序章:魔王、空腹によりて目覚める
――あぁ、腹が減った。
それが、魔王ヴァン・ガルディオスが抱いた、最期の感想だった。
崩れ落ちる玉座。視界を埋め尽くすのは、忌々しいほどに眩い聖剣の輝きと、勝利に歓喜する勇者たちの顔。胸を貫かれた傷口から、ドクドクと熱い魔力が抜け落ちていく。かつて世界を恐怖で支配した我が身が、いまや見る影もなく冷え始めている。
「……見事だ、勇者よ」
口から零れたのは、呪詛ではなく、渇望だった。数百年にわたる支配。殺戮。破壊。すべてを成し遂げ、すべてを手に入れたつもりでいた。だが、この消滅の瞬間に残ったのは、魂を焦がすような飢餓感だけ。
(次は……そうだな)
意識が闇に溶けていく。もしも次があるのなら。この満たされぬ空虚な胃袋を、破壊や恐怖などという味気ないものではなく――もっと、別の何かで満たしたい。そう願った瞬間、魔王の意識はプツリと途絶え、世界から「暴食」の二つ名が消滅した。
はず、だった。
「…………喧ましい」
鼓膜を叩く、不快な雑音で意識が浮上する。剣戟の音ではない。魔法の爆裂音でも、家臣たちの叫びでもない。車の走行音。無機質な電子音。聞き慣れない、だが何故か意味の分かる言葉の羅列。
重たい瞼をこじ開けると、そこは崩壊した玉座の間ではなかった。頭上には、星空を塗り潰すような極彩色の光。巨大な硝子の塔が林立し、その隙間を巨大な瞳が見下ろしている。
「ここは……何処だ? 冥府にしては、随分と煌びやかだが」
アスファルトの冷たさを背に感じながら、体を起こす。視点が低い。手足が細い。かつて竜の鱗すら引き裂いた剛腕は失われ、代わりにそこにあったのは、ひ弱な人間の腕だった。
だが、変わっていないものが一つだけある。体の芯、へその奥底で渦巻く、どす黒いブラックホールのような感覚。
「グゥゥゥゥゥゥゥ…………!!」
雷鳴のような音が、路地裏に響き渡った。我が腹の虫だ。魔力は消え失せた。軍勢も城も失った。だが、この「飢え」だけが、執拗に魂にこびりついている。
「クク、ハハハ……! 傑作だ。あれだけの魔法を受けてなお、この我を突き動かすのが『食欲』とはな!」
ふらつく足で立ち上がる。とてつもない空腹だ。今ならドラゴンの一頭ですら丸呑みにできそうだ。支配欲も、破壊衝動も今の我にはない。あるのは、ただ純粋な「食」への渇望のみ。
路地裏を抜けると、そこには見たこともない「人の海」が広がっていた。新宿、歌舞伎町。異世界からの迷い人を飲み込むこの欲望の街で、元魔王ヴァン・ガルディオスの「第二の生」は、盛大な腹の虫と共に幕を開けたのである。
路地裏から一歩足を踏み出すと、そこは光の洪水だった。
頭上を埋め尽くす極彩色の看板。ビルの壁面で踊る巨大な女のサイネージ。そして、途切れることなく行き交う鉄の箱たち。魔力探知を働かせてみるが、返ってくる反応は皆無だ。この世界の住人は、魔力という概念を持たぬらしい。だというのに、夜を昼に変えるほどのこの光量はどうだ。
「……狂っているな」
――かつての魔王は、口元を歪めて笑った。魔力を使わず、科学という名の物理法則だけでこの不夜城を築き上げたのか。この世界の人間どもは、魔法使いよりもよほどタチが悪い執念深さを持っているらしい。
ふと、ガラス張りの建造物に映る自分の姿を見る。黒髪に、黒い瞳。肌は病的なまでに白く、頬がこけている。衣服は奇妙な形状だ。黒い布地の上着に、動きにくい硬いズボン。
「これが、今の我の器か。貧弱なものだ」
ため息交じりにズボンのポケットを探る。指先に触れたのは、薄汚れた革の折り畳みケース。中には、金属の板が数枚と、男の顔が描かれた紙切れが在った。そして、プラスチックのカードが一枚。『獅堂 ガル』という名と、この貧相な顔写真が刻まれている。
「貴様がこの体の持ち主だったか。……安心しろ、貴様の未練もろとも、我が引き継いでやる」
財布をポケットに戻し、再び歩き出す。目的は決まっている。「食料」の確保だ。先ほどから、この街には暴力的なまでの「匂い」が充満している。脂が焦げる香ばしい匂い。甘く濃厚なクリームの香り。スパイスが鼻腔を刺激する刺激臭。それらが混然一体となり、魔王の空っぽの胃袋を内側から殴りつけてくる。
「ぐ、ぅ……! おのれ、精神魔法の類か……!」
腹部を抑え、よろめく。通りすがりの派手な格好をした若者たちが、不審者を見る目で避けていく。目の前には『なないちいち』という名の商店があり、中には光り輝く食料が山積みされていた。だが、本能が告げている。――足りない。あんな包装されただけの保存食では、今の我の魂の飢えは満たせない。
もっと、熱のあるもの。命の輪郭を感じられるもの。調理した人間の「気」が籠ったもの。
飢餓感で視界が霞む。かつて世界を統べた魔王が、ただの空腹で野垂れ死ぬのか。そんな喜劇が許されてたまるか。
その時だった。極彩色のネオンの海、その切れ目に、ふわりと揺れる「白」が見えた。
「……なんだ、あれは」
騒がしい大通りの喧騒から取り残されたような、古びた一角。そこに、小さな店があった。けばけばしい電飾はない。あるのは、風に揺れる白い布と、そこから漏れ出る、か細くも力強い湯気だけ。
だが、魔王の鼻は捉えていた。その湯気に混じる、圧倒的な「優しさ」の匂いを。肉を焼く攻撃的な脂ではない。砂糖の甘い誘惑でもない。穀物が炊きあがる、素朴にして根源的な香り。
(あそこだ……)
理屈ではない。我が魂が、あの場所を指し示している。重い足を引きずり、光の届かぬ暗がりへと向かう。店先に掲げられた木の板には、『定食屋 こひなた』という文字が、擦れかけながらも墨で書かれていた。
そして、その横。風にバタバタと煽られる一枚の張り紙が、魔王の目に飛び込んできた。
そこには、朱色の筆文字で、荒々しくこう殴り書きされていたのだ。
『ジャンボメンチカツ定食 完食者無料!』 『求ム、挑戦者!!』
「……ほう」
意識が途切れる寸前、魔王の口元が微かに吊り上がる。挑戦者、だと。この我に対して、貴様らは挑もうというのか。
(面白い……受けて、立とうではないか)
引き戸に手を掛ける。しかし、指先に力が入らない。限界だった。戦意と食欲だけで繋ぎとめていた意識が、戦場を見つけた安堵で一気に決壊する。
ガララッ……ドサッ。
戸が開く音と、体が崩れ落ちる音が重なった。薄れゆく視界の端に、慌てて駆け寄ってくるエプロン姿の少女の足が見える。
「ちょ、ちょっと!? 大丈夫ですか!?」
少女の声が遠く聞こえる。あぁ、いい匂いだ。ここが本当の冥府の入り口か、それとも――新たな闘争の庭か。
魔王ガルディオス、もとい、獅堂ガルは、強烈な出汁の香りに包まれながら、二度目の意識を手放した。




