第3話 ホワイト・ナイト〈1〉
【2033年3月10日 木曜日 11:36 中部標準時 イリノイ州シカゴ ホーム・フロンティア本社ビル】
リバティ・バードのアジト制圧後、現場から回収されたのは巣箱爆弾だけではなかった。FBIとATFの合同捜査チームを最も困惑させたのは、証拠袋に詰め込まれた数千枚のレシートだった。その殆どに、全米最大のホームセンターチェーン「ホーム・フロンティア」のロゴが、呪いのように刻まれていた。
テロリストたちは、コンポジット爆薬以外の巣箱部分の材料すべてを、ホーム・フロンティアをはじめとした複数のホームセンター店舗で調達していた。巣箱爆弾の外装となる合板、接合部の強力接着剤や釘、隙間を埋めるパテ、さらには起爆回路用のハンダや電線に至るまで。
彼らは全米のホームセンターを回り、常に現金で、追跡不可能な少量を買い歩いていた。全国紙の一面を飾った「テロリストのロジスティクスを支えたのは、わが家の隣にある店だった」というセンセーショナルな見出しは、ホームセンター業界を一夜にしてスケープゴートに祭り上げた。
とりわけ、テロリストの材料調達先の九〇パーセント以上を占めていた全米最大のチェーンであるホーム・フロンティア社が受けた批判の嵐は凄まじかった。同社の誇る“品揃えの良さ”と全米二四五〇拠点にも及ぶ最大級の店舗網が仇となったのだ。
だが、それらの批判は、既に死に体だった巨体への最後の一撃に過ぎなかった。
かつての栄華はECの台頭によって侵食され、巨大な店舗網は維持費という名の重い鎖となって纏わり付いている。
そして、そこへ起きたテロ支援疑惑。誰が見ても濡れ衣であることは明白であるのに、大衆は生け贄を求めていた。全米でボイコット運動が吹き荒れ、株価は垂直落下し、銀行は既に同社を見限りつつあった。
シカゴのランドマークを象徴するホーム・フロンティア社の本社ビル。
今や巨大な負債の塊へと成り果てていたそのビルの最上階にあるCEO室では、眼下に広がるミシガン湖の青さと、室内の重厚なウォールナットの対比が、訪れる者に無言の圧力を与える。だが、それも今や張り子の虎に過ぎない。
特注のレザーチェアに深く腰掛けた同社CEOのジェームズ・ハミルトンは、重厚なマホガニーのデスクに置かれた青いフォルダを見つめていた。その表紙には「連邦破産法第十一章」の文字がある。
隣に立つCFOのロバート、法務顧問のサラも、生気を失った表情で、それに視線を向けている。
――連邦破産法第十一章――
それは、合衆国の企業人にとって、「死の宣告」に等しい。
本来、この法制度は倒産寸前の企業を保護し、債務を整理して再出発させるための救済措置だ。
しかし、その実態は、法廷から送り込まれた監視役が経営の全権を握り、聖域なきリストラと資産の切り売りを命じるという、経営者が守り続けてきた城を自らの手で解体させられる屈辱の儀式。
そしてそれこそが、資本主義が敗者に与える「最も洗練された死刑宣告」なのだ。
「ジェームズ、もう諦めよう。来週月曜の取締役会で、我々は破産申請の決議を避けることはできない。今日中にこの書類をまとめなければ、債権団に何も釈明できなくなる」
ロバートが、声を絞り出すように言った。
「わかっている……」
力なくハミルトンがそう答えたその時、秘書室からの呼び出しコールが部屋に鳴り響いた。
それは、シンガポールに拠点を置く『パシフィック・ヘリテージ財団』の代表を名乗る男の来訪を告げるものだった。
普段のハミルトンならば、見ず知らずの、それも外国人の飛び込み営業の相手などをする事はない。
だが、地獄の淵に立たされている事実から目を背けたかったハミルトンの口からは、「通してくれ」という言葉が自然と流れ出ていた。
秘書に案内されてきたチェンという名の男は、研ぎ澄まされたメスのような空気を纏っていた。
彼は挨拶もそこそこに、アジア人にしてはあまりにも完璧な英語と、一切の隙がない身のこなしを崩さないまま、来客用の席に着く。
ハミルトンCEOは、デスクの隅に置かれたチャプターイレブンの青いフォルダをさりげなく引き出しに入れながら、絞首刑台の階段を上りつつある事などおくびにも出さない傲慢かつ自信ありげな態度で応接テーブルに移ると、対面に座る小柄な男に、値踏みするような視線を投げかける。
「ハミルトン氏、我々の提案は極めてシンプルです」
チェンがタブレットを操作すると、机上のホログラム・ディスプレイに精巧な木製のパズルの三次元モデルが浮かび上がった。それは幾何学的な美しさを湛えた十インチ四方の組木細工で、どこか古風でありながら、見る者を引き込む不思議な調和を持っていた。
「『コネクト・ウッド:デジタル・デトックス支援プログラム』。我々が製造・調達コストをすべて負担し、貴社が莫大な投資で築き上げた自社完結型自動配送網を利用して、十万世帯の子供たちに高級知育パズル『コネクト・ウッド』を、貴社からの贈り物として無償で届けるというものです。これは貴社にとって、史上最大の社会貢献活動となるはずです」
ハミルトンは微かに胸を突かれた。
配送の外部委託が主流のホームセンター業界で、世界最大のECサイトに抗うべく、自社で自動配送網と管理AIを保有する――その賭けに出たのは、ほかでもないハミルトン自身だった。
だが今や、それが経営を圧迫する最大の金食い虫となっている。ところがチェンの言葉は、その「失敗」と揶揄されていたインフラを、最大級に称賛するものだった。
ハミルトンは、自身が投資したインフラの価値を認められたことに内心浮つきながらも顔に出すことなく、テーブルのクリスタル製灰皿を指先で弄びながら、冷ややかな視線を来訪者に向けた。
「チェンさん。今、世界中で奇妙な流行が起きていることは知っている。シリコンバレーのエリート層が、自分の子供にはタブレットを持たせず、スイス製の高級木製玩具を買い与えている……いわゆる『木製回帰』というやつだ。私には、理解できんがね」
チェンは否定も肯定もせず、ただ静かに耳を傾けている。ハミルトンは言葉を継いだ。
「だがインフルエンサーたちは、こぞってSNSに木製の高級パズルがあるライフスタイルを投稿し、一大ブームが起きているのは事実だ。そして今や、外食チェーンのおまけにまで模倣品のパズルが溢れている。だが、あんなものは所詮原価一ドルもしない、プラスチックのゴミだ」
ここでハミルトンは灰皿から手を離して、身を乗り出した。その眼には、冷徹な経営者の色が宿っている。
「だが、そんなゴミでも、その費用をすべて肩代わりし、我が社のインフラを使って十万個も無償配布するとなれば、かかる費用は相当なものになるはずだ」
ハミルトンは一呼吸置き、チェンの無表情な顔を見据えた。
「単刀直入に聞こう。君たちはどこで集金するつもりだ? 私はサンタクロースを信じる年齢はとうに過ぎている。この話、君たちのメリットはどこにある?」
チェンは想定内だと言わんばかりに、微かに頷いた。
「確かに市場には、安価な模倣品が溢れています。しかし、我々が貴社を通じて配布するのは、それらとは一線を画す『本物の高級知育玩具』です。東アジアや欧州の王室でまず導入され、ウェイティングリストは数万人を越えるとも言われている、富裕層ならば一セット五千ドルでも喜んで支払う高級木製知育玩具。それを無償で配るとなれば、全米の親たちは狂喜して貴社の店舗へ、あるいは公式アプリへと殺到するでしょう。たとえ、今この瞬間に貴社へのボイコットをSNSで煽動している者であっても」
「ゴミではなく、五千ドルもする本物を無償でだと? なおさら意味が分からん――」
「我々の真の狙いは販売益ではありません。このパズルに内蔵された、認証用バイオ・チップにあります」
チェンがホログラムの細部を拡大した。パズルの芯の部分に、砂粒ほどの小さなチップが組み込まれている。
「このパズルは、子供が解く際の指先の動き、圧力、解決時間をミリ秒単位で記録します。我々はこの生の行動データを収集する。それが我々の収益源となるのです。現在、メタバース上での行動データは溢れていますが、現実の木に触れる際の触覚データ、思考プロセスを反映した物理的な試行錯誤のデータは枯渇している。これを十万世帯分確保できれば、我々は知育AIの分野で世界標準を握れる。そのための巨大なベータ・テストに、貴社のインフラが必要なのです」
チェンの説明を聞き、ハミルトンは鼻で笑った。
「チェンさん、君は甘い恋を謳う詩人か? 指先の動きだの試行錯誤だの、そんな曖昧なデータに一体誰が金を払う? 今やメタバース上のログを解析すれば、その人物が何に興味を持ち、次に何を買うかなんて数式で弾き出せる時代だ。わざわざ『本物の木』を触らせる必要がどこにある」
チェンは顔色ひとつ変えず、深く沈み込むような声で答えた。
「ハミルトン氏。デジタル上のログで分かるのは、その人間の嗜好に過ぎません。しかし、物理的な物体を前にした時の指先の震え、行き詰まった時の加圧の変化、そして閃きの瞬間に生じる微細な筋肉の弛緩……。それは、その人間の『脳のOS』そのものの設計図なのです」
チェンはずいと、前に体を乗り出すようにして言葉を続けた。
「メタバースの住人を操るには、彼らの好みの広告を見せればいい。しかし、現実世界を支配する次世代のリーダーを『選別』し、あるいは『矯正』するには、彼らが現実の物理的課題にどう向き合うかという深層の認知データが必要なのです。このデータがあれば、どの子供が将来、極限状態でも冷静な判断を下せる指揮官になるか、あるいは誰が最も説得に弱い性質なのかまで可視化できる。これは単なる知育ビジネスではありません。人間の『資質』の市場独占ですよ」
「資質の可視化か。なるほど、それは確かにメタバースの広告クリック数とは次元が違うな」
ハミルトンの背筋に、わずかな寒気が走った。それは恐怖ではなく、支配の可能性への高揚感だった。
今や教育は「投資」であり、我が子のポテンシャルを幼少期のうちに最大限に引き上げたいという親の欲望は、底なしの市場だ。チェンの提案は、その「富裕層だけの特権」を、ホーム・フロンティアという巨大な窓口を通じて「中産階級」にまで一気に民主化し、その代償として膨大な行動データを吸い上げる。そして同時に、ライバル社から全顧客を強奪するという、極めて現代的かつ悪魔的なビジネスモデルに見えた。
「さらに」とチェンは畳み掛けた。
「二〇三〇年の連邦プライバシー法への懸念もあるでしょうが、これは、秘密裏ではありません。このパズルは、ホーム・フロンティアの公式アプリと連動します。子供がパズルを解き、そのデータをクラウドにアップロードすることにオプトインすれば、保護者には貴社のマーケットで使えるポイントが還元される。ユーザーは自らの意思で『資質』を売り、貴社のエコシステムに取り込まれる。法的には完全なホワイトであり、貴社にとっては強力な顧客の囲い込みになります」
「報酬付きのデータ提供か。実に合理的だ。だが、机上の空論に過ぎんのだろう?」
「いいえ。実はここだけの話なのですが、昨年にカリフォルニア州で小規模な実証実験を行いましてね。現在も、極めて望ましい結果を得ているところです」
ハミルトンは身を乗り出し、ホログラムのパズルを指で回転させた。
「配布先の選別は、我が社の顧客データベースから抽出するのかね? だが、十万世帯程度の偏ったサンプルで、君たちが望む『知育データ』が取れるとは思えんが」
「おっしゃる通りです。ですので、我々のAIが、購買履歴や居住エリアの統計から『最も教育データとして価値の高い層』を特定したパケットデータを用意しました。貴社はただ、この高級知育玩具を無料で進呈するキャンペーンを開催すればいいのです。セットで贈る、間接照明式の専用スタンドと併せれば、どんな部屋にも似合う高級インテリアにもなるという、誰もが羨む高級玩具が先着順でもらえるキャンペーン。貴社の好感度は垂直落下どころか垂直上昇間違いなしでしょう」
「キャンペーンだと? 本当に十万世帯もの応募があると思うのか? 昨今の消費者や親たちは、タダほど高いものはないと警戒しているぞ。それに我が社には、そんな事に投じる資金がそもそも無い」
「ハミルトン氏、現代人が最も恐れているのは、無料の罠ではありません。『せっかくの特別な機会を逃す』という逸失利益です。『先着順』や『今回限り』といった魔法の呪文で消費者の損失回避バイアスを刺激してやれば、応募開始から一時間もあれば、貴社のサーバーはパンクするでしょう。そしてもちろん、キャンペーンの費用も全て我々が負担します」
冷静だったチェンの目に、僅かな高揚が浮かぶ。どうやら自分の言葉に少しばかり酔っているようにも見えた。
「そして、アプリや店舗で応募してきたユーザーのリストから、条件に合致する有望な層をシステムが自動選別したのちに、残りの枠を開放します。表向きには先着順となっているので、それがもたらす焦燥感と飢餓感が、消費者の警戒心を真っ白に塗りつぶしてくれますよ」
ハミルトンは心の中で算盤を弾いた。コストはゼロ。企業イメージは飛躍的に向上し、さらに将来の有望な顧客リストが手に入る。だが、彼の表情は硬いままだった。
「チェンさん。正直に言おう。我々は今、イメージアップ以上のものを必要としている。キャッシュだ」
チェンはそれを見透かしたように微笑んだ。
「お任せください。この『コネクト・ウッド』プログラムの配送代行手数料として、貴社の負債総額の半分に相当する額を、第一四半期中に前払いするとお約束しましょう。これは寄付ではなく、将来的なデータ・ライセンス料の『担保』です」
チェンの言葉に、その場にいる者は皆、目を剥くことしかできなかった。




