王子様の帰り道
「こんばんはおにいさん。
せっかく声をかけてくれたことは嬉しいんだけどさ。
今は都合が悪いんだよ。
またの機会にしてくれないかな?」
視界に映る空は赤から群青色に変わっている。
男は一人だ。
髪は金髪耳にはピアス。腕まくりした腕からタトゥーが覗く。絵に描いたような不良だ。目が興奮からか爛々としている。ギョロついた瞳は一瞬焦点が合っていないように左右にゆれる。
徒党を組まれていたら危なかった。背後を男の仲間に取られていないことにすこしだけ安堵した。
ーーー楽しいと時間って忘れちゃうよね。
背後の女の子達は気丈だった。
そっとりんの背後に隠れながらも縋りつかない。
震えている子もいるけど足は踏ん張れている。
学校の不審者遭遇注意カリキュラムを遵守している。
りんの子猫ちゃん達はなんて勇敢か。
目の前の男は明らかに軽薄で下品で誠実そうには見えない。
だからと言ってもこんな場面で下手に悲鳴をあげると、無駄に激昂させてしまうから。
ーーー大丈夫。まだ何も起こってない。
りんは手を広げながら男の真正面になるように数歩前に出た。
気分は身体を大きく見せて踊る雄の孔雀だ。
りんの怯えを緊張も悟らせない。
晒で潰した胸をはり、手振りを大きくする。
肩の力は落として緊張は悟らせない。
なによりこの動作。
悪さをした子供達を逃がす時にも良く使うから慣れている。
一瞬振り向きながら笑顔で女の子達に指信号をだす。
ーースマフォをだせ。
ーーーラジャ!マム。
一日過ごした結束は新たな生活スキルを習得するまでに至った。
的確な指示が通るなんて賢い子猫ちゃん達でりんは感動した。
施設の子供達だったなら。
返事はすこぶる良いのに指示とは真逆の方向に全力で走る。間違ってても全力だ。修正は困難を極める。
なんならすぐ転ぶし池に落ちる。
目を離すとすぐ死ぬ生物の遊びは命がけだ。
そのこちらの想像の斜め上の衝動性を予測しつつも、指示を出さねばならない。
これらが制御をしなくとも正しく動く指示系統に不覚にもーーーーりんは泣きそうになった。
ドヤ顔したくなるのを抑えてにこやかに笑う。
りんの動じなさに男はすこし面食らったようだ。
男は首を左右にふり女の子たちを物色する。
その不躾な視界をりんは遮り続けた。
「お兄さん………。なんかお兄さん気に入っちゃったな………。
ぼくと二人っきりでお茶………どうかな?」
「へ?は?」
「ほら。みてよ。彼女達。
これからすぐおねんねする時間のーーー。
"ティーン"だよ?ブラザー」
肩を抱きながら耳元で囁いたら男がビクついた。
「子供は帰る時間なんだよ。ベビーたちのファザーがすぐそこにきてるんだ。
Her father will be arriving by car.アンダすたん?」
りんはそれっぽい英語を並べただけだ。英語は淀みなく自信を持って話すのがコツだ。間違えていても恥じらってはいけない。間違ったジェスチャーさえ覚えれば9割通じる!
観光客ガイドのバイトで経験済みである。
ちなみに英語の成績は92である。帰国子女には敵わない。
「がッ………外国語はちょっと………ワカリませーン」
男はタジタジになった。
そこで畳み掛けるようにりんは指信号を送る。
ーーダディを呼ぶんだ!力の限り!
「ダディ?!カムヒア!」
「だっッ………ドゥ!」
「カモーン!パパ!」
男の背後の死角に向かってもえちゃんは手を振った。もちろんスマフォは耳に当てている。ブンブン腕が唸っている。さすがテニス部だ。
つかさちゃんは素晴らしいジャンプを披露。跳躍がえぐい。日頃から跳ねている成果だろう。
くみちゃんはどこから出したのかライブ用ライトセーバーを振り回している。目潰し効果は抜群だ。
なかなかのカオスだ。褒めている。
「え?パパ?外人?」
キョロキョロする男の肩をグリンと抱えるように抱き込んだ。よし。完全に男の視界から女の子達は消えた。
仕上げの指信号を送る。
ーーーー適当な外国語まくし立てながら走れ!
ーーーーイエスマム!
彼女達は笑い出した。
男はさらにびくついた。目は残念な人を見る目だ。
笑いながら思い思いの外国語らしき単語の羅列を高々に叫び、女の子達は駅の方角にあっという間に消えた。
呆気に取られた男が追いかける間もない。
""やべえ奴にはやべえ奴ぶつけろ作戦成功!"
小さくガッツポーズしたりんは跪いた。
「兄ちゃん?………ちょ?どうなってるの?」
男は腹筋が弱かったらしい。ツボに入ったのか、足が小刻みに震えている。
「アディオス、ブラザー。よい夜を」
三人分の足枷のない塀のぼりは、未だかつてない跳躍と速度を誇った。
男はぽかんと口を開けている。顎が外れそうだ。
りんはにっこり笑って跳躍した。
我に返った男が何か言いかけた、その瞬間――
りんの姿は、もうなかった。
男の尻のポケットのスマフォがチカチカ点滅していた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「凄い凄い凄い!」
「ヤバかったやばかった!」
「あっ………今さら震えてきた………」
駅に急ぐと女の子達は半べそになりながら抱き合い、お互いの勇姿を称えていた。
ーータイプの違う女の子が一日で仲良くなるって凄いよな………。
女の友情の尊さに感動していたりん。
それを見つけた瞬間女の子達は飛び込んできた。
三人分の重みを受け止めきれなくて転がってしまったけれど、幸せな重みだった。
「りんさま〜!」
「りんさまのコメディ劇場最高!」
「文化祭でやりましょう!そうしましょう!」
三人娘がりんの懐に頬釣りしている中りんは呻いた。
キョトンと見上げる女の子達にりんは頭をさげた。
「ごめんね。怖い思いさせて。もっと時間帯を早くして帰すべきだった」
「失敗しちゃったよ………」と落ち込むりんを見て。
女の子達は顔を見合わせた。
そしてまたりんに突進した。
すこし鳩尾に入った痛みをりんは堪えた。
「ドキドキしたけど怖くなかったよ!」
「りんさまの背中が頼もしかったの!」
「護られてる!ってキュンキュンしてアドレナリンドバドバだったよ!」
止めなかったら永遠に出る賛辞に、はにかみながらりんは女の子達と別れた。
女の子達が見えなくなるまで手を振った後。
りんはやっと脱力した。
ーーーよかった。今回はだれもケガしてない。
それがりんには何よりも嬉しかった。
りんはずっと冷や汗をかいていた。
さっきまで寒いくらいだったのに今は達成感と高揚で身体が熱い。
長めのシャツを脱いで薄めのタンクトップになる。
尻ポケットの財布を開くと見事に空っぽだった。電車賃は払えそうにない。
ーーーー走れば入浴時間には間に合うかな。
孤児院が戦場になる時間が始まってしまう。シスターはてんてこ舞いだろう。早く手伝いに帰らないと。
伸びをしてから深呼吸した。
気持ち良い風が頬をかする。
夜の匂いがした。
足がもたついた。
見ると靴紐が解けていた。少し洒落た編み上げブーツの紐だ。日頃履かないような靴を改めて見て笑ってしまう。
今日はやっぱり浮かれていたみたいだ。
帰宅者がごった返す駅の前から遠ざかる。邪魔にならなそうな道の端まで移動した。
岸が「お気に入りだから捨てたくはない」と譲ってくれたスキニーを汚さないように中腰になる。
上手く紐が結べない。
身体は熱いのに指先は強張り小刻みに震えていた。苦笑いするしかない。
そこでりんの視界は反転した。
息がつまり締め上げられる。
背後から羽交い締めにされたと気付いた時にはもう遅かった。
りんは、自分だけが痛めつけられる側に回ったことに、
ひどく安堵している自分に気づいた。
さっきの男がズボンに手を突っ込みながらりんを見下ろしている。クチャクチャガムの噛む音が不快だった。
「こいつッス。こいつッスよ先輩!」と狩ったネズミを見せびらかす猫のように爛々とした目は確かにあいつだ。
背後から1人に羽交い締めにされてから腹に一発入る。痛みにクラクラする間にもう1人に蹴られ転がる。
咳き込んでいる間にそのまま引きずられていく。
どんどん賑やかな音や光が遠ざかっている。
――ああ、よかった。女の子たちじゃなくて。
私で。
身体は、無駄な抵抗をしないほうが傷は浅く済む。
理屈ではなく、本能で知っているようだった。
だから力を抜く。
逃げようとしない。
叫ばない。
女の子達には悟らせない。絶対。
それは勇気でも諦めでもなく、
ただ、何度も繰り返してきた選択だった。
孤児院で。
街で。
理不尽の前で。
守るべき誰かがいるとき、
りんはいつも、こうしてきた。
――私が引き受ければいい。
歯を食いしばるより先に、肩から力が抜ける。
視界の端で、アスファルトの灰色が流れていく。
女の子たちが無事に帰れたなら、それでいい。
それだけで、
胸の奥が静かに落ち着いてしまう自分が、
りんは少しだけ怖かった。
モテる男の綺麗な顔を踏みつけるのが趣味だとか。女の子が怯えた顔がたまらないだとか。聞いてもいない自己紹介が下衆くて最悪なBGMだ。りんはまだ引きずられていく。
さっきまで紅く染まっていたビル群が視界に入りーー
完全に暗くなった。
どこかの袋小路だろうか。
それにしては音が反響している。
わかるのは四方壁に囲まれているなということ。
靴底の擦れた音がどんどん増えて。
ボヤける視界に揺れる影を五人確認してからは数えるのはやめた。
胃液を吐いたから喉が辛い。
痛みの感覚はすぐ曖昧になる。
油断して腹筋を硬くしないうちに殴られてしまったから内臓を痛めてしまったみたいだ。
刺されていないだけマシだなと思った。
やけに自分の心臓の音がうるさいと思ったら耳の横が裂けているみたいだ。
頭にうまく血液がいかない。肺に空気がはいらない。
思考がうまく繋がらない。
だから。
幻聴であってほしかった。
「いやッ………!!」
こんな所で、もえちゃんの声がするわけない。
悲痛な叫び。
警察を呼んだと叫ぶくみちゃんの声は震えている。
つかさちゃんが泣いている。
泣かせてしまった。
笑顔のまま帰らせたかったのに。
途端に心臓が跳ね上がった。
身体はどんどん脱力する。
音が混ざり合う。
ガラスが割れる音。
怒号。
口の中は鉄の味がした。
最後の力を振り絞って走った。
抱き込む。
強く掻き抱く。
衝撃
悲鳴
メキョリと変な音がした。
後頭部が熱い。
最後に見たのは
涙を決壊させたもえちゃんの瞳だった。
「こんばんはおにいさん。
せっかく声をかけてくれたことは嬉しいんだけどさ。
今は都合が悪いんだよ。
またの機会にしてくれないかな?」
視界に映る空は赤から群青色に変わっている。
男は一人だ。
髪は金髪耳にはピアス。腕まくりした腕からタトゥーが覗く。絵に描いたような不良だ。目が興奮からか爛々としている。ギョロついた瞳は一瞬焦点が合っていないように左右にゆれる。
徒党を組まれていたら危なかった。背後を男の仲間に取られていないことにすこしだけ安堵した。
ーーー楽しいと時間って忘れちゃうよね。
背後の女の子達は気丈だった。
そっとりんの背後に隠れながらも縋りつかない。
震えている子もいるけど足は踏ん張れている。
学校の不審者遭遇注意カリキュラムを遵守している。
りんの子猫ちゃん達はなんて勇敢か。
目の前の男は明らかに軽薄で下品で誠実そうには見えない。
だからと言ってもこんな場面で下手に悲鳴をあげると、無駄に激昂させてしまうから。
ーーー大丈夫。まだ何も起こってない。
りんは手を広げながら男の真正面になるように数歩前に出た。
気分は身体を大きく見せて踊る雄の孔雀だ。
りんの怯えを緊張も悟らせない。
晒で潰した胸をはり、手振りを大きくする。
肩の力は落として緊張は悟らせない。
なによりこの動作。
悪さをした子供達を逃がす時にも良く使うから慣れている。
一瞬振り向きながら笑顔で女の子達に指信号をだす。
ーースマフォをだせ。
ーーーラジャ!マム。
一日過ごした結束は新たな生活スキルを習得するまでに至った。
的確な指示が通るなんて賢い子猫ちゃん達でりんは感動した。
施設の子供達だったなら。
返事はすこぶる良いのに指示とは真逆の方向に全力で走る。間違ってても全力だ。修正は困難を極める。
なんならすぐ転ぶし池に落ちる。
目を離すとすぐ死ぬ生物の遊びは命がけだ。
そのこちらの想像の斜め上の衝動性を予測しつつも、指示を出さねばならない。
これらが制御をしなくとも正しく動く指示系統に不覚にもーーーーりんは泣きそうになった。
ドヤ顔したくなるのを抑えてにこやかに笑う。
りんの動じなさに男はすこし面食らったようだ。
男は首を左右にふり女の子たちを物色する。
その不躾な視界をりんは遮り続けた。
「お兄さん………。なんかお兄さん気に入っちゃったな………。
ぼくと二人っきりでお茶………どうかな?」
「へ?は?」
「ほら。みてよ。彼女達。
これからすぐおねんねする時間のーーー。
"ティーン"だよ?ブラザー」
肩を抱きながら耳元で囁いたら男がビクついた。
「子供は帰る時間なんだよ。ベビーたちのファザーがすぐそこにきてるんだ。
Her father will be arriving by car.アンダすたん?」
りんはそれっぽい英語を並べただけだ。英語は淀みなく自信を持って話すのがコツだ。間違えていても恥じらってはいけない。間違ったジェスチャーさえ覚えれば9割通じる!
観光客ガイドのバイトで経験済みである。
ちなみに英語の成績は92である。帰国子女には敵わない。
「がッ………外国語はちょっと………ワカリませーン」
男はタジタジになった。
そこで畳み掛けるようにりんは指信号を送る。
ーーダディを呼ぶんだ!力の限り!
「ダディ?!カムヒア!」
「だっッ………ドゥ!」
「カモーン!パパ!」
男の背後の死角に向かってもえちゃんは手を振った。もちろんスマフォは耳に当てている。ブンブン腕が唸っている。さすがテニス部だ。
つかさちゃんは素晴らしいジャンプを披露。跳躍がえぐい。日頃から跳ねている成果だろう。
くみちゃんはどこから出したのかライブ用ライトセーバーを振り回している。目潰し効果は抜群だ。
なかなかのカオスだ。褒めている。
「え?パパ?外人?」
キョロキョロする男の肩をグリンと抱えるように抱き込んだ。よし。完全に男の視界から女の子達は消えた。
仕上げの指信号を送る。
ーーーー適当な外国語まくし立てながら走れ!
ーーーーイエスマム!
彼女達は笑い出した。
男はさらにびくついた。目は残念な人を見る目だ。
笑いながら思い思いの外国語らしき単語の羅列を高々に叫び、女の子達は駅の方角にあっという間に消えた。
呆気に取られた男が追いかける間もない。
""やべえ奴にはやべえ奴ぶつけろ作戦成功!"
小さくガッツポーズしたりんは跪いた。
「兄ちゃん?………ちょ?どうなってるの?」
男は腹筋が弱かったらしい。ツボに入ったのか、足が小刻みに震えている。
「アディオス、ブラザー。よい夜を」
三人分の足枷のない塀のぼりは、未だかつてない跳躍と速度を誇った。
男はぽかんと口を開けている。顎が外れそうだ。
りんはにっこり笑って跳躍した。
我に返った男が何か言いかけた、その瞬間――
りんの姿は、もうなかった。
男の尻のポケットのスマフォがチカチカ点滅していた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「凄い凄い凄い!」
「ヤバかったやばかった!」
「あっ………今さら震えてきた………」
駅に急ぐと女の子達は半べそになりながら抱き合い、お互いの勇姿を称えていた。
ーータイプの違う女の子が一日で仲良くなるって凄いよな………。
女の友情の尊さに感動していたりん。
それを見つけた瞬間女の子達は飛び込んできた。
三人分の重みを受け止めきれなくて転がってしまったけれど、幸せな重みだった。
「りんさま〜!」
「りんさまのコメディ劇場最高!」
「文化祭でやりましょう!そうしましょう!」
三人娘がりんの懐に頬釣りしている中りんは呻いた。
キョトンと見上げる女の子達にりんは頭をさげた。
「ごめんね。怖い思いさせて。もっと時間帯を早くして帰すべきだった」
「失敗しちゃったよ………」と落ち込むりんを見て。
女の子達は顔を見合わせた。
そしてまたりんに突進した。
すこし鳩尾に入った痛みをりんは堪えた。
「ドキドキしたけど怖くなかったよ!」
「りんさまの背中が頼もしかったの!」
「護られてる!ってキュンキュンしてアドレナリンドバドバだったよ!」
止めなかったら永遠に出る賛辞に、はにかみながらりんは女の子達と別れた。
女の子達が見えなくなるまで手を振った後。
りんはやっと脱力した。
ーーーよかった。今回はだれもケガしてない。
それがりんには何よりも嬉しかった。
りんはずっと冷や汗をかいていた。
さっきまで寒いくらいだったのに今は達成感と高揚で身体が熱い。
長めのシャツを脱いで薄めのタンクトップになる。
尻ポケットの財布を開くと見事に空っぽだった。電車賃は払えそうにない。
ーーーー走れば入浴時間には間に合うかな。
孤児院が戦場になる時間が始まってしまう。シスターはてんてこ舞いだろう。早く手伝いに帰らないと。
伸びをしてから深呼吸した。
気持ち良い風が頬をかする。
夜の匂いがした。
足がもたついた。
見ると靴紐が解けていた。少し洒落た編み上げブーツの紐だ。日頃履かないような靴を改めて見て笑ってしまう。
今日はやっぱり浮かれていたみたいだ。
帰宅者がごった返す駅の前から遠ざかる。邪魔にならなそうな道の端まで移動した。
岸が「お気に入りだから捨てたくはない」と譲ってくれたスキニーを汚さないように中腰になる。
上手く紐が結べない。
身体は熱いのに指先は強張り小刻みに震えていた。苦笑いするしかない。
そこでりんの視界は反転した。
息がつまり締め上げられる。
背後から羽交い締めにされたと気付いた時にはもう遅かった。
りんは、自分だけが痛めつけられる側に回ったことに、
ひどく安堵している自分に気づいた。
さっきの男がズボンに手を突っ込みながらりんを見下ろしている。クチャクチャガムの噛む音が不快だった。
「こいつッス。こいつッスよ先輩!」と狩ったネズミを見せびらかす猫のように爛々とした目は確かにあいつだ。
背後から1人に羽交い締めにされてから腹に一発入る。痛みにクラクラする間にもう1人に蹴られ転がる。
咳き込んでいる間にそのまま引きずられていく。
どんどん賑やかな音や光が遠ざかっている。
――ああ、よかった。女の子たちじゃなくて。
私で。
身体は、無駄な抵抗をしないほうが傷は浅く済む。
理屈ではなく、本能で知っているようだった。
だから力を抜く。
逃げようとしない。
叫ばない。
女の子達には悟らせない。絶対。
それは勇気でも諦めでもなく、
ただ、何度も繰り返してきた選択だった。
孤児院で。
街で。
理不尽の前で。
守るべき誰かがいるとき、
りんはいつも、こうしてきた。
――私が引き受ければいい。
歯を食いしばるより先に、肩から力が抜ける。
視界の端で、アスファルトの灰色が流れていく。
女の子たちが無事に帰れたなら、それでいい。
それだけで、
胸の奥が静かに落ち着いてしまう自分が、
りんは少しだけ怖かった。
モテる男の綺麗な顔を踏みつけるのが趣味だとか。女の子が怯えた顔がたまらないだとか。聞いてもいない自己紹介が下衆くて最悪なBGMだ。りんはまだ引きずられていく。
さっきまで紅く染まっていたビル群が視界に入りーー
完全に暗くなった。
どこかの袋小路だろうか。
それにしては音が反響している。
わかるのは四方壁に囲まれているなということ。
靴底の擦れた音がどんどん増えて。
ボヤける視界に揺れる影を五人確認してからは数えるのはやめた。
胃液を吐いたから喉が辛い。
痛みの感覚はすぐ曖昧になる。
油断して腹筋を硬くしないうちに殴られてしまったから内臓を痛めてしまったみたいだ。
刺されていないだけマシだなと思った。
やけに自分の心臓の音がうるさいと思ったら耳の横が裂けているみたいだ。
頭にうまく血液がいかない。肺に空気がはいらない。
思考がうまく繋がらない。
だから。
幻聴であってほしかった。
「いやッ………!!」
こんな所で、もえちゃんの声がするわけない。
悲痛な叫び。
警察を呼んだと叫ぶくみちゃんの声は震えている。
つかさちゃんが泣いている。
泣かせてしまった。
笑顔のまま帰らせたかったのに。
途端に心臓が跳ね上がった。
身体はどんどん脱力する。
音が混ざり合う。
ガラスが割れる音。
怒号。
口の中は鉄の味がした。
最後の力を振り絞って走った。
抱き込む。
強く掻き抱く。
衝撃
悲鳴
メキョリと変な音がした。
後頭部が熱い。
最後に見たのは
涙を決壊させたもえちゃんの瞳だった。




