表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
PR

線香 補完統合版

掲載日:2026/06/21

「多くのことに意味なんてないよ。すべてのことは地続きで終わってみなきゃわからない」。

本作は、ある家族の悲しい運命と、海辺の島で交差する人々の記憶を描いた群像劇です。

難病で荒れる父と介護に疲労する家族、そこから逃げるように孤独に生きる姉、そして無邪気に遊ぶ子供たち。一見バラバラに見える彼らの日常は、やがて凄惨な一つの結末へと繋がっていきます。

不条理な人生の中で、人はどこに生きる「意味」を見出すのか。ページから漂うような磯の香りと線香の煙に包まれながら、彼らの物語を最後まで見届けてください。

【夕】



一人、今日も一人、心細くはない、島の風景は飽きないものだった。山に登れば虫がいる、海が引けば干潟を歩いた。友達が欲しいとも思ったけれど、よそ者の僕は回りと妙に壁みたいなものがあったんだ。その日は曇り空で薄暗く一人で歩くのが不安になる日だった。干潟を歩いて石をはぐった。カニやミミズみたいなのがいっぱいいた。ダンゴムシみたいに見える何かが岩に張り付いていたり、石をはぐった先に穴があってその先にタコがいたり、海の探検は楽しいものだ。ふと、1つ絶対たくさん生き物がいると確信できる隙間の空いた大きな岩があった。僕はそれを目を輝かせて持ち上げようとする。でも、父ちゃんとは違う僕の小さな手では少しだけ浮くのが限界だ。泥だらけの手で額の汗を拭う。『はー』と息を吐いて汚れることも気にせず隣の岩に座り込んだ。僕がしばらく休んでいると後ろから声が聞こえた。

「こんなところにいたら危ないよ。」

優しい声だった。何処かお母さんを思い出させる声色だ。僕が振り返るととても背の高いお姉さんがいた。

「ここはもうすぐ沈んじゃうから移動したほうがいいよ。家族は近くにいる? 」

お姉さんは言う、そうかもうそんなに時間が経ってたんだ。周りを見ると小さな波がこちらに入り込んできていた。早く上がらないと、そう思って立ち上がる。でも、あの岩の中をみたくて少し帰りたくなくなった。僕がモジモジとその岩を見つめていると

「一人なんだね。その石の下が見たいの? 」

とお姉さんは言った。僕はすぐに「見たい!」と言う、お姉さんは微笑んで軽々とその岩をはぐってくれた。中にはたくさんの貝とカニがいた。咄嗟にカニを捕まえる。それをバケツに入れてお姉さんに「ありがとう! 」と言う

「いいよいいよ、大量だね。貝はとらないの?」

「貝は退屈だからいいの。」

僕はカニだけをバケツに放り込んだ。お姉さんはしゃがみ込んで小さな貝をバケツいっぱいに入れていた。あんなの集めてどうするんだろう? そう思って僕は言った。

「そんなの集めてどうするの? 」

「ハハ、どうすると思う?」

「わかんない。」

そんな話をしているとお姉さんはにっと笑って言った。

「多くのことに意味なんてないよ。すべてのことは地続きで終わってみなきゃわからない。」

僕が意味がわからず首を傾げるとお姉さんはくすっと笑って続けた。

「おじいちゃんの受け売りだけどさ、すぐに分かるからおいで、この格好じゃ家族にも怒られちゃうでしょ?」

優しい、優しい声色だった。僕はお姉さんについていく、新品のきれいな自転車のペダルの前に足をかけてお姉さんの家へ、知らない人について言うのは良くないってお母さんは言ってたけど、この人は悪い人じゃないと思った。お姉さんの顔を見上げる。優しい顔、僕はお姉さんと友達になりたいと思った。

「少年! ついたよ。ようこそ我が家へ。」

自転車を降りて家を見る。大きな大きな家だ。この今で一番大きいかもって思えるほどおおきな家、僕は家の前で立ちつくしていると、お姉さんが手招いて裏口の方へ行ってしまう。置いて行かれないようにと僕も走って家の裏口へいった。お姉さんはバケツに塩と水を入れてかき回している。

「何してるの?」

「はは、何してるんだろうね。」

お姉さんははぐらかすようにそういった。僕が隣で何も言わずに見つめているとお姉さんは小さく「よしっ」と言った。

「本当は1日くらい欲しいんだけどこんなもんでいいでしょ。」

そう言うとお姉さんは、バケツの水を捨てて立ち上がった。

「あ、今更だけど、君の名前はなんて言うの? 」

「ゆうすけだよ。」

「そっか、じゃあゆうくんだね。」

「私はゆいっていうんだ。でも好きなように呼んででいいよ。」

「それじゃあ……、ゆうくん動かないでよ? 」

お姉さんはそう言うとニコニコしながらホースで水を僕にかけてきた。

「ちょっ! やめてよ! 」

僕がそう言ってもゆい姉さんはゲラゲラと笑いながら水をかけ続ける。

「ごめんごめん、さすがにその手足じゃ家にはあげたくないからさ、さぁ、おいで」

僕は思うこともあったけどため息をついて家に上がった。家の中はすごく立派だった。家族はいないのかな? すごく綺麗な家だけど人の気配を感じさせないすこし寂しい部屋だった。

「お風呂入ってきなよ。服は洗って乾燥しといてあげるから。」

僕が口を開く前にゆい姉さんがそういった。言われるがままにお風呂場に行く、馴染みのないいい匂いがする。僕が服を脱ごうとすると、お姉さんがお風呂に入ってきた。咄嗟に脱ぎかけの服を着直す。僕が恥ずかしくて固まっているとお姉さんはニコニコしながら

「早く脱いでくれないと洗えないよ? 」

と言うもじもじと「恥ずかしい」と言葉を漏らすとお姉さんはより心の底から面白そうに言う。

「脱がしてあげよっか。」

「大丈夫……! お風呂のなかで脱いで服渡すから!」

すぐそう言って僕は服をお風呂のなかで脱いで扉をほんの少しだけ空けてゆい姉さんに渡した。

知らない人のお風呂、感じたことのない感覚、馴染みのないシャンプーの匂い、僕は今日のことを考えながらシャワーを浴びる。今までで一番楽しい日だ。一人じゃないだけですごく嬉しい。体を洗ったけど扉の向こうからゴソゴソと音がする。出ようにも出るタイミングがない……。

「ゆい姉さん、出ていい? 」

「いいよ! 」

ゆい姉さんはそう言うけど一向にお風呂場から出る気配がない……。

「恥ずかしいから出ててほしいかも……。」

僕がそう言うとお姉さんはくすくすと笑っている。

「あと5分もすれば乾燥終わるから自分で出せる?」

「わかった。」

ゆい姉さんがお風呂場から出る音がして僕は安心してお風呂扉を開けるとお姉さんがいた。僕が恥ずかしくてお風呂に戻るとお姉さんの笑い声が扉越しに聞こえた。

「ごめんごめん。ゆうくんの反応が面白くてさ。」

面白い……?? 何が面白いんだろう、ただただ恥ずかしい、今度こそお風呂場から出る音が聞こえて目だけをお風呂から覗かせて確認する。ゆい姉さんはいなかった。今度こそ安心してお風呂を上がるとすごくいい匂いがした。磯の匂いに似たすごくいい匂い。何の匂いだろう? 乾燥が終わるまで僕はバスタオルで体を拭いて立ち尽くしていた。でも多分一番短い5分だった。まだ少しだけ冷たい気がする服を着てお風呂場を出る。より一層いい匂いがした。お姉さんが最初に入れてくれたリビングに戻るとあの貝が大きなお皿に積み上がっていた。

「上がったね。食べようか。」

ゆい姉さんは爪楊枝で器用に小さな貝の中身を取り出して食べている。

「おいしいの?」

僕は思わずそう聞いた。はっきり言っておいしそうに見えない。でもすごくいい匂いだ。

「どうだろうね? 」

ゆい姉さんはそう言って僕に爪楊枝を渡した。僕がゆい姉さんの真似をして貝を取ろうとしても上手くいかない、上手く取れずに困っているとゆい姉さんは貝の中でひときわ大きな貝の中身を取って僕に渡してくれた。僕が受け取ろうと手を伸ばすとゆい姉さんは

「あっ」

と声を漏らしてから引っ込める貝の茶色っぽいところを取ってもう一度差し出した。

「ごめんごめん、内臓は子供の口には合わないなぁって思って。」

僕はムッとした、なんだか子供扱いされたのが嫌だったから、僕は不機嫌さも隠せずに

「そっちも食べれるもん」といって手を伸ばす。

ゆい姉さんはくすくすと笑ってじゃあとそっちも渡してくれた。食べてみるとすごくおいしかった!でも……内臓の方は苦い後味を口の中に残して僕は顔を顰めてしまった。ゆい姉さんのくすくすと漏れ出た声に恥ずかしさを感じたけど、確かにこっちは苦手だ。

「やっぱり茶色いのはない方がいい……」

「でもおいしかったでしょう?」

「うん、おいしい」

お姉さんはまた貝の中身を取って内臓を取らずに渡してくれた。僕はその内臓を取って貝だけを食べた。

「意味、あったでしょ。終わってみたら悪くなかったでしょ? 」

ゆい姉さんは何処か寂しそうにそういった。悪くない。やっぱり今日は今までで一番楽しい日だ。でもやっぱり一番短い日だった。あっという間の帰り道、夕日が海を燃やす頃、ゆい姉さんに自転車で家に連れて行ってもらった。家の少し前で降ろしてもらって僕は「ありがとう! 」と言った。お姉さんはニコニコしながら「いいよいいよ、今日のことは2人の秘密ね」と言って僕の頭を撫でた。それから毎日干潟に行った。ゆい姉さんには会えなかったけど、友達ができた。すごく強くて元気なケンちゃんと真面目だけど勇気のあるカズくん、すっかりお姉さんのことを忘れかけた頃、カズが言った。「新しい道を見つけたんだ。」




【私】



『多くのことに意味なんてないよ。すべてのことは地続きで終わってみなきゃわからない。』


ずっとずっと酷い言葉。


おじいちゃんは私の”お父さん”みたいな人、

でも、あの言葉は私の求めてたものとは違った。

小学校に通い始めたとき、男の子にいじめられた。

それはひどいものでツバを吐きかけられたりだとか、バイ菌扱いだとか、私のガサガサの肌がきっと原因だったのだと思う。


『もし本当に意味なんてないなら、ひどすぎるじゃないか』


意味が欲しい、理由が欲しい、お母さんに聞く


『なんで? どうして?』


理由が知りたい、納得したい。お父さんに聞く


『知りたい。でも、わからない。』


お母さんは言った。


『きっと貴方に嫉妬してるのよ。』


嫉妬とは、なんだろう。

お父さんは言った。


『自分より弱いやつしかいびられないバカなんだよ。』


なら、強くなればいいのかな?


『強くとはなんだろう?』


知りたい。おじいちゃんに聞く。


『強い人は、受け入れることができる人だよ。新しいことも、古いことも、嫌なことも、好きなことも全部飲み込んでそれでお前は強い子になる。』


わからない……分かりたい。


涼しい風が顔を撫でて、枯葉が風を形作った。

鼻の曲がりそうな銀杏の匂いと嫌いなアイツらの声を乗せて、その風が私に吹いた。


言葉は思い出せない、のこったのは後ろで結んだ髪の傷み、人生で一番の不快感、青臭い匂いと、口のなかで蠢くその生き物を噛み潰させられた感触。

メリメリと、パリパリと、その感覚が脳裏に張り付いた。


意味、意味、意味……なぜ?

受け入れることが強さなら、強い人は、すごい人だ。私は受け入れられたとは言い難い。



私が中学校に通い始めたとき、私の肌はすっかりきれいになった。友達も、親友も、少し早い恋人も、たくさんのことを受け入れた。

すべては順調に、すべては簡単。

難しいことは何もない……そう思い込む、そうすると、私は少し強くなれる。

私をいじめたあいつらは、けろっとした顔で私を見つめる。当然のように私に並ぶ。私はそれを理解したい。色付いて見えた素敵な世界

意味を、あいつらを、理解したい。

最初の恋人、最初の矛盾、最初の嫌い。


高校生、私は私を理解した。父が難病を患って高校を中退したとき、周りは私の存在なんてすぐに忘れた。都合がいいだけ、そこにいるだけ、部品にすらなれない、装飾品、付加価値だけの私。

何もかもが敵に見えて、何もかもが嫌いに感じた。前髪を伸ばして目を隠した。仮初の自信は私を騙してはくれない。よく続いたと言えるかもしれないけれど、やっぱり、私は小学生のまんま何か変わったとは思えない、灰色の世界、何かが私を見つめている。私が私を否定する。きっとそれが最後の矛盾、そのはずだった。

――3本の矢のように、強く強靭な人に……

ビニール紐、と簡単な遺書、内容は笑ってしまうほどの自己否定、裏山へ、獣道を進んたその先へ、3重に重ねたビニール紐を木にくくりつけ輪っかを作った。石と枯れ木を重ねて台を作る。首をかけて、ポンと飛んだ。その瞬間。バキッという音とともに木が折れた。首の痛みと足首を挫いた痛みがじんじんと私を苦しめた。それでも、また、また、同じコトを次も、その次もまた、失敗した。

「ハハハハ」

思わず、笑いがこぼれた。

なんて滑稽なんだろう、なんて愚かなんだろう、なんて、愉快なんだろう。自分を殺したような儀式的なその行動に、意味はない。意味はない。あそこで私が死んでいたら。きっと家族は悲しんでくれたかもしれないけれど、所詮は価値のない小さな出来事だ。すぐに私を忘れていたはずだ。

体の痛みとすこし低くなった私の笑い声が私を私にしてくれた。プチプチの嫌な音が喉からして、私は私になった。

「意味なんてない、なら私は笑顔と強さで飲み込もう。」


すこし、暖かくなってきた頃、久しぶりにあいつにあった。懐かしい記憶、取り留めのない話をして、それからあいつと遊んだ。良くない遊び、悪いこの遊び、あいつは私に言った。

『なんか、前よりずっと明るくなったね』

そうだとも、そうだとも


だった。だった。だった。

全部が全部’’過去の話’’

全部が全部”夢の話”

冷たい夜風が顔を撫でて嗅ぎ慣れた海の匂いがする。

目を開けると同時に見えた夜空はやっぱり美しい物だった。



【父】

 


『親父はすごい人だった。』

親父の周りにはいつも人がいた。だけども、親父は俺に言う。

『多くのことに意味なんてものはない、全てのことは地続きで終わってみないとわからない』

俺は反発した。

自分を否定された気がした。

自分には価値がある。

意味がある。

そう信じたかった。

優れた人で在りたかった。

“今はどうだ”

ベッドに寝転がって、ただ生きている。

震える手で酒を飲み、震える手で箸を落とす。

そうして繰り返す。

あいつは箸を拾って俺に渡す。 

その善意が俺の心を蝕んだ。

親父は昔言った。

『私の葬式はしなくてもいいよ。死人に時間を使うべきじゃない、それより誰かの役に立つ事をすればいい』

俺は親父が嫌いだ。

俺を否定する親父が嫌いだ。

親父の葬式はしなかった。

なのに……

だというのに、家にはひっきりなしに人が来た。

親父の死を嘆く言葉を聞いた。

親父に世話になったと聞いた。

親父に助けられたと聞いた。

俺は死んだら葬式をあげてほしい、俺が死んだら悲しんでほしい。葬式なんてあげなくていいだなんて俺には言えない。

俺が死んだら、誰が悲しむ

震える手で空の酒瓶を投げた。力のはいらない俺の手をするっと抜けて俺のすぐ隣を転がった。

俺は……親父みたいになりたかった。

きっと俺の葬式はないだろう、きっと俺が死んで悲しむ奴は居ないだろう。きっと、あいつらは清々するだろう。

でも、俺の人生に意味は……あるはずだ。そのはずだ。

「クソ……」



【家族】



暑い夏の日だった。換気しようと空けた窓からは、生ぬるい風が入ってくる。私と母は一仕事終えて息を吐いた。介護というのは本当に体力を使うものだ。母とキンキンに冷えた麦茶をのどに流し込む。身体のうちから心地よい冷たさが広がる。ぐうっと背伸びをして壁にもたれかかると、ピー!!と呼び出し音が響いた。母はため息を漏らして立ち上がろうとして咄嗟に「あぁ、いいよいいよ!母さん、私が行くよ。」

と父の部屋へ向かった。ドアを開けるとさっきベッドに上げたばかりだった父が床に座ってタバコを吸っている。アルコールとタバコの煙が混ざった不快な匂いが鼻をさした。思わず顔を顰めそうになって兄の姿を思い出す。心のなかで顔を叩いて、父に言う

「どうしたのお父さん」

父はゆっくりとこちらを振り向いて

「母さんは?」

と言った。そうだ。父は母を呼ばないと用件を言わないのだ。しかもそのほとんどが無意味で、無駄な苦労をかけるものばかりだ。アレが食べたい、アレが欲しい、こうして欲しい、しかしいざ言う通りにすると「こがなもん食えるか!とうじんが!」と怒鳴り散らす。でも行かなかったら行かなかったで延々と怒鳴り散らす……どうすればいいのか分からない。

「お父さん、用件を言ってよ。言ってくれないと何もできないよ。」

私はお父さんの前でしゃがんでそういった。父は不満そうに

「酒」

とだけ言う。あぁ、まただ、私はもう父の心配はしない、酒と父の難病の相性はすごく悪いのだ。だから最初は姉と母と私で協力して父を説得しようとした。しかし父は姉にあたった。虐待だの殺す気だの……見るに堪えないやつあたりだった。姉も堪えかねて出て行ってしまった。だからもう、心配など、してやらないのだ。酒を頼まれれば酒を渡す。ただ事務的に繰り返す。しかし…………これだけは何度やっても慣れない。そうだ……父は泥酔して漏らすのだ。もはや排泄物のその臭いは排泄物の臭いとは言い難い。アルコールの混ざったような不愉快な臭い。私は父を寝転がらせ、下着を脱がせる。何とか体をずらしてお尻を拭いて下着と座布団ごと一度お風呂場に運ぼうとひとまとめにすると父が怒鳴った。

「はよ着替え持ってこい!」

「はいはい、ちょっと待ってね。」

もうこの理不尽にも慣れっこだ。母に負担をかけないように私が頑張らないといけない。頑張らないと。頑張らないと。と頭のなかで繰り返してお風呂場に座布団と下着を置いて新しい着替えを取りに行く。父にそれを履かせてベッドにあげた。

「父さん、自分で上がるって言ったんだからまた降りて呼んだりしないでよね。」

お風呂場でシャワーを流して汚物を洗い流す。足で踏んで汚れを落とすこの作業にもすっかり慣れてしまった。最後に洗濯機を回して私は母のところに戻った。母は少し疲れた様子で言う。

「ごめんね。」

「いいんだよ。お母さんはゆっくりして! 」

私はそう言って隣に座った。やっと一息つけると思った瞬間、――チリリリリリ! と電話がなった。立ち上がって電話に出ると聞き馴染みのない声の人だ。その人は言った。

「警察署の者ですが、辻さん宅のお電話で間違いないでしょうか。お姉様の件で、ご連絡いたしました」


「はい、あっていますが、姉がどうかしたのでしょうか……?」


「大変申し上げにくいのですが……一昨日、お姉様がお亡くなりになっているのが発見されました。詳しい状況をご説明し、身元のご確認をお願いしたいので、署までお越しいただけますでしょうか」


思考が固まる。姉が死んだ? 発見された? 3日前に会いに行ったときは姉さんからは変な距離感は感じたけれど元気そうにしていた。……はずだ。しばらく言葉が出なかった。相手も待ってくれているのか黙り込んでいた。分かってなどいない、分かってなどいないが……。


「わかりました。今から出ます……。」

「どうかしたの?」

母が心配そうに私を見ている。

「警察の人が…………姉さんが死んだって……。」

母に言うのは良くなかったかもしれない。これ以上負担をかけたくないし、でも、黙っていてもいずれ分かることだ……。母の顔を見ると妙に凪いでいた。まるでこうなると分かっていたみたいに。カランと麦茶の氷が溶け落ちる。コップを握る母の手は微かに震えていた。私達はすぐに身支度を済ませて家を出た。玄関の扉を開けると太陽の光で目がくらんだ。警察署までの道中、車の暑さが気にならないほど、頭の中で電話の言葉が繰り返された。『あの姉さんが? 』延々と繰り返されるこの疑問に終着点はなく、会話のない車のなかでエンジンとクーラーの音だけが流れ続けた。20分程車を走らせて目的の警察署へ着いた。母と2人で車を降りて警察署の自動ドアの前で立ち止まる。もしかしたら姉じゃないかも、私はきっと、確認してしまうのが怖いのだ。進んでいいのだろうか、私が動けずにいると、母は何も言わずに私の手を引いた。自動ドアがガーと開いてクーラーがガンガンに効いているのか身震いしてしまうほど冷たい風が身体に当たった。私達が入り口の前で固まっていると、奥から警察の人が歩いてきた。


「奥へどうぞ」

彼はただひとこと言って私たちを奥の部屋へと案内した。

「遠いところ、ご足労いただきありがとうございます。お辛いでしょうが、少し落ち着いてお話を聞いていただけますか」

「お姉様が発見されたのは、小学校前の海岸沿いの脇道の先の高台です。土砂崩れで道が崩落しており、本来は高台までは行けないのですが、山の斜面を登ったさきの高台から滑落したようです。」

私も母も何も言えない、何かを言おうと口を開きかけては口を噤んでしまう。それでも淡々と警察の人は淡々と続ける。

「季節柄もあり、ご遺体は大変損傷が進んでおりました。ショックを受けられると思いますので、直接のお顔の確認は控えさせていただき、まずは所持品の確認をお願いできますでしょうか」

警察の人が出した物は透明な袋に入った線香の箱とライター、そして、――姉の携帯電話だった。

「ポケットに入っていたものです。……握りつぶされたような『お線香の箱』と『ライター』でした。ご実家の仏壇用か何かでしょうか? お姉様がこれを持っていたことに、何かお心当たりはありますか?」

そうだ。あの日、姉さんに会いに行った日、確かに姉さんからは線香の匂いがした。

「確かに姉さんの携帯電話です。最後に会った日は線香の匂いがしてたような……気がします。」

「そうですか……」

「事件性についてなのですが、あそこは立ち入り禁止の危険な場所です。誤って足を滑らせた不慮の事故なのか、それとも、ご自身で死を選ばれたのか……。遺書もありませんし、我々も断定はできません。最近のお姉様は、何か思い詰めているご様子はありませんでしたか?」

私が、追い詰めてしまったのだろうか、あの日介護を手伝ってなんて言わなかったら姉さんは生きていたのだろうか、答えは分からない。私は……

「……実は、お姉様を最初に見つけたのは、あの辺りで遊んでいた近所の小学生たちでした。異臭に気づいて見つけたそうです」 

「そうですか……」

「ただ、本当に痛ましいことなのですが……。ご遺体を発見してパニックになっていた児童の一人が、後日同じ場所から転落して亡くなるという別の事故も起きていまして……。あそこは本当に、近づいてはいけない危険な場所だったんです」

「あの娘に会わせてください。」

母は突如として言い放った。母の目は真っすぐと警察の人の見据えている。私も続くように言う

「見せてください」

警察の人は困った様子で頭を掻いた

「しかし……遺体はかなりひどい状態ですよ。」

「構いません。」

母は怯まず、警察の人のように淡々と真っ直ぐに言った。

「わかりました。」



私は、遺体安置所の姉を見たとき、後悔した。ひどい悪臭と恐ろしい光景だった。目がなく、腹が裂け、肌は黒く変色していた。でも、アレは、確かに姉さんだった。遺体袋の中には私が最後にあったときと同じ服が納められていた。きっと……きっと姉さんを追い詰めたのは私だ。私が声を漏らして蹲ると、母は隣に座って私の背中を撫でた。母は……つよい人だ。私の背中を撫でる母の手は震えていた。私は何も言えなかった。母も何も言わなかった。家に帰るまでの帰り道、行きしなの空気とはまるで違った。すべてが早送りのような、家に帰ってもただ時間だけが流れていく、ピー!!、父が呼んでいる。行かなければ、私が立ち上がるより早く、母が立ち上がった。母は言う

「大丈夫だよ。」

私はその言葉を聞いて、すぐに立ち上がった。姉さんとの最後の会話を思い出して。母を座らせた。母までいなくなってしまうようなそんな不安が頭に張り付いてしまったから。

「今日は疲れてるでしょ。私が行ってくる」

母の顔は疲れ切っていた。あぁ行かせなくてよかった。これ以上母に負担をかけちゃダメだ。

「どうしたの、父さん」

「どこいっとんたんな! 虐待じゃろうが! なんかい呼んだと思うとるんな! 」

家を出る前に警察署に行くって言ったのに、呼んでもこれないって伝えたのに。この人は、なんでこんなに偉そうにできるんだろう

「警察署だよ。」

「じゃけぇなんなぁ、クソボケが! なんで早くこんかったんなって言うとるんじゃ。」

ダメだ。どうすればいいんだろう。話が通じない、お酒飲んで頭おかしくなって、わたしたちにあたって、だめだ、だめだ、だめだ……

「聞いとるんか! 」

「父さんのせいで姉さんが自殺したよ。」

思わずそう言ってしまった。そうだ、私じゃなくてこの人がまともだったら姉さんは死ななかったはずじゃないか、こんな人がいるから姉さんが死んだ……。

「なんかいいなよ。父さん」

もう笑顔なんて作ってやらない。もう、ダメだ。

「どうして欲しいの?用件を言ってよ。」

姉さんはこれにずっと耐えてたんだ。

「すまん。」

「え?」

思わずそう言ってしまった。父は怒鳴り散らすと思っていたから。その夜は一度も父に呼ばれず、久しぶりにゆっくり眠れた。朝起きて、朝ご飯を作って、父に食事を渡し母と食事を取った。今日は、姉さんの家に行くのだ。姉さんの家に。姉さんの自転車と携帯電話ライターと線香の空箱を持って。

今日は車ではなく、姉さんの自転車で、自転車は島の海風を浴び続けたせいかサビが回り始めているが本当に乗れるのだろうか? 少しの不安を抱えつつ自転車に乗る。乗り心地は悪くないが、人漕ぎするたびギーギーギーと少し不気味な音が鳴った。



【家】



ギーギーギーと鳴る音が私の心をかき回した。父に吐いてしまった言葉に罪悪感を感じる。

『父さんのせいで姉さんが死んだよ。』

本当はきっと私のせいでもある。だから姉の家に着いた時、玄関の前に立った時、言い表し難い感情が頭の中で這い回った。警察の人が返してくれたもののなかに鍵はなかったけど、どうしようか……きっと几帳面だけどどこか抜けてる姉さんのことだ、何処かに落としてしまったに違いない。そう思いつつ扉を引いてみると鍵がかかっているだろうと言う考えとは裏腹に、スッと開いた。すると、強い線香の香りが鼻を刺した。透明な袋の中の線香の箱とライターに目をやる。そうか、姉さん……にしてもあの姉さんが鍵を閉め忘れるなんて、そんな事をうっすらと思った。家の中は、きれいなものだった。生活感のない家、客人用のスリッパが1つと私があの時脱いだスリッパがそのまま並んでいる。やっぱり私が姉さんを追い詰めたのかもしれない。家が怖いと思ったのは初めてだ、明るく日光が入ってきれいで清潔さすら感じるこの家が私を責めているようなそんな感覚、リビングにもホコリ1つない、洗い物はきれいに洗われている。自殺した人の家とは思えない、どの部屋も綺麗に整理され、見た目だけなら幸せな家族の家のような、そんな感じだ。でも、1つ、1つだけ線香の強い匂いがする奥の部屋だけは違った。部屋を開けると、思わず逃げ出したいような気持ちになった。部屋の中には、石油ストーブに回り続ける扇風機、大きく綺麗なテーブルに、何故か2人分ひかれている布団、首を振り続ける人形、なにより目を引いたのは何故か部屋の真ん中にある石油ストーブとその上に置かれた線香立てだ。いまは夏だと言うのに主役と言わんばかりにそこに居座っている。大きな振り子時計の音は私の不安を増幅させた。ここだけ明らかに異質だった。姉さんはこんな部屋で過ごしていたのだろうか……思い出す。

『大丈夫だよ。』

姉さんのあの言葉がぐるぐると回った。

『部屋に入るのが怖い』

こんなにも一歩が遠かったのは初めてだ。嫌な汗が頬を伝った。扇風機の風が線香の匂いとともに顔にあたった。汗でじっとりと張り付いた服のせいか暑いのに妙な寒気を感じる。やっぱり私は怖いんだ。ツバを飲む。拳をぐっと握る。なんてことはない、部屋に入ったとき、その部屋の異質さを改めて実感した。この部屋以外はきれいすぎるほど管理されているというのに、この部屋の床は歩くたびに足の裏にゴミがついた。遠目ではきれいだと思ったテーブルも薄くほこりがかぶっている。そこに一つ指でなぞったような跡があった。真ん中の石油ストーブはよく見ると懐かしいものだった。家族で餅を焼いたあのストーブだ。でもあのストーブは壊れたような気がする。ふと時計に目をやると天井に張り紙があるのに気付いた。それには頑張った。頑張った。と書かれていた。異常だ。姉さんは何を思っていたのだろう。なんでもっと早く気付けなかったのだろう。もしもっと早く姉さんの事を気遣えていたら、もっと別の結果に。そう思いかけてすぐ考えるのをやめた。きっと結果は変わらなかったはずだ。そのはずだ。その時その思考を遮る様にプルルルルルと電話がなった。お母さんからだ。

「もしもし、お母さんどうしたの?」

「ごめんね。帰ってきてくれる?」

お母さんの声は震えていた。



【自転車】



新しい道を見つけた。心地いい海風が流れる海岸線沿いの脇道の先だ。友達を引き連れて立ち入り禁止の看板を無視して坂道を登っていく。

ゆうくんは「危ないよ、引き返そう」と言うが僕とケンちゃんは2人で「大丈夫だよ!」と言いゆうくんの手を引いて進んだ。

しばらく進むと山の斜面に立てかけるように自転車が放置されていた。誰かが捨てたのだろうか? 周りを見渡すとすぐ先の道は土砂崩れで崩落していた。まさかと思い四つん這いになり、頭だけを下へと覗かせる。人は落ちていない。

僕が一人安堵の表情を浮かべていると、ケンちゃんが

「おい、この自転車まだ乗れそうだぞ! 」と言った。僕は振り返って「本当! 」と聞く。僕らには少し大きいが、お父さんやお母さんに自転車をせがんでも買ってもらえない僕たちには、思ってもみない幸運だ。僕らはその自転車に交代で乗っては登ってきた坂を猛スピードで下った。登っては下り、登っては下りを繰り返す。自転車はギーギーと不気味な音を鳴らすがそれ以外は問題なく動く。3人で交代で自転車を楽しんだあと僕らは土砂崩れでなくなった道の少し手前に秘密基地を作ることにした。適当な枝を集めて斜面に立てかける。大きな枝を立てかけただけの小屋とも言えないその秘密基地で僕らは遊んだ。気が付けば海が赤く染まっている。家に帰らないと、僕らは自転車を秘密基地のなかに隠して3人で家へと走った。

次の日、3人で集まって秘密基地の話をする。ゆうくんは花札を持っていくと言う。ケンちゃんは煎餅を、僕はおじいちゃんの倉庫からこっそりノコギリと釘とトンカチを、放課後また3人であの場所へ行く。坂道を登ってその秘密基地へ、ワクワクする響きだ。僕は3人で役割を決めて秘密基地を大きくしようと提案した。ゆうくんは枝運び、ケンちゃんはノコギリで木を集めて、僕がそれを釘とトンカチでくっつける。皆すぐにすぐにそれぞれの事をやりに行った。僕だけ最初手持ち無沙汰だったからケンちゃんと一緒に木をきりに行こうとした。するとケンちゃんは言う「なぁ、ここ足跡があるぞ」僕がそれを見ると確かに大きな足跡があった。もはや壁と言っていいレベルの斜面に足跡があり、足跡は上まで続いている。僕とケンちゃんは話し合ってから木を切るのをいったんやめ、上に登ってみることにした。ゆうくんが来るのを待ってから3人でだ。ゆうくんがかえってきてその斜面を登ろうとするが急すぎて足をかけようにも届かない。3人でなんとか順番に引き揚げてはまた押してもらってと言う感じで登ろうともしてみるも上まではたどり着ける気配がなかった。仕方なく僕らは秘密基地づくりをいったんやめて、木を切り、梯子みたいに枝を立てかけてそれを使って登ることにした。だけれど、そこまで太くない木だと言うのにびくともしない、3人で交代でノコギリを引いた。引っかかって抜けなくなったら3人で引っ張る。そして、半日かけてやっとその木が倒れた。バキッと大きな音を立てて木が滑り落ちて斜面へと滑り落ちた。こっちに倒れてこなくてよかった……。幸いなことに切ったそれはうまいこと斜面にもたれかかるように滑り落ちてくれたおかげで思った通り梯子のように登れた。3メートルくらい登ると結構広めの獣道がありそこにも足跡が続いていた。僕ら3人はその足跡を追いかける。木々が揺れ、不気味に鳴く鳥の声にゆうくんは怯えていたが僕とケンちゃんは「大丈夫! 」とゆうくんの手を引いて進んだ。しばらく歩き続けるとツンと鼻を刺す臭いがした。線香のような、ごみ袋みたいな何とも言えない嫌な臭いだ。僕らは鼻をつまんで歩いた。てっぺんにはひらけた広場のような場所があった。夕日がすごくきれいに見える場所だ。他には大きな石碑のような物があるだけ。ふと、周りを見渡すとゆうくんが夕日をみようと奥の方へ歩いていた。僕とケンちゃんが「あんまり向こうへいくなよー」と叫んで他に何かないかと周りを散策しているとゆうくんの「うわぁ!」と叫ぶ声が響いた。僕とケンちゃんがゆうくんのほうを見るとゆうくんは尻もちをついて震えていた。何事かと2人で近付いてゆうくんの様子を見ると、下を指さして何かをポツポツと呟いていた。僕とケンちゃんも指の先を見ると、恐ろしい光景があった。何かを握りしめている人が横たわっていた。最初はなんのことないと思っていたが、よく見ると腹から黒い液体を漏らし、目はくりぬかれたように空洞になっている。慣れていると思っていたイヤな臭いが鼻を刺す。線香のような臭いをかき消すようにイヤな匂いが海風に乗って顔に当たる。思わず僕は吐いてしまった。ケンちゃんは走って逃げ出した。僕もゆうくんの手を引いてケンちゃんを追いかけた。しかしケンちゃんは途中で見失ってしまった。きっと先に帰ってしまったのだろう。僕とゆうくんも木を伝って降りて、2人であの自転車に乗って家まで還った。心細かった僕はゆうくんを乗せたまま家まで帰った。

自転車を1漕ぎするたびギーギーギーと音が鳴り、冷たい風が頬をなでる。ゾクッと鳥肌が立ち、あの光景を思い出す。家に着いたというのに落ち着かない。僕はお父さんお母さんに何があったかを話し、ゆうくんを家まで送ってもらった。ケンちゃんは大丈夫だろうか、翌日ケンちゃんは来なかった。学校から帰る前、先生から報告があった。ケンちゃんはあの土砂崩れしていた道から落ちて亡くなっていた。僕が秘密基地なんかへ誘わなければ……。

後悔は僕を慰めなかった。ただ、楽しい時間過ごしたかっただけだった。僕はどうしてみんなを誘ってしまったのだろう。自転車の音はあの光景を呼び起こす。


ギーギーギーと音が鳴る。

僕を通り抜けて進んでいく。

ギーギーギーと音が鳴る。

僕の後悔を乗せて進んでいく。

ギーギーギーと音が鳴る。

追いつこうと手を伸ばす。

ギーギーギーと音が鳴る。

最後に感じた海風は顔色を変えた。



【線香】



線香を買った。

意味なんてない、仏壇も無ければ家族の墓もない。ただ業務用スーパーで食品を買いだめしに行って、レジの前に置いてあるその線香が目に入ったから。

私の部屋は綺麗に片付けてあるが、全くもって変な部屋だと言えるだろう、扇風機の隣には石油ストーブ、狭い部屋には不釣り合いな大きく美しい螺鈿のテーブル、一人になる前は石油ストーブで家族と餅を焼いた。壊れてしまったそれにもう火が灯ることはないが、いまだに部屋の真ん中に置いてある。そこに灰皿の上に陶器の小さな花受けを置いて線香をさした。

酷く懐かしい匂いが鼻をさした。

幼い頃、仏壇の前で父が刀の手入れをしていた。

私は父にかまってほしかったんだ。それで、

「お父さん!」と抱きついた。父は怒った。私が抱きついた勢いで掌を大きく切ってしまったから。父は短気な人で私に刀を突きつけて怒鳴る。今考えてみれば人からはホラだと思われてしまいそうな話だが、私にはそれが強く記憶に焼き付いている。父は悪い人ではない、ただ酒に飲まれやすく短気で、寂しがり屋で、でもお喋り好きの人だった。父は戦争の話が好きだった。幼い私に何度も戦争の映画を見せて、私はそれを見て泣いた。幼い頃に見た戦争映画の光景を理解しようとはしたのだ。しかし当然ながら私の目にはそれは”悪”でしかなかった。戦争に対して私が嫌悪をの言葉を父に漏らすと、父は「皆日本のために死んだんだ。すごい人たちなんだ。」と私に映画を強要した。何度かの反発のあと、私は父にいった。

「人を殺すための道具をつくってるって変だよ。」

戦争の意味を見いだせない、その光景は無残な惨状、残るのは主人公のトラウマと救われない事実、全てを理解していなかったが、最初の一つで十分だった。父は釣りが好きだった。初めて父との釣りの時、私は楽しみで仕方がなかった。

「まだ?」「まだ行かないの?」

と急かす私の声を聞いたおじいちゃんが先に行くか?と私に言った。私は、おじいちゃんと釣りに行った。父は遅れてくると思っていた。しかし父は来なかった。裏切られたように感じたのかもしれない。

そんな父とは反対で母はいつも優しい人だった。いつだって私の味方だった。だと言うのに、そんな母よりも嫌な父親のほうの記憶が鮮明だ。

自分に対して嫌悪感を感じる。釣りの件しかり、私はよい人間ではないのだろう。想像力が足りないのだろう。そんな事を考えながら線香を見つめていると、全ては灰へ還った。

特別なんてものはない、意味なんてものは無い、私は線香にまた火をつけた。その匂いは祖父との思い出を思い起こさせた。私は小さな島で育った。高台には台座しかないが、銅像があった。戦争の際に金属が必要で取り壊されたのだとか、今では整備すらされておらず、道中のサボテン丘は道路まで侵食しかけていた。祖父は私に言う

「多くのことに意味なんてないよ。すべてのことは地続きで終わってみなきゃわからない。」

昔は理解できなかったが、今ならば何となくわかる。それはきっと本質だ。おじいちゃんを見上げて、手を握る。釣りの帰りは寂しかった。お父さんが来てくれると思っていたから。



我に返る。

ピンポーンとインターホンの音がした。玄関を開けると、妹がいた。叔父と叔母がいたときからほとんど変わっていないリビングに妹を入れてお茶を入れた。すると、お茶も飲まず単刀直入に「介護を手伝ってよ」と言った。 

父が難病を患ったのだ。そうは言うが、私にどうしろというのだろうか、父へ善意を向ければ悪意が返ってくる、悪意には悪意を返す。しかし今の私は違う、悪意にも善意を、そして笑顔を貼り付けた。それでも、私は父を手伝った。すると、父は私のことをこう言う、「あいつは俺を殺す気だ」

意味なんてない、それはきっと私に助けられるのが嫌だからだろう、だけれど、私にはそれが耐えられなかった。

私は父が嫌いだ。難病を患った父は今では一人ではほとんど何もできない、酒に逃げ、動けなくなり、そして漏らす。その片付けは私と母がしていた。いまは妹と母がしている。私は、逃げたのだ。死んだ祖父と祖母の家に私は一人で住んでいる。酷く広いその家に、1つだけある小さな客間を、思い出で満たして。嫌いな父親と……私はよく似ている。すぐに逃げてしまう所や弱いところが多いところ、顔立ちに、難病まで、本当に、私は私が嫌いだ。こみ上げてくるその嫌悪感を飲み込もうとする。

私は何も言えず静寂だけが流れる。妹は私を見つめて「元気にしてるの?」

と聞いた。ただ一言

「大丈夫だよ。」

とだけ言った。あれだけ仲の良かった妹との距離感も、今となってはすっかり忘れてしまった。罪悪感もあるのだろう、私はどうすればよかったのだろうか、考えても答えなどでない、そしてやっぱり、私は逃げた。妹には手持ちの金をすべて渡して帰らせた。あの部屋に戻って、いつの間にか消えてしまっていた線香に火をつけた。

この先はどうなるのだろうか、全ては地続きだ。私の先に父がいる。終わった先の意味を私が見たとき、私はそれを受け入れることができるだろうか、考えたが、やっぱりその思考は強い海風に当たって回り続ける風車のように止まることはない、そして、線香の火が消えた。祖父が死んだら売るようにと言われていた螺鈿のテーブルを手でなぞる。線香を置いていた石油ストーブと前に座ってみる。家族で戯言を叫んだ扇風機をつける。どれもこれも、意味なんてない。


立ち上がって深呼吸をする。吐く息は妙に震えている。私はあの場所に行かなければならない気がして、海風を浴び続けたからか、錆が回り始めている自転車に乗った。何故か線香とライターを握りしめてギーギーと音を立てて自転車は進む、意味なんて無い、サボテン丘に行くのだ。あの銅像の無い台座へ行くのだ。高台へ登る道中、道が土砂崩れで崩落していた。私は辺りを見渡して、急斜面の木が目についた。強く握ってシワシワになった線香の箱とライターをポケットに入れ、木をつかんで道と呼べないほどの斜面を登った。祖父と並んで見た台座はなくなっていた。石碑は壊れていた。だが、そこから見える海の景色は変わらない、海が燃えている。ゆらゆらと燃えて見えたその光景を焼き付け、祖父の姿を思い出す。あの人は今の私をどう思うだろうか、この通過点はいつ終わるのだろうか、私は家に帰ろうとした。しかし、私は足を滑らせた。全身が強張り、時間が引き延ばされたようにゆっくりと落ちていく、なんて愉快なんだろう、落ちていく光景のなかに石柱ごと滑り落ちたあの台座があった。それに手を伸ばして……


――バギッと嫌な音共に激しい衝撃が走った。

目を開けると、遥か上に私が立っていた高台があった。がどういうわけか痛みはなかった。立ち上がろうと体を起こそうとするが、私の身体は言う事を聞かない、下半身が動かない、これは良くない、しかし、同時に愉快だった、少なくとも私は父とは違った。私はポケットのなかの線香を取り出して束を外さず全てに火をつけた。つよい匂いが鼻をさした。おじいちゃんを思い出させる匂いだ。私は目を瞑った。今はただ、優しい思い出に浸っていたいと思ったからだ。だが、強すぎるその匂いはむしろ私の思考を現実に貼り付けた。目を開けて、空を見つめる。思わず言葉が漏れた。

「意味はあったのだろうか」


強烈な線香の煙が海風に乗って流れていく、心地良い風が顔を撫でる。海はゆらゆらと燃え上がり、夕日は煙の輪郭を鮮明にした。全ては地続きだ、果てに見えたそれは……。

――少なくともひどく美しいものだった。




最後までお読みいただき、ありがとうございます。

それぞれの視点から語られた物語が、「線香」と「崖の下の遺体」を通して一つに繋がったとき、大きな衝撃があったのではないでしょうか。あったら嬉しいです。

家族への複雑な思いや自己嫌悪を抱えたまま生きた姉の最期は、決して救いのあるものではなかったかもしれません。しかし、彼女が最後に線香の煙越しに見つめた夕暮れの海は、皮肉にも「ひどく美しいもの」でした。

一方で、残された家族や凄惨な現場を目撃した少年は、これからも後悔や悲しみを抱えながら人生の続きを歩んでいきます。

本作は明確なハッピーエンドではありませんが、理不尽で残酷な人生の中にも、終わってみて初めて気づく「意味」や「美しさ」があるのだと思います。この物語の余韻が、皆様の心に少しでも残れば幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ