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兵部尚書の范智

 ミレイナは、後宮ではない宮中の一角で、黙々と雑用をこなしていた。

 そこは、高官たちが頻繁に行き来する内廷の近くに位置していた。


 掃除をしながら、ふと耳に入ったのは、低く抑えた男たちの会話。


「――范智様はどう動くおつもりか」

「兵部尚書のお考え次第だ」


 そんな断片的な言葉が、かすかに聞こえた。

 内容まではわからなかったが、“范智”という名前だけは、妙に耳に引っかかった。


 その言葉を耳にしたのは、これが初めてではない。

 確か、璃芙が何気ない雑談の中で口にしていたのを、うっすらと覚えている。


 兵部尚書になったとか、陛下の信頼が厚いとか――。

 細かい話は追わなかったが、その名前だけは妙に耳に残っていた。


 しかし、一介の兵部尚書が権力を持つという構造ミレイナはわずかな違和感を覚えた。


 兵部とは、本来、軍事を司る役所だ。

 戦においては重要だとしても、日常の政においてまで、これほど名前が取り沙汰されるものだろうか。


 どちらにせよ、ミレイナには関係のない話だった。璃芙も同じような事を言っていたが、深く

 関わらない方が良いと言っていた。

 深入りをすればするほど、見えない渦に巻き込まれる。

 そんな当たり前のことを、ミレイナは何となく理解していた。


 だからこそ、目の前の仕事をこなす。


 それが、ここで生き残るために、今の自分にできる唯一の選択だった。


 しかし、そんな思惑は、あっさりと破られた。

 静かな廊下に、硬い靴音が響く。


 兵部の正装は、他の役人たちのものとは明らかに違っていた。


 濃紺の上衣に、黒銀の刺繍。

 胸元には、剣と盾を模した鋭い紋章が縫い付けられている。


 その姿が、石畳の回廊に現れたとたん、周囲の空気が変わった。


 普段、この一角には滅多に兵部の者など来ない。

 それだけに、低いざわめきが、あちこちで静かに広がっていった。


 雑用係たちは手を止めることこそしなかったが、目線を隠しきれない者もいた。


 何事か。

 誰を探しているのか。

 あるいは、何か異変でも起こったのか。


 誰も言葉にはしなかったが、誰もが、内心で同じ事を考えていた。


 ミレイナもまた、箒を動かしながら、そっと兵士たちを視界の端に捉えた。


 知らぬふりをしながら、心だけを研ぎ澄ませる。

 不穏な気配は、確かに、そこにあった。


 兵士たちは、慣れない場所に苛立つ様子もなく、ゆっくりと歩みを進めていた。

 まるで、何かを探しているかのように。

 視線は動かさず、けれど確実に、周囲を見渡している。


 雑用係たちは、誰もが俯き、作業に没頭するふりをしていた。

 余計な目立ち方をすれば、すぐに目をつけられると思っていたからだ。


 ミレイナもまた、箒を持つ手を止めず、静かに頭を下げた。


 兵士たちの重い足音が、石畳を叩く。

 心臓が、ひとつ、脈打つ音を強く感じた。


 彼らが誰を探しているのか、目的が何なのか、知る由もない。


 ただ一つだけわかっていた。

 この場にいる誰かにとって、今日という日は、ただの一日では済まされないという事だ。

 そして、その誰かが、自分でないと証明される保証は、どこにもなかった。


 兵士たちの足音が、次第に近づいてくる。


 誰か別の者が呼び止められるのを、耳の奥で期待する自分がいた。

 だが、その希望はあっけなく打ち砕かれた。


 重い靴音が、ミレイナのすぐ傍で止まった。


 そっと顔を上げると、兵士たちの無表情な顔がそこにあった。


「そこの者。」


 短く、硬い呼び声。


 周囲の空気が凍りついた。

 誰もが見て見ぬふりを決め込む中、ミレイナだけが、静かにその視線を受け止めていた。


「命令だ。兵部尚書殿のもとへ同行せよ。」


 問答無用だった。

 理由も、拒む権利もない。


 ミレイナは、何も言わずに箒を置いた。


 まるで、最初からそれしか選べないことを知っていたかのように。


 兵士たちは、無言のまま彼女を取り囲む。

 背後で、誰かが小さく息を呑む音が聞こえた。


 ミレイナは、ただ静かに、一歩を踏み出した。


 どこへ連れて行かれるのかもわからぬまま、石畳の冷たさだけを足元に感じながら。


 彼女は、兵士が何人も来ていることに、薄々気づいていた。


 通常の使いにしては、あまりに人数が多い。


 二人、三人で足りるはずの呼び出しに、わざわざこれだけの兵を伴う必要があるのか。


 そんな疑問が、頭の中をよぎる。


 通されたのは、普段なら踏み入ることすらない、区域だった。

 朱塗りの柱。高く広がる天井には、淡く光を受けた絹の装飾が揺れている。


 途中、何人かの使用人が通りかかったが、誰一人として顔を上げなかった。

 皆、足早に通り過ぎるだけだった。


 さらに数度、廊下を曲がる。

 奥へ、奥へと進むにつれ、空気は冷たさを増していった。

 やがて、一際大きな扉の前で、兵士たちは立ち止まった。


 扉の前には、別の衛兵が控えている。


「范智様、お連れしました。」


 衛兵は無言で頷き、手にした槍を軽く掲げる。

 それが、扉を開ける合図だった。


 厚く重たい扉が、きしみもせず、静かに開かれる。


 そこには、兵部尚書の范智が、机に広げた書類に目を通していた。

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