エピソードZERO 2.鈴蘭の君
1.歌舞伎町の女
ーー膝が痛くて走れない。
女は今になってやっと口うるさい先輩の助言が正しかったことに気づいた。
それでも女は歌舞伎町の夜を一人で帰らなければならなかった。
今日は推しに買ってもらったお気に入りのパンプスをどうしても履きたかったのだ。
折れそうなほどの細く長いヒールの女優パンプスだ。
靴底がワインレッドの某有名ブランドのコピー商品だ。
可愛いだけでエナメルの色合いは本物と比較にならない光沢の劣悪品だ。
日頃から口うるさい先輩は目ざとくその真新しい靴を一瞥して言った。
「すぐ壊れそうな下品なもの履くのはやめなさいよ」と。
「安いプレゼントで浮かれるんじゃない。大事なら家に飾れ」
「店の格も下がるのだから身につけるものに気をつけなさい」
「店以外で露出するのはやめなさい」
細かい業務外のことまでネチネチと小言は止まらなかった。
バツイチ子持ちババアの僻みだと聞き流した。
若くキラキラしている後輩へのやっかみだと。
あれは僻みじゃなかったのだ。
先輩は夜職に生きる女の知恵を授けてくれていたのだ。
すぐ壊れるような靴ではいざという時走れない。
恐怖で強張った脚は踏ん張りがきかず足首は左右に揺れひねってしまった。痛みで思うように歩けもしなかった。
プレゼントを身に着けているとそれを害された時に隙ができる。
現に折れてひしゃげた脱げたパンプスを目で追って転んでしまった。
露出するといらないものに付きまとわれる。
「それ」はたしかに女の露出した肌を全身を舐めるように観察してから襲いかかった。
横にいた厚着の観光客風の女には一瞥もしなかったのだから。
危険な目にあってはじめて頭が冴えわたる。走馬灯のように先輩の小言を思い出す。
でもその気づきは遅すぎた。
女の命の灯火は今にも消えそうで「次」など永遠に訪れないと本能が確信したのだから。
「それ」が人間ならまだ対処できただろうか。
「それ」は路地裏から突然現れた。
ここは歌舞伎町二丁目の夜の繁華街だ。
いくら空が白んできているとはいえ確かに人通りは賑やかだった。
その有象無象の人垣の中「それ」は一直線に女に突っ込んできた。
最初はくたびれたおっさんが歩いているなと思ったのだ。
酔いつぶれた小汚い中年親父など何も珍しくなかったのに。
何故か女はその男と目があったのだ。
虚ろだった瞳がギラリと光った気がした。
ーーなに………あれ?
みるみるうちに「それ」は黒い熊が毛を逆立てたように揺らめいた。黒い霧が立ち込めるように姿が変貌したのだ。
女は一瞬目が霞んだのかと思った。
目をこすり瞬きした瞬間に「それ」は眼の前で爪を振り上げていた。
「ひッ………」
人間とは本当に恐いときには声が出ないとは本当だった。
女は薄着だった。ただでさえ薄い生地のキャミソールワンピースは紙のように簡単に引きちぎられた。
避けるように身を捻じったのに、視界の端に血しぶきが映る。自身の血だと認識する前に本能が女の足を動かした。
身を翻して逃げ惑う女を道行く人は怪訝そうに見やる。でもすぐ手元のスマフォに目線を落とす。
都会の人間はなんて薄情なんだろうと涙が出た。
逃げ惑い転び膝が擦りむいて走れなくなっても女はそれでも必死に逃げた。
折れたパンプスがひしゃげて後方に吹っ飛んでも。
違和感はあったのだ。
女は何回も人とぶつかった。
相手は悲鳴をあげたり驚きの声をあげる。
それなのにーー
彼等はキョロキョロするばかりで女を目で追わないのだ。
決定的なのは女がぶつかったのが一番に声を荒げ文句を言いそうな強面の兄さんだった。その人ですら驚きの声をあげるだけだった。
「なんだ?!突風か?」
「いたっ」
「かまいたちか?」
驚きの声をあげるのに女が獣に襲われているのに無関心だ。
ーーちがう!私たちが見えてないの?!
恐怖で縮こまった肺を広げて女は叫んだ。
今まで生きていた中で一番の叫び声だった。
言葉にもならない悲鳴にもならない叫び声を上げても誰もふりむかない。
もう女の顔は涙と鼻水でグチャグチャだった。
女が絶望したのと裏路地の暗いところに転がるように倒れ込んだのは同時だった。
背中を擦りむいたみたいだ。
冷たいアスファルトに肌が触れているのに燃えるように熱い。
「それ」はよだれを垂らしていた。
爛々と光る瞳はギョロついていて焦点が合っていないのにまっすぐ女に近づく。
熊にも見えたけど豚のような風貌だ。
額にも頭にもボコボコした突起物がある。ガマガエルのような質感の肌は確かに人ではないはずなのにスーツを着ている。
この世のものとは思えないうめき声と共に生臭い匂いがたちこめた。
女の太ももにポタリと垂れる。
長い舌は女の血だらけの足裏を舐めている。
気持ち悪さで女は吐いた。
吐瀉物まで「それ」は舐め上げた。
女の切り裂かれた胸元から首筋を舐め上げたあと「それ」は鋭い牙を覗かせながらニヤけた。
涙で歪んだ女の瞳には大きい口がさらに裂けるように大きくなる様が映る。
ーーああ。先輩。
女が最後に思い出したのは貢いで尽くした推しのホストではなく小うるさい先輩だった。
年増の子持ちのスナックのちいママ。
夜の世界でしか生きられない落ちこぼれの女を拾ってくれた先輩。
怒るときは恐いし手がすぐ出た。
ーーあたしバカだもん。ぶん殴らないと言うこと聞かないよ。痛い目見ないとわからない小娘だって笑いながら安物の靴。無理やり脱がしてくれたら言うこと聞いたのに。
先輩がいつもより強引に叱らなかったことにも気づいた。
惚れた男のプレゼントを無下にできない女心をわかってくれたからだ。
小言を言いながら高めの絆創膏を女のバックにねじ込んでくれていた。
「安物の靴は革が硬いから絆創膏はっときな」
「大きなお世話なんだよ!ばばあ!」
「尻の青い小娘がなまいってんじゃないよ!」
「うっせえ!クソババア!」
最後の会話がこれだ。
先輩は婆臭くて大っきらいだったけど大好きだった。
母への反抗期をこじらしたような会話は心地よかった。女にはマトモな母はいなかったから。
「救けてっ……ままっ………」
女は涙で溢れて腫れ上がった瞳をそっと閉じた。
「女の靴を汚した罪は重いわよね?」
耳元でしっとりした声が囁いた。
囁いているのに良く透き通った声だった。
「え?」
「重いわよね?」
「はい?」
「そう。女を害する臭い汚物は万死に値しますわね」
「へ?」
ふわりと甘い香りが頬をかすった気がした。
懐かしい香りがした。
確か先輩が寝具に振りまいていた香水の香りだ。
「野良猫が安心するのよね」
そう笑って。
女が戸惑いと驚きで思わず目を見開いた瞬間、眼の前の「それ」は大きく横にひしゃげて吹き飛んだ。
立ち込めていた黒い煙が空に溶けていった。
女の膝には道に捨て置いたはずのピンヒールが置かれていた。
2.鈴蘭の君
開店前のスナックはまだ薄暗く、カウンターの上に並べたグラスがくすんだ光を返していた。
ちいママはグラスを磨きながら、ちらりと入口を見た。
戸口に立っていたのは、場違いなほど品が良い背筋の伸びた男だった。
スーツは安物ではない。コートから中に覗くベストまでオーダーメイドなのがわかる。黒い光沢が美しい革靴はイタリア製だ。端正な顔は作り物めいている。艷やかな黒髪は短く刈り込んでいて一寸の狂いもなく撫でつけられている。
外人の血が入っているのだろうか。眼鏡に隠れた瞳は黒いが照明が照っていないのに煌めいて見えた。知らない顔だ。
こんな男前がこの界隈に彷徨いていたら一発で覚えただろう。
「まだ開いてないよ」
そう言うと、男は名刺を差し出した。
ーーー 真神 玄狼。まがみげんろうなんて顔に似合わない和名だわね。
ラバートとか、ドーベルマンとか。そんな洋名のほうが似合う風貌だ。
警察ではない。けれど、それに近いと推察できる難しい漢字の機関名が記されていた。
こちらがもてなさないことには気分を害した様子はない。
男は冷ややかなバリトンボイスで懐の資料を説明しながらちいママから目を離さない。
その瞳は「観察者」の瞳だった。
「最近、この界隈で起きていた傷害事件についてお話を」
「減ってるでしょ」
ちいママは男の言葉を最後まで聞かずに言った。
手に取ったタバコに火を点けてくゆらす。
煙に巻くには小道具が不可欠だから。
紫色の煙がたちこめだした。
「女の子が襲われる件。ぱったり止まったじゃない。あんたたちの夜回りのおかげ?」
皮肉を隠しもしない声に、男は一瞬言葉に詰まる。
「……公式には、警戒強化の成果ということになっています」
「へえ?」
氷がグラスの中で乾いた音を立てた。
「随分都合がいいね。警察とかあんたみたいなのが増えた覚えはないけど」
男は店内を見回した。
壁に貼られた色褪せたボトルキープの札には壺のマーク。
年季の入ったソファには群青色の毛皮。
それらを見渡してまたちいママに目線を戻した。“事情を知っている場所”だと悟ったらしい。
「この店のお嬢さんが、以前……」
「ああ、あの子?」
ちいママは軽く笑った。
「もう辞めたよ。膝やっちゃってね。今は昼の仕事探してるって。しぶとい子だから、生きてるわ」
それ以上は語らない。
男が何かを書き留めようとした手を止めた。
「その事件の夜、現場周辺で――」
「甘い花の匂いがしたんでしょ」
先輩は男の言葉をまた遮った。
「鈴蘭みたいな。夜の街じゃ浮く爽やかな匂い」
男の黒い目が眼鏡越しに金色に輝いた気がした。涼し気なアーモンド型の目がわずかに見開かれる。
「やっぱり、あなたもご存じで」
「知ってるってほどじゃないよ。野良猫を泊まらせるのが趣味の美人ママなだけさ」
ちいママはタバコを消すと中断していたグラス磨きを再開しながら、淡々と言った。
「ただね、最近この辺じゃ噂になってる。
女の子たちが襲われなくなったのは、警察のおかげじゃないって」
「……その存在を、皆はどう呼んでいるのですか」
ちいママはふっと鼻で笑った。
「さあね。誰が言い出したのか知らないけど」
カウンターにグラスを置き、男をまっすぐ見た。
「『鈴蘭の君』だってさ」
男は何か言いかけて口を閉ざした。
名刺をしまい、深く一礼する。
「本日はありがとうございました」
「気をつけな」
振り返っても体幹のブレない男の背中に、ちいママは投げるように言った。
「女を守ってる“何か”を、下手に探ろうとすると――
次に匂いを嗅ぐのは、あんたかもしれないから」
男が去ったあと、店内には一瞬だけ、
花を踏んだような、甘くて清潔な香りが残った気がした。
ちいママはそれに気づかないふりをして、シャッターを上げた。
「……まったく」
誰にともなく呟く。
「鈴蘭は毒花だってことを男は知らないのかね」
カウンターの背面側。
白い鈴が連なったような小さな花が小瓶に挿してあった。
かび臭い匂いとコンクリートの冷たさで目が覚めた。
透は目をしばしばと瞬きした。
「……。変な夢を見たな」
飲みすぎるのはやはり良くなかった。
酔いつぶれている間に全身をしこたま打つつけたのか動くたびに鈍く痛い。
硬い床で一晩明かすのは初めてではないが拘置所は初めてだった。小さい鉄格子の窓から朝日を浴びながら透は途方に暮れた。
酔いつぶれて変な生き物に遭遇した気がした。薬でも店で盛られたのだろうか。ブルリと寒気がした。都会は怖い。ズボンが臭いから粗相をしたらしい。見栄張りの透にしてはなかなかしない失態だった。
ヒステリーになった妻を見るのが嫌で家に帰らなかったが、たった一人の子が行方不明なのだ。こんな時こそ家族は支え合うべきだろう。
「倒産して借金まみれなことどう言おうかな……」
透は頭をかきながら起き上がった。何故か心の渦巻いていた不快感がなくなったような気がした。
そんな透を翡翠色と金色の瞳が見つめていた。
3.事案
拘置所の鉄格子を見つめる二つの人影がいた。
常人が見上げてもわからない高度の上空にだ。
白い翼を生やした慎一郎の脚にヴォルグは掴まっている。
ヴォルグは、器用に片手で書類をめくっている。
「被害者関係者の聞き取りに矛盾はなかったな」
「警察が来る前に伸されてたって?
襲われた女の子運が良かったね」
「世の中捨てたもんではないということだな」
しかし書類の二枚目に目を落としたまましばらく黙りこんだ。
彼が黙りこむのはいつものことだ。
慎一郎は忍耐強く待つ。
「……妙だな」
やっと口に出したことは更なる疑問。
そこで慎一郎は観察対象から目と関心を外し書類を覗き込む。
ーー《咎物送致記録》ーー
なんの変哲もない書類だ。
慎一郎は軽く首を鳴らす。
「今度は何が気に食わないの?」
「送致記録だ」
「それはわかるよ?」
慎一郎は首を傾げるが、ヴォルグは、該当箇所を指で叩いた。
「非正規ルート。魂刈り取り後、幽玄異郷へ強制送還――」
「普通じゃん」
「……普通すぎる」
慎一郎は眉をひそめる。
「咎物なんて、正規だろうが非正規だろうが、行き着く先は同じだよ?」
「幽玄異郷だな」
「そこで魔物になって………狩られて………砕かれて………素材にされる」
「罰としては、妥当だ」
淡々とした言葉だった。
それはこの世界では、疑う必要のない“常識”だからだ。
だが。
「………反応がない」
ヴォルグの声が、わずかに低くなる。
「魔物化の兆候が、一切記録されていない」
「え?」
「魂圧、瘴気、残滓。どれも観測ゼロだ」
「えっと………」と慎一郎は空中に指で円を描く。
「送致された直後にすぐ狩られたとか?誤差はあるよ?
大規模演習とか………。密猟とか?それはそれで問題だけど」
「なら残る。素材になる前に、必ず“痕”が出る」
「それは………知ってる………けど」
慎一郎は、無意識に息を止めていた。
思い至ってしまったのだ。"異常事態"に。
「……つまり?」
「幽玄異郷に“届いていない”可能性がある」
「まさか………」
「正確には――」
ヴォルグは言葉を選ぶように、一拍置いた。
「輪廻の流れに、接続されていない」
慎一郎は、乾いた笑いを漏らした。
「それ、行方不明ってより………消失って意味じゃ……」
「断定はできない」
即座に遮る。
「前例がない。だからこそ、"事案"だ」
書類の端に、小さく追記された文字があった。
――干渉痕:未登録
――処理方式:不明
「誰かが、勝手なことをしている」
ヴォルグはそう結論づけた。
「非正規ルートを使いながら、結果だけが異なる」
「まるで――」
慎一郎は、言いかけて口をつぐむ。
まるで。
ーーー罰を与えるでもなく、救うでもなく。
最初から“無かったこと”にしているみたいだ。
ありえないことだ。
それは御伽噺レベルの。
だが、慎一郎のその言葉は飲み込まれた。
「勧誘対象………なのかな」
慎一郎は話題を戻す。
彼等のここでの仕事は狩人ではある。
表向きはそうだが第一優先事項は"勧誘"だ。
「随分厄介なのが潜んでいるな」
ヴォルグは否定しなかった。
「………まだ、何をしているのかは分からない」
ーーーただし。
と心中で続ける。
"無差別"ではないことは確かだ。
鉄格子の中の中年男を見遣る。
あれだけの瘴気を纏っていたのに二人が見失った男。
俊敏そうには見えなかったが、地元警察が捕縛していた。
直前に女を襲ったらしいが難を逃れた。
今回は珍しく仕事が迅速だったことは評価できる。
いつも冷や汗をかきながら現場を仕切る男を思い浮かべーーー。
ヴォルグは思わず笑った。
その様子を慎一郎はニコニコ眺めた。
「じゃ帰還かな?」
「いや」
帰路に着こうとウキウキしていた慎一郎は目に見えて肩を落とす。
「あいつの魂圧の結果がでているはずだ」
「僕らが事前に測定したのに?」
「………念のためだ」
「了解」
慎一郎とヴォルグはバディーだ。
慎一郎はヴォルグの勘と嗅覚は全幅の信頼を置いている。
彼が実験結果やデータに重きを置くように。
そもそも本来二人はここにいるべきではなかったのだ。
彼らが属する組織と警察は秘密裏に協定を結んでいる。
それは警察にとっては治安を維持するにもうってつけだし、組織は得るものがある。
WINWINな関係なのだ。
だが《事案》ならば無視はできない。
「食糧問題……材料枯渇……研究材料不足……始末書……」
「ボソボソつぶやくな……。頭が痛い」
二人はためいきをついた。
「そもそも……。ほんと?僕ら意外に『祓う』ものがいたなんて。警察内部にも片手くらいしかいない。
手放したくない人材だ」
「………」
「一般人がどう咎物ってわかるの?一見わからないもんだよ。極悪人だよ。極悪人。世間に溶け込めるやつこそ裏では何してるかわからないんだ」
「………………」
「そんな極悪人に、たまたま?偶然?
道端で会うとか普通は御伽噺だよね……」
「………………………頭が痛いな」
男二人のため息は尽きない。
ーー『鈴蘭の君』か。欲しい人材だな。
《被害者目撃情報》の項を一瞥しヴォルグは書類をしまう。
「邪王復活の兆しとの論文解析の仕事あるんだよ〜。早く帰りたいな………」
慎一郎は頬を掻く。首を左右に鳴らしながら高度を上げる。
「有望な候補生の育成を早めねばならないな」
「勧誘もね。事案の人見つけたらさ。大型新人だよ!」
「面倒事が増える予感しかしないな」
二人の頭上に幾何学模様が展開した。
緑色に輝いたそれに包まれてーーー。
彼等の痕跡は消えた。
暁の空にはさっきまであった明星の月が消えかかっていた。




