第5話 シグナル
【2034年11月22日 水曜日 02:14 東部標準時 メリーランド州フォート・ミード NSA本部】
メリーランド州フォート・ミード。九〇〇エーカーを超える広大な敷地の中心に、その「宮殿」はそびえ立っている。国家安全保障局本部――通称「パズル・パレス」。
夜空よりも暗い鏡面に覆われたビル群は森に隠れることをやめ、むしろ周囲を圧倒するような沈黙を保っていた。建物を覆う黒い特殊シールドガラスは、内部から漏れる電磁波の一片すら許さない。
それは、世界中の情報を吸い込み、決して何も吐き出さない巨大なブラックホールだ。
その最深部、電磁波遮蔽された地下階に広がる統合監視センターは、常にある種の神聖な静寂に支配されている。幾重にも連なるコンソールが奏でる液冷ポンプの微かな拍動と、アナリストたちが叩く静電容量無接点キーボードの軽い音。それが、この国の防衛の鼓動だった。
NSA分析官アーサー・アート・キングスレーは、デスクに置かれたセラミック製のマグカップから冷え切ったコーヒーを口に含んだ。表面に張った薄い膜が唇に触れる。三日間で睡眠時間は計六時間。網膜の裏側には、常に緑色の文字列が焼き付いている。
彼の正面にあるコンソールは、今、歴史的な移行期の只中にあった。
三十年にわたって世界中の電波を貪り続けてきた「エシュロン」は、その全機能を、量子解析AIを中核とした新世代の全方位統合監視システム「オーリス」へと明け渡しつつある。かつての耳は、今や予知能力に近い解析精度を得ようとしていた。
その時だった。
静寂を引き裂いたのは、デジタルな電子音ではなかった。コンソールの隅に設置された物理的な赤色回転灯が、鈍い音を立てて回り始めたのだ。
ホコリを被っていた「レガシー」が突如として息を吹き返し、血のような光を放って、そこにいる者の神経を逆撫でる。
最新鋭のデジタル・インターフェースの中で、この赤ランプだけが前時代的な異彩を放っていた。
それは、システムが最優先警戒事項を検知した際、アナリストの眠りを強制的に覚醒させるために残された、最後の物理的な警告だった。
「ハロー、ベイビー。何を持ってきた?」
キングスレーは身を乗り出し、コンソールを叩いた。
『警告。短波暗号バースト通信を検知。送信時間は〇・八二秒。複数のSIGINT衛星による到来角および到達時間差解析を行い、電離層反射モデルで補正した結果、発信元はシンガポールである可能性が高いと判断します。暗号パケットの末尾に、朝鮮人民軍偵察総局が用いる位置情報秘匿プロトコルに酷似した数値配列を検出。……座標に変換しました。北緯四二度二五分、西経七〇度一五分――マサチューセッツ湾外縁部。また、暗号ヘッダー内に識別子「BBB」を検出。よって、国家優先警戒順位をレベル1に移行します』
オーリスの中核AIであるミネルヴァの声に、キングスレーの指が止まった。
「……BBBだと?」
その三文字は、今や合衆国にとって、消えない呪いだった。
二年前、コロラド州ボルダー。ATFの特殊部隊が極右テロリスト「リバティ・バード」のアジトである民家を急襲し、制圧した。そこで発見された巣箱爆弾――通称「BBB」。
制圧自体は成功裏に終わったが、そこからが当局の敗北の始まりだった。
サーバーに残されていた拠点のリストを特定して踏み込んだ時には、すでにすべてがもぬけの殻だった。
その後、各地で発生する散発的な爆弾テロに政府は手をこまねいていた。
特に、一年前に起きたテネシー州のショッピングセンターでの爆弾テロは、大惨事を招くことになった。リバティ・バードが犯行声明を出したものの、未だに犯人は捕まっていない。
本来ならば、国内テロの問題は司法省の管轄だ。対外諜報を主とするNSAの出る幕ではない。
しかし、BBBとなれば話は別だ。早急に事態を把握する必要がある。
「ミネルヴァ、その座標に何がある? 使用可能な全衛星を、そこに回せ!」
数分後、低軌道の光学偵察衛星から届いた高解像度画像が、波の荒い冬の大西洋を映し出した。
闇夜の海上を東に向かって航跡を描いていたのは、錆に覆われた一隻の老朽貨物船だった。その黒い船体には、白いペンキで無骨に「KOBAYASHI」と記されている。
それを目にしたキングスレーの顔が、大きく曇った。
彼は画像をさらに拡大し、その細部を走査する。彼の脳は、情報の断片から違和感という不純物を抽出する高精度のフィルターと化していた。
「……おかしい。ボブ、この船の名前を見てくれ」
キングスレーは、隣の席で予備モニターを眺めていたベテラン解析官のボブに意見を求めた。
「コバヤシ号……国旗とともにはためいているのは、フガク・グローバル・ラインの社旗だな。こいつは日本の社船だ。それがどうかしたか?」
「丸がないんだ」
「……丸?」
「船舶法取扱手続。一九〇〇年の日本の逓信省公達だ。その第一条に、『船舶の名称にはなるべくその末尾に丸の字を付せしむべし』とある。二〇〇一年の訓令改正で削除されたが、この船の錆の浮き方やデリックの形状を見てみろ。二十世紀後半の建造なのは明らかだ。その時代の日本の海運会社が、伝統である『丸』を付けずに進水させたとは考えにくい。それに、日本の最大手であるFGLが、なぜこれほど旧式の老朽船を、わざわざコストのかかる日本船籍で直営にしている?」
キングスレーの指が、キーボードの上で舞った。
「現代の海運業界では、コストをドル化し、厳格な国内法の規制を避けるために、こうした外航船はパナマやリベリアの便宜置籍船にするのが常識だ。FGLの船団リストを引いてみろ。外航船の九割以上がパナマ籍だ。なのに、この老朽船だけが日本の国旗を掲げ、『JAPAN』の文字を誇示している。なぜだ? 答えは一つだ。日本の看板という最強のパスポートを悪用するためだ」
キングスレーは即座に、神戸のFGL本社へNSAの特権アクセスを用いた緊急照会を飛ばした。そして三分後、同社の船舶認証データベースが返してきた自動応答の内容は予想どおりのものだった。
『所有船舶に該当なし。当該名称の船舶を運航した記録なし』
「偽装船だ」キングスレーは吐き捨てるように言った。
「ミネルヴァ、合成開口レーダー衛星で船体の構造解析を。揚貨装置の形状に注目しろ」
『解析中……。独特なトラス構造、および船尾のバラスト排水口の配置を確認。かつてモンゴル船籍を偽装し、元山を拠点に活動していた北朝鮮工作船「三池淵三号」の改修モデルと九六%の確率で一致します』
赤い回転灯の光が、キングスレーの顔を交互に赤と黒に染め抜く。その様は、地獄の業火に照らされているようにも見えた。
「……正体を現したな、幽霊船め。ミネルヴァ、コバヤシ号の航跡を洗え。AISを遡るんだ」
『照会中……。現在の座標にAIS信号は確認できません。ですが、民間商用データおよび信号機密アーカイブを照合のうえAISの履歴アーカイブを遡った結果、昨日十七時十五分、フガク・グローバル・ライン所属「KOBAYASHI」としてボストン港第十一埠頭への入港が確認できました。荷揚げ完了後、本日〇〇時三〇分に離岸。税関の自動検閲システムは、同船を「信頼レベル:高」の日本船籍としてパスさせています』
「ボストン海軍工廠の目と鼻の先だぞ! 税関の自動検閲をどうやって抜けた?」
「落ち着け、ボブ。おそらく奴らは、デジタル署名を盗み出したんだ。そして、港湾局のAIが信じ込んだのは、本物のFGLの認証キーというわけだ」
「港湾局は何をやっていたんだ! FGLの本社なり支社なりに照会するだけで、コバヤシ号が偽装船だと分かるじゃないか!」
「彼らを責めるな。港湾局のシステムにとって、FGLの看板は『無条件パス』だ。偽造であれ、正規の認証キーが載ってさえいれば、ACEはわざわざ日本の本社に照会なんてかけやしない。一次認証が通った時点で、下流照会はスキップされるからな。だが、俺たちは違う。俺たちは、疑うのが仕事だ。だからこそ、本物のFGLはそんな船を一隻も動かしていないという事実を突き止められたんだ」
キングスレーは既に緩んでいたネクタイに手を掛けて、さらに緩める。そして、悔しそうな表情をモニターに向けた。
「あの北朝鮮の船は日本の看板を盾に、正面玄関からボストン港に入ってきて、悠々と荷を降ろした。おそらくそいつは『BBB』だ。リバティ・バードのロジスティクスを支えていたのは、ホームセンターなんかじゃなかった。北朝鮮だったんだ。これまでの数々の爆弾テロは、奴らが仕組んだ壮大な攻撃プランのベータテストに過ぎなかったのかもしれない」
キングスレーの焦りを含んだ声に、ボブが椅子を軋ませて身を乗り出す。
「北朝鮮か……。ここ数年、核開発やミサイル実験の動きが鳴りを潜めていたが、爆弾テロに舵を切ったということか?」
「おそらく、そういうことだろう。ミネルヴァ、バースト通信の発信元は、シンガポールのどこだ。平壌の出先機関か?」
『発信元はシンガポール、タンジョン・パガー。ゴールデン・パシフィック・トレード社』
ミネルヴァの合成音声は、まるで朝のニュースを読むように淡々としていた。
「ゴールデン・パシフィック・トレード? 聞いたことのない法人だな。どんな会社だ」
『GPT社の企業スコアを照会。……クリーンです。過去一〇年の国際取引において、禁輸措置対象国との接触はゼロ。代表のロン・チェンは慈善活動家としても知られる実業家です』
ミネルヴァの報告に、ボブが鼻を鳴らす。
「ほう、クリーンすぎて逆に怪しいな……いや、怪しいどころか、臭すぎる。ミネルヴァ、ロン・チェンをもう一度洗え。資産の還流、隠し口座。マカオ、あるいはウィーンの休眠口座との接触履歴。そして、血族も忘れるな。三親等で何も出ないなら、その先まで潜れ。シンガポールのクリーンな顔の裏には、必ず泥を啜っている親族がいるはずだ」
演算ユニットが唸りを上げ、数分後、モニターに赤と黄のラインが絡み合う、蜘蛛の巣のような家系図と資金移動図が投影された。
『……リンクを検出。ロン・チェン代表の又従兄弟の妻、その実父がマカオで経営する「ゼニス・オリエント・ホールディングス」。当該法人は朝鮮人民軍偵察総局の資金洗浄フロントとして、十年前から財務省のブラックリストに掲載されています。GPT社とこのマカオ法人の間には、シェルカンパニーを経由した数千万ドルの還流が確認されました』
「繋がった。チェン・ロンは平壌が西側に飼っている『フロントマン』だ」
「……チェン・ロンか」
「ああ。もうロン・チェンじゃない」
ボブの言葉に、キングスレーは汗ばんだ手でネクタイを襟から抜き取った。
「シンガポールのフロント企業から平壌に向けての、『BBB』を含んだバースト通信。そして、その暗号通信には、ボストンから逃げ去る北朝鮮船の座標が込められていた。ボブ、こいつの意味するところが分かるか?」
「舐めて貰っちゃ困る。チェンは、偵察総局から報告を求められた。おそらく、何らかの作戦の進捗状況についてだろう。そして、その報告にはコバヤシ号の座標が含まれていた。つまり、奴らはボストンで何かの作戦を遂行したってわけだ」
ボブの言葉に、キングスレーは大きく頷く。
「そうだ。奴らはボストンで一仕事を終えた。今、奴らは一刻も早く、合衆国の庭であるこの海域を離れたいはずだ。その工作船の現在座標を暗号に込めたのは、平壌が具体的な報告を求めたからだろう」
「チェンからすれば、迷惑な話だな」
「ああ……作戦遂行上、最重要な秘匿情報を報告しろと総局に命じられた奴の気持ちが、痛い程分かる」
「そういえば、お前も現場にいた頃――」
「俺の話はどうでもいい……ミネルヴァ、奴がボストンで何を捨てたか、分かるか?」
『品目:高級知育玩具。全二〇〇パレットが陸揚げされています。質量の推定を開始します。港湾局の監視カメラデータとSAR衛星データを統合。コバヤシ号の入港時と出港時のバラスト水排出量と喫水変化およびローリング周期を照合。さらに、クレーンの稼働ログを同期。……消失質量、約一〇トン』
「一〇トンか……」
キングスレーの脳内で、過去のデータが火花を散らす。
「ボブ、ボルダーで回収された巣箱爆弾は、一個あたり一・六キロだったな?」
「ああ。C4が四五〇グラム、ケースと起爆装置、バッテリー込みで、その程度だ」
「消失質量から一般的なパレットの自重を差し引くと、内容物の純質量は八トン弱……。こいつを二〇〇パレットで割ると――」
「一パレットあたり、四〇キロ前後か」
「そうだ。そして、ボルダーで大量に回収されたBBBの標準質量は、平均約一・六キロ。……四〇を、一・六で割れば――」
「一パレットに、二五ユニット」
「それが二〇〇パレット分。計算が合う。五〇〇〇だ。奴らはBBBを、五〇〇〇個も運び込みやがったんだ!」
ボストン沖で荷揚げを済ませた工作船『KOBAYASHI』は、既に公海へ向けて動き出していた。モニターに映るその光点は、まるで闇へ溶け込もうとする亡霊のようだった。
「ミネルヴァ、ボストンで陸揚げされたパレットの最終的な行先はどこだ。リバティ・バードのアジトか、それとも中継地点の隠れ家か」
『拒絶します』
ミネルヴァの無機質な返答は、あまりに予想外であるとともに断固としていた。
『対象の貨物は、国内配送網の「認可済みプライバシー区画」へと移送されました。荷受け主は国内の一般法人であり、現在、法的な監視対象外です』
「一般法人だと!? ふざけるな! 偽装船から陸揚げされた五〇〇〇個のBBBを、どこの一般法人が受け取るっていうんだ! 冗談も大概にして、荷物の行方を答えろ! そうすれば、爆弾を積んだトラックを止められる!」
『合衆国法典第一八編、および合衆国憲法修正第四条に基づき、民間企業の顧客データおよび個人の配送先情報へのアクセスは、司法省の発行する有効な令状なしには禁じられています。あなたのアクセス権限では閲覧不能です』
「令状だと!? 平壌あてにBBBの符牒が放たれ、目の前では北朝鮮の工作船が逃げている。状況証拠はそろってるんだ! 法律を守っている間に国が吹き飛ぶぞ!」
『法律こそが本システムの倫理的基盤です。令状の申請を推奨します』
「さっきは、チェン・ロンの身元を素っ裸にしただろうが! 何を今更、寝言を言ってる!」
『国外には保護すべき情報など一切ありません。ですが、国内のプライバシー保護は優先事項です』
キングスレーはデスクを強く叩いて、髪をかきむしった。
「AIだと? 冗談じゃない。こいつは、ただの巨大な検閲装置だ! AIのせいで、俺たちは敵よりも先に味方の法律に殺される。ミネルヴァ、お前が守っているのはアメリカ市民のプライバシーじゃない、敵の破壊工作だ!」
「落ち着け、キングスレー。ここは、ミネルヴァが正しい。我々にできるのは、ここまでだ。確かにお前の分析で、あの船が北朝鮮の工作船であり、シンガポールのフロント企業を通じてリバティ・バードと繋がっている可能性は十分に示唆された。だがそれは、推論にすぎない。直接的な爆発物の証拠がない以上、国内の物流を止める権限は我々にはないぞ」
「推論だと? 違う! これは確信だ。――そうだ! あの船には必ず、リバティ・バードへの指示書や航海日誌など、証拠が満載のはずだ。もしかしたら、荷降ろししきれなかったBBBがあるかもしれん。それらを手に入れれば、すべてが繋がるはずだ!」
キングスレーは勢いよく席を立ち、デスク背後の壁面に埋め込まれた厚い鋼鉄製のセキュリティ・ボックスに手をかけた。そして、静脈認証とパスコード入力を経て開いたその中から、赤い受話器を取り上げる。
それは、特定の緊急事態にのみ、ホワイトハウスのシチュエーションルームを呼び出すための「バックドア」だった。
「……NSAのキングスレーだ。最優先通報。国家安全保障担当補佐官を呼び出せ。……ああ、寝ているなら叩き起こせ! 今、合衆国に『コバヤシマル・シナリオ』が走っている。五分以内に説明を終える。……もし俺が間違っていたら、朝にはクアンティコの監獄へ放り込んでくれて構わない」
彼は赤い回転灯に照らされながら、厚いコンクリートの壁の先、ワシントンD.C.の方向を鋭く睨みつけた。
(※1)ミネルヴァ:MINERVA「 Managed Integrated Network for Evaluative Risk & Vigilance Analysis (リスク評価および警戒分析用統合管理ネットワーク)」の略称。
(※2)コバヤシマル・シナリオ:アメリカのSFシリーズ『スタートレック』に登場する、「勝利が存在しない状況」における判断力と対処法を試すための、宇宙艦隊アカデミー士官候補生向け演習。




