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果実章の夜

作者: 雨ノ日

先日参加した量子暗号のカンファレスから着想を得ました。

あと数年で量子コンピューターが実用化されると全てのレガシーな暗号は解読されてしまうそうだ。


雨は外にあるのに、音だけが建物の中まで入ってくる。

搬入スロープのシャッターは半分だけ開いていて、鋼板のひさしを叩く粒の数で、いまどれだけ世界が鈍っているかが分かる。私は受付台の角を親指で押さえ、規約冊子を開いたまま深呼吸した。初日だ。名札はまだ紙製だし、制服の裾には発行の糊が残っている。


「受け入れ手順、標準の前段だけだ」


背後で、まとめ役が低く言う。軍人の所作を身につけているが、ここは軍ではない。灰色の壁には《停戦相当域協定・第三者履行機関ラテラル・ゾーン》の掲示と、赤インクで印刷された“武器携行禁止”の注意書き。電話機にはスポンサー連合へ直通のランプがあり、通電していると緑が点く。きょうはずっと、緑だ。


スロープの先でブザーが鳴り、シャッターがさらに二十センチ持ち上がる。外は見ない。見てしまえば、雨に心が引かれる。ここでやるのは、見ることではなく、運用だ。


最初に入ってきたのは、濡れたコートの士官だった。帽章から滴る水が床に暗い点を作る。彼は胸ポケットから封緘した通行申請を出し、淡々と言った。


「資産の一部、検疫最小で通過を求める。通り次第、列車は発つ」


資産。その言い方だけで、私は筆圧を落としたくなる。だが落としてはいけない。

まとめ役は記名の欄に視線だけ落とし、受付台のマイクに向かって「検疫区画A、準備」と告げる。スロープ側の扉が開き、搬入台車と、若い兵と、そして果実の意匠を胸に付けた少女たちが二列で入ってくる。柑橘が先頭、核果がその後ろ、ベリーが最後尾。雨合羽を脱ぎ、屋内灯の下に立つと、彼女らの表情は年相応の――それでも十分に訓練された――静けさになった。


「医療の一次。心拍・体温・既往。通行はその後だ」


私は検疫票を配りながら言う。士官が眉をひそめる。通路の天井からぶら下がる湿度計は、針を高めの位置で震わせている。Wet RF Fogの表示灯が点灯していて、遠隔端末の回線速度が落ちているのも分かる。雨は通信を鈍らせる。だから、いまは紙が強い。


ベリーの章をつけた小柄な少女が、私の袖に軽く触れた。「同意の紙は?」

「ここに」私はセラミック紙の封筒を差し出す。

彼女は手袋を外し、ペン先に意識を集中させるようにゆっくり自分の名前を書いた。ひらがな二音。筆圧は弱いが線はぶれない。私はその横に、共同署名の欄を指で示し、立会人として自分の名前を記す。インクは雨でも滲まない黒だ。原本はここに残る。電子は写しだ。


電話機の緑が、ほのかに強くなった。まとめ役が受話器を取り、短く名乗る。

『移送先の変更を通達。対象ユニットは検疫を最小化し、三十分以内に通過させること』

スポンサー連合のオペレーターの声は、冷たく均質だ。まとめ役は「承知」の言葉の代わりにわずかに咳払いを落とし、受話器を伏せる。私と目が合う。言葉はないが、私が順序を決めてよいという合図に見えた。


私は検疫票の順番を、医療→電磁→通行に入れ替えた。順序を換えるだけで、問いの温度は変わる。

柑橘の章の少女の脈は少し速い。私は備考欄に、環境条件――湿度・気圧・“濡れた電波”の濃度――を書き込む。閾値には幅がある。雨はその幅を、人の側に少しだけ寄せる。


核果の章の少女は、検疫区画の配線図をじっと見てから私に尋ねた。「この施設の非常退避手順、掲示はありますか」

「保守モードの手順書なら、機械室の窓に貼ってあります」

「ありがとう。保守手順は、手順のためにある」

彼女は視線を戻し、何もしていないみたいな手つきで、ただ自分のレインキャップの縁を直した。


私は深呼吸し、次の列の名前を呼ぶ。そのとき、目の端に板張りの床の暗い輪がよぎった。無機質な事務室。昨日、私は書記としてそこにいた。男がひとり、結束バンドで親指を繋がれ、浅く腰掛けていた。中年の軍人。尋問役は性別の輪郭が薄い冷たい顔で、声だけがはっきりしていた。


――運び手のルートは?

男は答えなかった。唇だけが動いた。「番号で呼ぶな。あいつらには名前がある」


私は回想を切り離すように、目の前の紙に集中する。名前を書く欄がここにある。ここにある限り、記録はまだ人を守りうる。


士官が見取り図の前で腕を組む。「医薬の支給は四。燃料の引き替え八。通行証十六。……そして柑橘二を置いていく」

まとめ役は表情を動かさない。「人を物資の欄には書けません。規約では群です」

「群なら群で結構だ。群の一部を置いていけば、群ではなくなる」

やりとりは短く、乾いている。電話の緑がまた光るが、まとめ役は出ない。私はペン先を止めない。


検疫区画の奥、厚いガラスの向こうでBio-PUFの読み出し装置が低い音を立てる。柑橘の少女が台座に顎を乗せ、特定の波長の光を角膜に受ける。散乱パターンの微細な差異が、セッション鍵の素材になる。鍵は保存しない。その場で生まれて、その場で消える。私は読み出しログの写しを電子に送り、原本として紙に「読出し成功・環境条件一致」を記す。ベリーの少女がその紙に割印を置き、私とまとめ役が共同署名する。

これで、読み出しの結果はスポンサーの外に出ない。出す必要がない。


突然、天井のランプが一段階暗くなった。すぐに非常灯が点く。配電盤のアラームは鳴らないが、制御系の応答は明らかに鈍った。

「どうしました」士官が顔を上げる。

受付台の端末には回線遅延の表示。私は配線図を目で追い、機械室に視線を送る。窓越しに、核果の章の少女が保守モードの手順書を前に立っているのが見えた。彼女は何も触っていない。ただ、そこにいる。

まとめ役がマイクに向かう。「機械室、状況報告」

核果の少女がこちらを見ずに言う。「保守手順に従って、搬入スロープ側シャッターの安全点検を実施中。再起動まで二十五分」

「許可は――」士官が言いかけ、言葉の尻を飲み込む。手順は手順だ。安全のために存在する。誰も否定できない。ログは残る。しかし、雨のせいでログの集配信は遅れる。


電話機の緑が、ようやく点滅から停止に変わった。向こうも、私たちも、いまは同じ遅延の中にいる。


私は、まとめ役の横に立って、声を潜める。「時間ができました」

「お前の時間だ」まとめ役は言った。「運用で守れ」

私はうなずき、検疫票の束を広げる。一時保全条項は、生命・医療・電磁過負荷の疑いがある場合に限り、群として二十四時間の保護を宣言できる。個別ではなく、群としてだ。

私は順序をもう一度見直し、備考欄を埋め始めた。湿度、温度、Wet RF Fogの濃度、心拍の群傾向、角膜読み出しの安定域。すべてを、合法の幅の内側で並べ、併記する。柑橘の少女は台座から顎を上げ、私の書く文字を静かに追った。ベリーの少女は、同意の紙の端を押さえ、指先の震えを止めた。


「……私は資産の通過を要求している」士官が、言葉だけ固くした。「検疫は最小で」

まとめ役は、受付台に置かれたゴム印を一度、音だけ強く鳴らした。

「検疫は最大で、だ」

彼の声は低かったが、マイクは切っていなかった。施設全域に聞こえる。


私は一枚目の保全票に朱で印を押す。原本は私の手の中にある。紙の角は少しざらついていて、黒いインクは光を飲む。

二枚目。三枚目。印は雨でも乾く。

士官が一歩踏み出し、声を低くした。「あなた方は中立を捨てる気か」

私の声は自分でも驚くほど落ち着いていた。「中立は、囲い方の技です。条項はここにあります。群はここに立っています。私は、順序と備考で囲いました」


ドアの向こうで、核果の少女がこちらを見た。工具は持っていない。手は空だ。だが、保守手順は彼女の背中に貼られているだけで機能しているように見えた。

柑橘の少女が、私にだけ聞こえる声量で言った。「雨は、今日はあなたの味方」

「分かってる」私は紙を押さえ直す。「その代わり、明日は違うかもしれない」

「だから今夜の原本を残す」少女は小さく笑った。「名前で」


最後の印を押し終えたとき、Wet RF Fogのランプがふっと消えた。湿度計の針がほんの少し下がる。遠くの屋根を打つ雨音の輪郭が薄くなる。通信が回復しはじめる時刻だ。


電話機が鳴る。緑が点灯する。まとめ役は受話器を取らない。私はゴム印の蓋を閉め、封緘糸を通して保全票の束を留める。割印を落として、共同署名の横に日付を書き足す。

士官は口を開き、閉じ、また開いた。

「……柑橘、一名は、──」

彼は言いかけた名前を飲み込んだ。

「群として、保全に」まとめ役が言った。「通行手続は形式上進める。列車は別線に退避。あなた方のログは、回復次第到達するだろう」

士官は帽章を指で押さえ、握り締め、そしてわずかにうなずいた。軍人は手順を嫌わない。手順の中で屈する。


扉が閉まり、搬入スロープのシャッターが内側から降りる。スロープの床に、雨から持ち込まれた水の道が細く残り、それがやがて乾いて消える。

検疫区画Aの表示灯が白に戻り、Bio-PUF装置の待機音は息をひそめる。ベリーの少女が私の差し出したタオルで手を拭き、握手の代わりに軽く会釈した。

核果の少女は機械室から出てきて、保守手順書を窓に戻し、私の横に並んだ。「時間、役に立った?」

「ええ。あなたは何もしていない」

「私はいつも何もしていない。手順が私を通るだけ」

柑橘の少女は名札を水平に整え、掲示板の《第三者履行機関》の行を一度だけ見上げた。


雨音はまだ、遠くにある。

私は保全票の束を金庫に入れ、ダイヤルを回す。その重い音は、この建物の中心にだけ届く。外にいる誰にも届かない。届く必要もない。


夜明けは、窓のすりガラスが灰色に薄まっていくことでしか分からなかった。電話機の緑は、いつの間にか消えていた。スポンサー連合の声は、検疫票の束の上で眠っている。

まとめ役が私の名札を指で軽く叩いた。「初日にしては、よくやった」

「私、記録しかできません」

「記録で救えることもある」

彼はそれしか言わない。言わないほうが、ここでは正しい。


私は受付台の角をもう一度親指で押さえ、名札を整えた。

手続きは機械のように冷たいが、機械は濡れる。濡れたときに、誰を囲い、誰を通すか――それを決める指先の温度だけが、ここに残る。


外の雨が、ほんの少し静かになった。中の紙は、乾いている。


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