第4話 ホワイト・ナイト〈2〉
「負債の半額を負担するだと? そうなれば、話は大きく変わってくるぞ、ジェームズ。銀行団が我が社を切り捨てようとしているのは、負債が巨額すぎるからだ。その半分――つまり三〇〇億ドルが第一四半期末までにキャッシュで入れば、銀行団との交渉テーブルは百八十度ひっくり返る。バランスシートは劇的に改善し、我々は敗残兵としてではなく、勝利の女神として取締役会に立てるんだ!」
ロバートに言われなくても、ハミルトンには分かっていた。チェンの申し出が、ホーム・フロンティアにとっての福音であることを。
しかしハミルトンは、縋りたい気持ちを押し殺し、老練な経営者の目をチェンに向けた。
「だが、チェンさん。君は根本から間違っているんじゃないか? 負債の肩代わりと引き換えに玩具を配れと言うが、財務省の外国投資委員会が、我が社のような重要インフラ企業へ得体の知れないアジアの資金が大量に流れ込むのを、黙って見過ごすはずがない」
するとチェンが、一通の封筒をおもむろに差し出した。そこにはホワイトハウスの刻印と、大統領令に付随する極秘の執行通達が収められていた。
「これは、現政権が進める『次世代育成と国内インフラ再興』の極秘プロジェクトです。財務当局や監査法人への道筋はすべて付いています。貴社が受け取るのは、一切の法的瑕疵がない、クリーンな救済資金です」
ハミルトンはその書類を凝視した。おそらく偽造だ。こんな得体の知れない男が、本物の大統領令などを持っているわけがない。
ハミルトンは、少しでも地獄から抜け出せるとぬか喜びした自分が情けなくなった。そして、自分を踊らせた目の前の男に憎しみを抱く。
ハミルトンは身を乗り出し、チェンを鋭く睨みつけた。
「チェンさん、君の言う『国家プロジェクト』という言葉を、言葉通りに信じるほど私は純粋じゃない。この規模の送金があれば、財務省の金融犯罪捜査網が即座に動く。そこに考えが至らないほど、私は愚かではないつもりだ」
チェンは微動だにせず、だが少し言葉に詰まったかのような気配を滲ませた。その様子に、ハミルトンは口角を歪める。
――やはりな。こいつは、ただの詐欺師だ。
「チェンさん。君が何を思って私のもとを訪ねてきたのかは知らん。だが、ワシントンの友人に電話一本入れれば、君の正体はすぐに割れる。そして、この部屋を出る時には、特別製の腕輪をしていることだろう」
ハミルトンはそう言うと自分のデスクに戻り、卓上の受話器を取って、ある番号をダイヤルした。
すると、電話機のディスプレイに旧知の財務次官補、エドワード・ゴールドマンの顔が現れた。
「エドか? ランチタイムにオフィスにいるとは、君らしくもない」
ハミルトンは、探るような笑みを浮かべた。
『ジェームズ、久しぶりだ。例のレシートの件で君の髪がさらに白くなっていないか心配していたよ。君から電話が来るとは、どうやらチェン氏の話を聞いたようだな』
「何だって?」
『ジェームズ。彼の話は本物だ。大統領も、ホーム・フロンティアのようなアメリカの象徴を沈ませるわけにはいかないと考えている』
「……財務省が海外財団の露払いに立つとは珍しいな。ところで、エド。三年前の夏、マーサズ・ヴィンヤードの君の別荘で話した、あの馬鹿げた投資話を覚えているか? 君はあの時、絶対に手を出さないと言っていたが、今の君の態度は、あの時の慎重さとは正反対に見える」
画面の中のゴールドマンは、眼鏡のブリッジを中指で押し上げる独特の癖を見せ、苦笑した。
『ジェームズ、君の優秀な海馬も焼きが回ったか? あの夏、私たちがいたのはヴィンヤードじゃない、ハンプトンズだ。そして、私の記憶が確かなら、投資の話なんてしていないはずだ。それよりも、君は一晩中、新しいヨットの自慢話をしていたじゃないか。私は聞き飽きて、バーボンをおかわりばかりしていたよ』
滞在地の訂正、そして自分が確かにその夜、新しいヨットの話に夢中だったという事実。話し方のテンポ、眼鏡を押し上げる癖まで、紛れもないエドワード・ゴールドマン本人だった。
どうやら電話回線をジャックされて、ディープフェイクと話していたわけではなさそうだった。
「……失礼した。どうやら混乱していたのは私の方らしい。このプロジェクト、本気なんだな?」
『ああ。このプログラムは、合衆国の次世代教育インフラの構築を行うための極秘の国家戦略の一環だ。彼らシンガポールの財団は、単なる出資者にすぎない。運営主体は国内のNPO法人だ。そして、財務省や対米外国投資委員会の審査は、私が特例を認めさせている。ジェームズ、これは国家の意志だ。そして、この話は墓まで持って行ってくれ』
「ならばなぜ、君から電話してくれないんだ。あるいは、財務省の役人が持ってくるべき話なんじゃないのか、これは」
『察してくれ、ジェームズ。我々は、そう簡単には動けないんだ。次にD.C.に来た時は声を掛けてくれ』
通話が切れた後、ハミルトンはもう一本電話を掛けた。そして、画面に現れた国土安全保障省の知人も、エドワードの話を裏付ける。
受話器を置いたハミルトンは、深い溜息をついた。政府の高官が直接保証し、財務省の免除まで得られている。これ以上の裏付けがあるだろうか。
だがその時、法務顧問のサラが鋭く言い放った。
「チェンさん。児童オンラインプライバシー保護法はどうクリアするおつもり? それに高級玩具と言いながら、中にデータ収集用のデバイスを仕込んでいるなら、法務省が黙っていないわよ?」
「パズル内部には、学習ログを記録するための標準的な基板と、耐久性を担保する樹脂パーツが封入されているだけです。そして、すべてのデータは匿名化され、米国内の政府監視下にあるサーバーで処理されます。検品ラインのX線スキャナーを通せば、それがクリーンな電子玩具の構造であることが一目で理解できるでしょう。分解されたとしても、そこにあるのは教育用の安価な回路だけです。つまり、COPPAには抵触しませんし、法務省が目をつける理由もありません」
「確かに、問題は無さそうに見えるわね。ただし、今の議会での話よ。次の政権のもとで公聴会に呼ばれたら、説明は一日じゃ終わらないわ」
「その懸念はあるが、現政権が保証している以上、我が社に責は無いはずだ。だがチェンさん、念押しだ。最後に一つ確認させてくれ。この玩具にはデータ収集用の電子装置が組み込まれているということだが、我が社の検品ラインを通した際、当局が認めていない余計な通信デバイスや隠しカメラなどといったものが見つかるようなことはないだろうな? 私はこれ以上、スキャンダルを抱え込むつもりはないぞ」
「ご安心を。スキャンをしても、仕様外のものは何も映りません」
チェンの言葉は淀みなかった。
「ハミルトン氏。この救済プログラムは一社限定です。あなたがサインしないのは自由です。そうなれば、私は今すぐにでもアトランタに向かい、同じ話をしなければなりません」
「まさか、リブモアか?」
全米第二位のホームセンターチェーン「リブモア」も、リバティ・バードの調達先として槍玉に挙げられており、ホーム・フロンティアと同じく沈没しかけていた。
「軽く打診したところ、彼らは首を縦に振る見込みです。さあ、ハミルトン氏。どうか、私がこの鞄を閉じる前に決断してください。我々が求めているのは、今すぐ全米のスマート・グリッドを動かせる、決断力のあるパートナーなのです」
チェンは淡々と微笑んだ。その笑みに、ハミルトンは全身が汗ばむのを感じた。この有利な取引をライバル社に持って行かれることほど、屈辱的なことはない。
チェンとの契約によって復活を遂げたリブモアに、ホーム・フロンティアの店舗網を叩き売らねばならない事態が、ハミルトンの脳裏を過ぎる。
激しい焦りに見舞われたハミルトンは、ついに自らの疑念に蓋をすることにした。
手元には「政府公認」の免罪符があり、目の前には巨額のキャッシュがある。たとえ将来、この玩具が原因で何かトラブルが起きても、自分は「政府の要請に従っただけだ」と言い逃れができる。
「ちょっと、待ってくれ! すぐに結論を出すから、もう少しだけ待ってくれ!」
そうは言いながらも、チェンが差し出した契約書に目を落とすハミルトンには、まだ「何か」が引っかかっていた。
「……チェンさん。私には、まだ解せないことがある。なぜシンガポールの財団が、合衆国の教育インフラにこれほど巨額の投資をする? 慈善事業にしては、あまりに我が国に肩入れしすぎているんじゃないか?」
チェンは淀みなく、ビジネスライクな微笑を浮かべた。
「単純な理由ですよ、ハミルトン氏。シンガポールはアジアにおけるドルの集積地ですが、同時に、米中の覇権争いの狭間で、常に資産の避難先を求めている。我々の財団のスポンサーたちは、不安定なアジアの不動産よりも、アメリカの次世代教育データという『知の金鉱』に資産を替えておきたいのです。つまりは、シンガポールが生き残るための、高度な分散投資。そう考えていただければ、納得がいくのでは?」
ハミルトンは鼻を鳴らした。
「地政学的なリスク回避というわけか。シンガポールが分散投資を求めているのは分かった。だがチェンさん、まだ解せない。合衆国政府がなぜ、他国の、それもアジアの財団にこれほど重要なインフラの実証実験を許すんだ? エドワードはああは言ったが、我が国はそこまで落ちぶれてはいないぞ」
チェンは椅子に深く背を預け、今日初めて、少しだけ人間味のある、苦い笑みを浮かべた。
「……ハミルトン氏、ホワイトハウスの立場になって考えてみてください。今、全米の親たちはテロの温床となったホームセンター業界を批判すると同時に、デジタル依存による子供の学力低下を政府の責任だと叫んでいる。そこに、シンガポールの潤沢な資金を使って、アメリカの子供たちに脱デジタルの教育玩具を配るという提案が舞い込んだ。しかも、政府の予算は一セントも使わず、責任の所在はすべて民間の社会貢献活動として切り離せる……。彼らにとって、これは『アジアの余剰資本で、アメリカの内政問題をアウトソーシングする』という、断りようのない好条件なのですよ」
ハミルトンは沈黙した。その通りだ。合衆国の政治家は、他国の資本を利用して自国の実績を作ることを「外交的勝利」と呼ぶ。
(……エドワードたちがこの話を飲んだ理由はこれか。シンガポールの金で、ホーム・フロンティアという巨大な雇用主を救い、同時に子育て世代の支持を取り付ける。政府にとっては『フリーランチ』だ。そして、私にとっても……)
「なるほどな。どうりで、ホワイトハウスが君たちを歓迎するわけだ。君たちは賢いな。合衆国のプライドと財布の事情を正確に把握している」
「そう言っていただけて光栄です、ハミルトン氏。ちなみに、お支払いする資金は、ニューヨーク連邦準備銀行を通じた財務省管理下の特別勘定から、既存債権者への直接返済の形で振り込まれます。これで、マネーロンダリングのあらぬ疑いを掛けられることもないでしょう」
「ロバート。君はどう思う?」
「正直なところ、私は理屈としては危ういと思っている。だが、このタイミングを逃せば確実に終わる」
信頼すべきCFOの言葉を聞いて、ハミルトンはついに重い万年筆を動かした。引き出しの中のチャプターイレブンの書類とは、これでおさらばだ。
ハミルトンがペンを置くと、チェンは静かに立ち上がった。
「これで、すべてが始まります。来年の感謝祭には、アメリカ中の子供たちが、このパズルに夢中になっていることでしょう」
「それまで、木製パズルブームが続くことを祈るよ」
「ブームは、待ったり祈ったりするものではありません。創り出すものなのですよ」
チェンが去った後、応接室の窓の外では、シカゴのビル群が夕闇に沈もうとしていた。
「……これでいい。あの忌まわしいレシートのロゴは、明日には高級玩具を運ぶ希望の紋章に塗り替えられるのだ」
ハミルトンは連邦破産法第十一章の関連書類をフォルダごとシュレッダーにかけながら、自らに言い聞かせていた。
このジェームズ・ハミルトンが四十五万人の従業員を、全米の子供達を、そして何より我が愛すべきステイツを救ったのだと。




