梅雪との邂逅
「さて、せっかくここまで話したんです。」
范智は、にこやかに手を叩いた。
「一度、梅雪様にご挨拶しておきましょうか。」
あまりに軽い提案に、ミレイナは思わず体を強張らせた。
「……私などが、梅雪様にお目通りするなど……」
戸惑いとともに、自然と頭を下げる。
身分の違いは痛いほどわかっている。
自分のような雑用係が、后妃に会うなど、許されるはずがない。
だが、范智は涼しい顔で続けた。
「いやいや、梅雪様のほうから、君に興味を持たれているんですよ。」
にこりと笑いながら、机の脇にある印を軽く指で弾く。
「興味を持たれたまま放置する方が、よほど不敬というものでしょう?」
冗談めかした口調。
だが、逃げ場を許さない響きが、そこにはあった。
ミレイナは、静かに唇を噛んだ。
断れる立場ではない。
たとえどれだけ不安でも、今は従うしかない。
「……承知しました。」
絞り出すような声で答える。
范智は満足そうに笑い、
「では、私も一緒に行きましょう。」
軽やかに立ち上がった。
その一言に、ミレイナは小さく目を見開いた。
後宮――
男が立ち入ることを固く禁じられた場所。
そこに堂々と足を踏み入れる権限を持つということが、この男、范智のただならぬ立場を物語っていた。
宮廷の奥へ向かう回廊は、静まり返っていた。
朱塗りの柱が規則正しく並び、白い石畳に靴音だけが乾いた音を立てる。
何度見てもここは壮大だった。
磨き上げられた柱は、ひとつひとつが威厳を湛え、天井に描かれた文様は、見上げれば首が痛くなるほど高い。
吐く息すら憚られるほどの荘厳な空気。
すぐ前を歩く范智の背中を追いながら、ひたすら無言で歩き続けた。
乾いた石畳に靴音だけが響く中、范智はふいに口を開いた。
「そんなに肩に力を入れなくても大丈夫ですよ。」
振り返りもせず、軽く言う。
ミレイナは、無意識にこわばらせていた手を握り直した。
「梅雪様は、怖い方ではありませんから。」
范智の声は、あくまで飄々としていた。
まるで、これから茶でも飲みに行くかのような気軽さだった。
「もっとも――」
范智は、言葉を一拍置いてから続けた。
「簡単に人を信用する方でも、ありませんがね。」
肩越しに、わずかに笑みを見せる。
その瞬間だった。
ふいに、背後からやわらかな声が飛び込んできた。
「范智様、そんな事おっしゃらないで下さい。皆さん怖がってしまいますよ。」
澄んだ、けれどどこか茶目っ気を含んだ声だった。
ミレイナは思わず振り返る。
そこにいたのは、柔らかな黒髪を結い上げ、淡い色の衣を纏った一人の女性、梅雪だった。
梅雪の後ろには多くの侍女を連れ添っていた。
范智は、にこやかに後ろを振り返る。
「おやおや、梅雪様ではありませんか。奇遇ですねぇ。丁度、貴方様の事を探していたんですよ。」
范智は続けて話す。
「それに、私めに『様』なんて使わなくてよろしいのですよ。貴方様は、この国の母君なのですから。」
軽やかにそう告げると、范智は恭しく一歩、身を引いた。
「まあ、それでも范智様には、どうしても敬語を使いたくなってしまうのです。あの頃のお返しだと思って下さい。」
「いえいえ、もったいないお言葉。私など、今となっては古株の閑人にすぎませんよ。」
軽く言いながら、さりげなく話を流す。
そして、さっと視線をミレイナへと向けた。
「それはそうと――こちらが、例の娘です。」
范智は軽やかに紹介する。
ミレイナは、小さく息を整え、教えられた作法に倣い、深く頭を下げた。
「……初めまして。ミレイナと申します。」
声がかすかに震えていた。
梅雪は、じっとミレイナを見つめた。
その視線は穏やかでありながら、どこか鋭さも秘めている。
しばしの沈黙の後、梅雪はふっと微笑んだ。
「顔を上げてくださいな。」
その声は、驚くほどやわらかかった。
ミレイナは、促されるままにゆっくりと顔を上げた。
「緊張なさらなくて大丈夫ですよ。」
梅雪の声は、清らかで、どこか人を包み込む温かさを持っていた。
「范智様は、揶揄っているだけなんです。私としては、別に疑っているつもりではないのですよ。むしろ、貴方の境遇に興味があるのです。」
「梅雪は、そっと柔らかな笑みを浮かべた。
「もし、差し支えなければ――今夜、時間があれば少し、お話を聞かせていただけますか?」
そのときだった。
梅雪の後ろに控えていた侍女が、慌てたように一歩前に出た。
「梅雪様、そんな――! もし陛下に知られたら、何と……!」
「瑞香」
たったそれだけ。
その一言に、侍女――瑞香は、はっとして言葉を飲み込んだ。
「大丈夫ですよ。あの方はきっと、わかってくださいます。責任は私が取ります。」
瑞香は深く頭を下げ、それ以上何も言わなかった。
そんな場面を見て、范智はにこやかに笑いながら、からかうように茶々を入れた。
「いやー、梅雪様。風格ありますねぇ。」
と、気楽な口調で続ける。
「私が初めてお会いしたときと比べると、すっかり“国母様”として様になっておられる。」
梅雪は、少しだけ目を伏せ、珍しく照れたように微笑んだ。
「……そんな、過分なお言葉です。」
普段はどんな賛辞にも動じない梅雪だったが、
范智のからかうような言葉には、わずかに表情を崩した。
それは気取ったものではなく、ごく自然な人間らしさだった。
范智はその様子を見て、愉快そうに肩をすくめた。