している。
だって、あの頃のクラスメイトは皆ろくな高校へ進めず、名ばかりの大学は卒業したみたいだけど、就職も結婚もいろいろ苦労したみたいだし。
彼女の人生は優等生を絵に描いたかのようだった。
小学校から中学までテストでは百点以外を取ったことがない。
先生からは常に真面目で優秀だと評価をいただいて、生徒会長にも選ばれた。
推薦でも望む高校に進むことはできたけれど、父が一般入試でのトップ合格を望んだので断って入試を受けた。
残念ながら、入試は緊張していたせいかケアレスミスで満点は逃したが、トップの成績で合格し、新入生代表にも選ばれた。
母はそのことを喜んでくれたけど、彼女は父と同じように満点が取れなかった悔しさでいっぱいだった。
高校ではその悔しさを晴らすためにさらに勉強にのめり込んでいった。
そして当然のように東大に合格した。
しかし、完璧だった彼女の人生に、初めてと言える挫折が待っていた。
大学四年生になり、就職活動が活発になり始めた頃、彼女は悩んだ。
何を目指したらいいのか、わからなかった。
父は、テストで百点を取ると喜んでくれた。
たとえテストで一番をとっても、百点じゃなければ喜んではくれなかった。
だから彼女は限りなくテストで百点を取るために努力をした。
そのためには、何もかもを犠牲にしてきた。
小学生の頃、クラスメイトが漫画の話をしていて、加わりたいと思っていた。
でも、父が漫画なんてくだらないものだと言ったから、彼女は漫画を見なかった。
中学生の頃、クラスメイトがアイドルの話をしていて、加わりたいなと思っていた。
でも、父はテレビはニュース以外くだらないと言ったから、アイドルの出ている番組なんか見なかった。
高校生の頃、クラスメイトがファッションの話をしていて、加わりたいとは……思わなかった。
だって、父が外見ばかり気にする、頭の悪そうな女が嫌いだったから。
そして、大学生の彼女には、友達はおらずただテストで百点を取るためだけの学力だけが残った。
それでも、後悔はしていなかった。
だって、身についた学力は彼女を裏切ることはない。
あの頃のクラスメイトがどんなに望んだって就職できないような企業に入ることも可能だった。
そんな、何でも選べる立場にいながら、それでも彼女は就職活動で悩んだ。
どこに就職すれば、百点と同じ価値があるのかわからなかったから。
父は、彼女に何かを望んだことはなかった。
百点を取ることは父の喜ぶ姿を彼女が見たかっただけで、百点を取らなければ怒られるわけではなかった。
父は優秀な人。
この世で唯一尊敬できる人。
父が喜ぶことをすれば、人生を間違えることはない。
だから、父の人生に背くようなことをすれば、世界を裏切ることと同じ。
まだそのことに気付いていなかった小学生の頃、一度だけ父を裏切ったことがあった。
その出来事は父を大きく悲しませ、また彼女は初めて父に怒られた出来事だった。
その時彼女は誓ったのだ。
父のように生きるのだと。
結局、彼女が選んだのは教師の道だった。
それから5年経ったある日、両親に見合いを勧められた。
見合いの相手は中学の教師。
母には25歳を超えた辺りから結婚を催促されていたが、父は特に興味がなさそうだったのでずっと先送りにしていた。
そもそも、父が喜んでくれそうな相手がいなかったという理由もある。
見合い相手も、これといって特に印象のある男性ではなかった。
高校も大学も、聞いたこともないような二流の出。
東大卒の彼女とは釣り合わないだろうし、とても百点だと思えるような相手ではなかった。
……ただ、教師になるのが夢で、その夢が叶い、生徒たちと一緒に勉強できることが楽しくて幸せだと言われたときは、少し動揺させられた。
彼女には、夢がなかったから。
その彼とは、結婚を前提に付き合うことになった。
父が百点ではないにしろ、九十点くらいは気に入ったみたいだったから。
結婚してから彼女は主婦になった。
母が主婦になったのは、父が望んだからだと知ったから。
結婚した女は主婦になるべきだと父が思うなら、そうするべきだと思った。
そして、彼女にも子供ができて、少しずつ父の気持ちがわかるような気がしてきた。
息子の正義には、間違った人生を送って欲しくない。
父のように、そして父を追いかけた自分のように生きて欲しい。
だから、正義が間違えそうになったら、怒らなければならないのだ。
あの日の、父のように――。
「正義! 何なのこれは!?」
先生やクラスメイトの母親から真面目で利発そうだという当たり前の評価を受けている息子の正義が、バツが悪そうな顔をさせる。
彼女は思わずヒステリックに叫んでしまった。
正義が父の教えに背くものを持っていたのだ。
彼女の手には“名探偵コナン”のコミックスがあった。
息子の部屋掃除をしたときに見つけたものだったが、、本棚の奥に隠してあったのだ。
まったくもって信じられない。
あろうことか、息子がこんなものを持って……いや、興味を抱いていたなんて。
正義は何か言いたげだったが、どこか諦めたかのように「ごめんなさい」と言い頭を下げた。
「あれほど言っていたでしょう! こんなものを読んでいたら、馬鹿になるのよっ!」
昔、父がそう教えてくれた。
だから漫画は人生において悪いものだった。
「まったく! せっかくテストで百点を取ったからお小遣いをあげたのに、こんなくだらないことに使うなんて!」
「で、でも母さん。お小遣いは僕の好きに使っていいって――」
「黙りなさいっ!! だったら、もっとためになる本を好きになりなさいっ!!」
それ以上、正義は言い返すことはなかった。
悲しそうな表情をさせて彼女の持つ“くだらないもの”を見つめていた。
どうやら、息子は母親の気持ちがわからないらしい。
親の心子知らずと言う言葉が浮かぶ。
彼女は父の心をよく理解し、反省したのに。
息子は未練がましく“くだらないもの”に視線を送っていた。
「これは捨てます! いいわね!!」
正義はうな垂れて自分の部屋に戻る。反抗期なのだろうか、聞き分けが良さそうな子だったのに、返事さえしなかった。
その態度に彼女は益々怒りを禁じ得なかったが、それ以上正義に怒ったりはしなかった。
「こんなものがこの世にあるから、正義が反抗的になるのだわ!」
怒りの矛先は、漫画だった。
――なあ、あんたそんなに漫画が嫌いなのか?
「――へ? だ、誰!?」
不意に聞こえた怪しげな声に驚いて辺りを見回した。
しかし、リビングには自分しかいなかった。
「俺が誰だろうが、それはお前には関係のないことだ。大事なのは、お互い漫画が嫌いだってことじゃないか?」
幻聴や聞き間違いじゃない。
姿は見えないけど、確かに声は聞こえる。
意識をすれば、まるで目の前に誰かがいるかのような感覚さえある。
幽霊の類は信じていないのに、これが幽霊ならまさしくその通りだと思ってしまいそうな程、奇妙な存在感があった。
少しだけ怖いと思ったが、それ以上に共感できる話だったので、不思議な声に言葉を投げかけた。
「……確かに、わたくしは漫画が嫌いです。あんなものは滅びてしまえばいい」
「ハハハッ、そりゃ頼もしい限りだ。俺も同じさ。できることなら滅ぼしてやりたいねぇ。だが、今のお前には無理だ」
「それは……そうでしょうね……。漫画が売れていることだけは、確かですから」
正義に対しては強気でヒステリックに話していたが、常識がないわけではなかった。
嘆かわしいことに、日本では文学は衰退の一途を辿っているというのに、それに反して漫画は売れていた。
「問題はそんなことじゃない。お前は漫画を知らなすぎる」
「どういうことですか?」
「お前の息子が買った漫画なんて、俺に言わせればマシな方だってことさ。世の中にはもっと害悪を撒き散らしてる漫画がたくさんある」
「そんなもの、知りたくありません! わたくしたち家族が知る必要のないものです!」
「まあ、そう言うな。敵を殺すには、まず敵のことを知る必要があるのさ」
「敵を……殺す?」
「ああ、そうだ」
「あなたは先ほど漫画を滅ぼすことはできないと言いましたが?」
「それは違う。今のお前にはできないと言ったんだ」
「……それはつまり――」
「本題に入ろうか。俺と同化して、この世界から漫画を滅ぼそう」
「……あなたは、一体……」
――二次元世界を滅ぼす者さ――
声の主はわからなかったけど、彼は彼女にとって神にも等しい存在だと思った。