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短編

そうして私は此処にいる

作者: 暇 隣人




 私はいつも美術室にいる。

 というのも、私が彼の絵を誰よりも好きだからだ。

 彼の描く絵はいつも繊細だった。大人しかった。それでいて、どこか静かな激しさとでも言えるような、そんな空気が付きまとっていた。微細なセルまで事細かに描かれた彼の絵は私の心を強く掴んだ。私には彼の絵がまるで写真のようにも思えたし、それでいて遠いファンタジーの世界を見ているような気がするのも確かだった。

 彼はたったの一度だけ、私を描いてくれたことがある。蝉がうるさく鳴いていた。夏はまだ半ばを過ぎた頃だった。

 日差しの眩しい美術室の木造の四角い椅子に座って、私は目を閉じてただじっと待っていた。HBの鉛筆をこする音が聞こえる。彼が私を描いてくれている。スケッチブックのざらつきと芯がこすれる音に肌が震えた。暑かったけれど、汗は出なかった。

 絵を描き終わった彼が、私の名前をゆっくり呼んだ。目を開けて彼を見る。彼は体の前にスケッチブックを立て掛けるようにして持ち、私にそっと微笑みかけた。

 スケッチブックの中には私がいた。

 それはどこからどう見ても私だった。私の中に、自信とも誇りともいえない感覚が浮かんできた。ああ、私はここに存在しているんだと、心の底から感じることが出来た。ただただ嬉しかった。私の顔を見て、彼は口元を緩ませて笑った。

 私は彼をすごいと思った。そして正直にそう告げた。けれど彼はあまり嬉しがらない。照れるわけでもなく、それとなく頷いて返事をするだけだった。私にはよくわからなかった。彼はあんなにすごいのに、どうしてそんな寂しそうな顔をするんだろう。

 彼はよく、私の香りを好きだと言ってくれた。

 君の髪は綺麗だね、とも言ってくれた。私は嬉しかった。

 自分で手入れしてたわけじゃない。お姉ちゃんがね。こういうの好きだったから。

 お姉さんは何の仕事をしてたの、と彼は聞く。美容師。私は答える。なるほどね。そう言って彼はまた私の髪をまじまじと見つめる。私はそっと髪を掌に滑らせた。

 姉は今、どこでどうしているのだろう。

 私はそれを知ることはできない。








 私は彼との時間が好きだった。私が美術室に居座るようになって以来、初めて知りあえた人だったから。

 彼はいろんな話をしてくれた。とある画家の話。映画の話。写真の話。彼はそういうものが好きだった。綺麗な景色を見たら胸が弾むんだと、笑顔で言っていた。

 だから僕は描こうと思ったんだ。

 微細なセル。

 私は彼に聞いたことがある。将来は画家になりたいの、と。彼は少し迷っていたけれど、渋い顔でこう言った。たぶん、無理だよ。

 私にはその言葉が正直信じられなかったのだけれど、彼のことは彼にしかわからないから、結局私は何も言えなかった。

 彼の絵はいつも綺麗だった。隅々まで洗練されていた。林檎の絵一つにしても、まるで本物の甘酸っぱい匂いが漂ってきそうな仕上がりだった。モノクロに彩られたラフスケッチに、彼は感覚の色をいとも容易く塗りつけてみせた。

 私は彼を尊敬していた。こんなに素晴らしいことが出来る彼のことを。

 でも彼はまた愛想笑いをする。

 やめてよ、君までそんな目をするのは。

 笑っていたけど、真剣だった。私にはなんとなくわかった。彼は期待されていた。家族からも友達からも。彼の心を押さえつけるほどに強く。

 けれどそれは足枷だったんだ。

 私には、彼の足枷を外してあげることはできない。

 好きだよ。

 私は言った。彼が驚いて私を見る。私はまた言った。

 あなたの絵、好きだよ。きっと、誰よりも。

 彼は二、三度まばたきをして、私の顔をきょとんと見つめていた。なんだか可笑しかった。笑いかけた私の顔を見て彼も笑った。ありがとう。そう言ってくれて、嬉しいよ。

 私には彼の足枷を外してあげることができない。

 けれど、軽くしてあげることはできる。そう信じていた。








 僕の絵が、美術館に飾られるんだ。

 心の底から嬉しそうに彼は言った。

 おめでとう、と私が言うと、彼は照れながら謙遜した。大した絵じゃないんだ。たまたま、有名な画家さんの目に留まったらしくて。彼が言うには、その美術館は県で一番の美術館らしい。やっぱり彼はすごいと思った。口には出さなかったけれど。

 君にだけは、言っておこうと思ったんだ。

 どうして、と私が聞くと、彼は、君の香りを描いたから、と言った。

 ああ、と私は思い出す。つい数日前、彼が描いていた絵を思い出す。形のない線。終わりのない空間。スケッチブックの四角いっぱいに零れるような、彼の壮大な絵画のこと。

 君の香りが好きだから。これならきっと、残ると思ったから。

 私は本当に嬉しく思った。私はまだここにいるんだと思えた。空に昇ったわけじゃない。土に還ったわけじゃない。私はまだここにいるんだと、そう思えた。

 ありがとう。

 精一杯の感謝を伝えた。彼は目線を逸らして、顔を赤くした。また今度、その絵を持ってくるよ。白黒じゃあない。ちゃんとした色も付けたんだ。絵の具は偽物みたいで嫌いなんだけど、そうしないと、きっと伝えられないと思ったから。きっと残らないと思ったから。

 涙が溢れて止まらなかった。流れる雫は温かかった。

 待ってるね。私は言った。彼の誇らしそうな眼差しが私の心を満たしてくれた。ずっとずっと待ってるから。私は言った。彼も強く頷いた。

 私は彼と約束した。ずっとここにいると誓った。

 彼が残してくれたから。私の存在を、この世界に。








 私が最後に描いた絵は赤。

 アスファルトの冷たさが頬に滲む。

 ――そうだ、こうして何もかも捨て去ることができるのなら。

 私の足枷は重かった。重かったけれど、歩くしかなかった。

 みんなが私を急かす。ほら、がんばって、がんばって。あなたには期待してるんだから。

 引きずって引きずって、足はもう疲れ切って、心には血が滲んでいた。そのまま心は腐りかけて、今にも崩れてしまいそうなぐらい、ひび割れていた。

 そうして私は美術室にいた。

 ――そうだ、そうだ。

 こうして何もかも、捨て去ることができるのなら。

 どうせ足枷は外れない。

 私には、一緒に枷を引きずってくれる誰かがいなかった。だから私は身を任せた。窓枠の冷たさが掌に突き刺さった。重たい枷を持ち上げて、私はふっと息をついた。眺めは爽快。じわりと汗が噴き出てきた。

 やけに蒸し暑い夏のこと。重力に引かれて、落ちた。





 ――そうだ。そうして私はここにいる。

 未練などないと思っていたのに。でもどうしてだか、私はまだここにいる。

 その理由が、ようやくわかった気がした。

 私は誰かに、気付いてほしかったんだ。

 私のことを、残してほしかったんだ。

 叶えてくれるのを、ずっと待っていた。

 彼がそれを叶えてくれた。

 私は彼を助けてあげたい。

 私を助けてくれた彼を、助けてあげたい。

 だから私はここに残った。彼の足枷を、ほんの少しでも軽くできるのなら。彼のことを救えるのなら。

 いつかの私にならないように。

 最初は恩返しのつもりだったけれど――今ではもう違っていた。

 ただ純粋に、彼の描く世界が好きになった。

 彼の絵を見ていると、こんな私でもまだ、ここに居られるんだって、感じられたから。

 彼の描く世界を、まだ見ていたいと思ったから。

 だから私は、彼の絵が好きなんだ。

 どうしようもなく、好きなんだ。

 微細なセルも甘酸っぱい林檎も、みんなみんな。

 彼の世界が、私を救ってくれる。








 すっかり古びたプラスチック製の硬い椅子に座って、私は窓の外を眺めていた。数年前に植えられた植物の幹は、もうすぐで窓の枠から見える。私はぼんやりと、部屋を突き抜ける花の薫りを感じていた。

 がらがらと、音が聞こえる。私は後ろを振り向いた。そこには彼が立っていた。学生服の面影は消えて、すっかり大人びた顔で彼は立っていた。

 ごめん、随分と待たせちゃって。

 ううん。私は首を振る。髪が揺れて、私の香りが風に流れる。彼が好きだと言ってくれた、私の香り。彼の腕に抱えられた額縁に、欠片がそっと吸い込まれていく。

 大変だったんだ。この絵を買い戻すのに、随分とかかっちゃって。たくさんの人が、この絵を欲しいって言ってくれたんだ。嬉しかったけど、複雑だったよ。これは君に見せたくて描いたものだから。

 彼は額縁を私に手渡す。灰色の布に包まれて、ひっそりと息を潜めている。繊維の合間をかいくぐって、埃のように漂う感覚。これは私だ。

 君に見せたかった。やっと、この日が来たんだ。

 そっと、布の端に手をかける。私と私が重なり合う。

 ありがとう。

 私は彼に言った。彼は何も言わなかった。

 感覚が、瞳に映った。

 私と私が混ざり合う。

 額縁の中に、溶けていく。

 そっと、優しく。

 そっと、そっと。






 私はまだ、この美術室の中にいる。

 部屋の後ろの壁に飾ってあるたくさんの絵。空の青、夕日の赤、肌の白、向日葵の黄。

 その中に一つ、彼がいる。

 そっと彼の名前を撫でる。そっと彼の絵に触れる。

 微細なセル。

 一つ一つの感覚の粒が静かに寄り添うこの場所に、彼のすべてがある。

 彼は彼を残していった。私と一緒に、この世界に。

 そうして私はまだ、この美術室から出られずにいる。

 というのも、私が彼の絵を誰よりも好きだからだ。




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