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第1話 ジッパー

【2017年8月14日 月曜日 現地時間 09:12 モザンビーク共和国 テテ州 北部僻村】


 ヘリのローターが巻き上げる砂塵が防護服のポリカーボネート製バイザーを叩き、乾いた音を奏でている。

 マーク・リドリー中佐は、機外へ足を踏み出した瞬間に後悔した。

 高度一五〇〇フィートの機内では、空調が辛うじて理性を維持させていたが、地上の熱気は呆れるほどに暴力的だった。


 まだ朝方だというのに、モザンビークの陽光は、あらゆる生命の輪郭を焼き切るほどに鋭く、そして重い。

 だが、その熱気以上に、リドリーの感覚を麻痺させるものがあった。この村を覆う「死の芳香」だ。

 村の各所には腐敗した遺体が集積されており、大量の蠅が覆うように群がっている。

 その羽音が奏でる死の協奏曲が、凄まじい音量で村を覆っていた。


「……こいつは、キツい――」


 同行する若い曹長が、フィルター越しのくぐもった声で呟いた。


「衛星写真では、ここまで酷いとは分かりませんでした……」

「死体は喋らん。だが、腐敗は饒舌だ」


 リドリーは短くそう答え、村の中へと歩を進めた。

 USAMRIID((※1))の精鋭たちが足を踏み入れたその村は、見た目はアフリカのどこにでもある普通の集落だった。

 土を固めて作られた住居、乾いた放牧地。そして、村の中心にある旧式の水汲みポンプ。

 死神が訪れる前には、きっと女達がポンプのまわりで井戸端会議に花を咲かせていたのだろう。


「リドリー中佐ですね。お待ちしていました」


 異様な村の空気に足が止まりかけていたリドリーに声をかけてきたのは、現場で先行活動をしていた国境なき医師団( MSF )の医師だった。胸のネームタグには「JASON(ジェイソン) HUANG(ファン)」とある。

 カリフォルニア訛りの英語を話すその男は、事前に見た資料によると、スタンフォードで学位を取った経歴を持つ、台湾系アメリカ人だそうだ。


「あなたが、ドクター・ファンか」

「ええ。地獄の一丁目へようこそ、中佐」


 そう言って、ファンは力なく笑った。白地に赤い十字のロゴが入ったベストは泥と汗に汚れ、その下にある肉体は疲弊しきっていたが、フェイスシールド越しに見える瞳には、鋭い知性が保たれていた。


「状況は?」

「村の総人口は二〇四名。うち、生存者は成人男性三名のみ。彼らは村の東側にある集会所に隔離しましたが、長くは保たないでしょう。エボラの犠牲となった二〇一名の遺体は一部を除いて、村の各所に残置したままです」


 ファンは状況を説明しながら、リドリーを広場に設営された隔離テントへと案内した。

 ビニールカーテンを潜ると、そこには検死のために運び込まれた二十代後半と思われる女性の遺体を載せた寝台があった。

 死後三日。熱帯の微生物による腐敗性のガスが彼女の腹部を異様に膨らませ、その黒い皮膚は内側からの圧力に耐えかねて、裂け始めていた。


 ともにこの地へ降り立った専門医が、女性の遺体にメスを入れる。その瞬間、腐敗ガスや血液の飛沫が噴き出すが、専門医は動じること無く開腹作業を進めていく。

 すると突然、彼のメスが止まった。そして、フィルター越しに呻き声を漏らす。

 同時にリドリーも、その腹の中の様子に目を見開いていた。


 USAMRIIDに入ってから二十年。今日まで彼は、エボラ、マールブルグ、そして炭疽菌といった、人類の敵であるあらゆる「死」と対峙してきた。

 ウイルスが細胞を食い破り、内臓を黒い泥に変える様も、数え切れないくらい目にしてきた。

 だが、この遺体の腹の中を見た瞬間、彼はこれまでの経験すべてを否定される感覚に陥った。


「……なんだ、これは」


 リドリーは専門医を押し退けるようにして、遺体の前に立った。

 そして、彼女の腹腔に顔を近づけると睨め回す。

 その顔は次第に、幽霊でも見たような青ざめたものに変わっていった。


 通常、内臓というものは、腸間膜や血管、筋膜といった「組織の網」によって、その場所に留まるようにできている。死後腐敗が進んでも、その構造は最後まで粘り強く残るものだ。

 しかし、この女性の腹腔内には、その「網」が一切存在しなかった。


 心臓、肺、肝臓、胃、そして腸。

 それらは、本来繋がっているべき組織から完全に分離し、腹腔という容れ物に無造作に詰め込まれた人体模型のパーツのようだった。


 リドリーは防護手袋を二重に装着した手を腹腔に伸ばして、心臓と思われる肉塊を掴み上げようとした。

 おかしい。一切抵抗がない。

 心臓に繋がる大動脈に上大静脈、そして肺動脈。それらが、まるで最初から繋がっていなかったかのように、心臓の根元から分離している。

 その断面は腐敗で崩れてはいるものの、千切れたというよりは、繋がっていたという事実だけが消されたかのような、あまりにも完璧な剥離だった。


「見てください、中佐」


 ファンが、傍らで顕微鏡のモニターを指差した。


「出血熱によって血管壁には崩壊が見られるものの、臓器の分断面には、細胞の破壊は認められません。ただ、臓器同士が互いを拒絶するかのように分離しています――」


 リドリーは絶句するしかなかった。

 生命の構造が、崩壊している――


「彼女はエボラに罹患しました。ですが、死因はエボラじゃない。中身がバラバラになって死んだのです。まるで、臓器同士を繋ぐジッパー(ZIPPER)が意図的に下ろされたかのように」

「ほかの遺体を見せてくれ!」


 リドリーの言葉に、ファンは隣のテントへ彼を(いざな)った。

 そのテントには、先程の女性と同じように、一人の中年男性が寝台に横たわっている。

 リドリーは男の遺体に駆け寄ると、既に切り開かれている腹腔に視線を落とした。


「これは――」

「ええ。彼は私が解剖しました。血管壁にはエボラの症状が顕著に出ています。ですが――」

「臓器が分離していない――。あの症状は、彼女だけのものなのか?」

「『彼女たち』と言った方がいいでしょう。臓器分離の症状は、女性と十二歳未満の子供のみに見られるのですから」

「――感染源は? あの水汲みポンプの水か?」


 リドリーは、焦燥感を滲ませながら、ファンに問いかけた。


「いいえ。検査の結果、水には異常がありませんでした。ほかにも感染源を探してみましたが、明確なものはわかりません。ただひとつだけ、疑わしいことがあります。発症の約一週間前、この村には外部からの訪問者があったそうです。国際支援団体を名乗るアジア系の四人組が乗ったランドクルーザーが一台。水を求めてやって来た彼らは数日間滞在し、村人たちと友好的に過ごし、出立間際には滞在のお礼にと、村人全員を巻き込んだ大掛かりなマジックショーを披露して去っていったそうです」

「マジックショー?」

「ええ。その際、彼らは村の全員に安っぽいLEDが光る箱状の小道具を持たせたり、握手をしたりしたそうです。彼らが持参した小道具に、エボラが付着していた可能性は極めて高い。ですが、臓器分離の説明がつかないんです。なぜ、成人男性とそれ以外で、臓器分離の有無があるのか――」


 リドリーは、防護服の中で冷たい汗が流れるのを感じた。

 もしも、訪れた四人組が意図的に病原体を散布したのであれば、村の男たちにも同じ症状が出るはずだ。そうでなければ、これほどまでに完璧な「選別結果」になるはずがない。


(……だが、臓器分離の症例は、女性と子供に限定されている。これは統計学的な偶然ではない)


 リドリーの思考は、結論を導き出そうとあがいていた。

 性別。年齢。特定のホルモンバランス、あるいは染色体。それらを瞬時に識別し、特定の接着分子だけを攻撃する、ナノメートル単位の「何か」。

 あるいは、性ホルモンや成長段階に依存する未知の因子が関わっているのか?

 だが、結論のすぐ手前で、靄のような何かに思考が阻まれる。


 得も言われぬ恐怖が、彼の胸底から浮き上がってくる。

 太古の昔から人類が抱く、理解できないものへの畏れ――

 だがリドリーは、科学という名の(ほこ)でその恐怖に立ち向かおうと、思考を集中させるのだった。



 その日の夕刻、リドリーは通信用テントの中にいた。

 外では発電機の重低音が響き、夜の帳が下りようとするモザンビークの赤い大地を、無機質なLEDの光が煌々と照らしている。

 結局、三名の生存者も先ほど絶命した。つまり、この村は全滅したのだ。

 広場ではUSAMRIIDの隊員たちが防護服に身を包み、遺体の焼却準備を進めていた。

 エボラ陽性の判定が出た以上、国際プロトコルに従い、村のすべてを灰にする必要があるのだ。


 リドリーは、本国への第一報を書きあぐねていた。

 この村にあるのは、「エボラ出血熱による小規模なアウトブレイク」という、教科書通りの惨劇だ。

 だが、朝方に解剖した女性の臓器がバラバラに分離しているという異様な光景が、彼の脳裏に焼き付いて離れない。

 あれは、エボラによる組織崩壊とは根本的に違う。


「リドリー中佐、そろそろ出発の準備を。我々MSFも撤収を始めます」


 テントの入り口で、曹長とともに現れたドクター・ファンが声をかけた。

 その表情には、過酷な任務を終えた医師の疲労だけが浮かんでいた。

 リドリーは黙って頷くと、意を決してキーボードを叩く。


『件名:モザンビーク・テテ州におけるエボラ出血熱集団発生について(第一報)

モザンビーク・テテ州においてエボラ出血熱の集団感染を確認。犠牲者は二〇四名。現在、感染拡大防止のため遺体の焼却処置を継続中。本件を暫定的に事案ZIPPER(ジッパー)と呼称する。詳細なデータは帰国後、フォート・デトリックにて精査予定――』


 送信ボタンを押したリドリーは椅子から立ち上がり、素早く荷物をまとめると、村の外で待つヘリに向かった。

 釈然としない思いを抱きながらも、彼はホームグランドに戻ってからのデータ精査に思いを馳せ、この謎を暴いてやると意気込んでいた。


 だが、モザンビークの僻村から発信されたリドリーの暫定報告とその後の検証報告は、彼の決意とは裏腹に、アメリカ合衆国情報機関の膨大なアーカイブの底に「一般的なエボラ事案」として静かに沈んでいった。


 そのファイルが再び開かれるのは、十七年後。一人の分析官が、ある些細な偶然を拾い上げるまで待たねばならない。

(※1)USAMRIID:アメリカ陸軍感染症医学研究所

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