後宮の片隅で
ミレイナは仕事が終わった後、
内膳房の片隅に設けられた食事処へ向かった。
ここ数日にしては仕事の出来が良かった。上役に叱責されることもなく、同僚たちの視線も幾分か柔らかかった。
ミレイナは無言のまま、木の器に盛られた薄いスープと、乾いたパンの一切れを受け取った。
湯気は立っていたが、香りと呼べるものはほとんどない。
彼女はスープに浸したパンを口に運び、そっと噛みしめた。
ぽろぽろと崩れる生地は乾いていて、口の中に粉っぽさだけが広がった。
数日間過ごして気づいたのは、故郷で食べていたパンとは、まるで違っていた事だった。
故郷のパンは、ふんわりと膨らみ、噛むたびに小麦の甘みとしっとりとした香りが広がった。
焼きたての温もりと、かすかなバターの香り。
それが、当たり前のようにあった。
しかし、ここで与えられるパンは、膨らみもなく、重たく、味気ない。
水で練ってそのまま焼いたかのような、素朴を通り越した粗末さだった。
けれど、空腹を満たすだけなら、それで十分だった。文化が違うのだ。
味や食感の違いに戸惑うことすら、今は贅沢だった。
ミレイナは、何も言わず、また一口だけパンをかじった。
もう一口だけかじろうとした時、向かいの椅子が音を立てて引いた。
璃芙だった。
皿を手に、にこにこしながら腰を下ろす。
「ここ、空いてる?」
尋ねるまでもない様子で、軽やかに席を占める。
それだけで、璃芙は満足したらしく、スープにパンを浸して食べ始めた。
「……うん」
璃芙は嬉しそうに頷き、スープにパンを浸して食べ始めた。
しばらく二人の間に言葉はなかった。ただ、器を擦る音と、パンを噛む小さな音だけが響いていた
「ここのご飯、あんまり美味しくないよね」
璃芙がふいに言う。
ミレイナはパンを見下ろし、ほんの少しだけ間を置いてから答えた。
「やっぱり慣れるしか、ないと思う。それに、私はここに来たの初めてだから」
「ここに来たの初めてなの?」
璃芙が目を丸くして聞き返した。
ミレイナは、パンをちぎりながら、かすかにうなずいた。
「……うん。だから、まだよくわからないことばかり。」
言葉は控えめだったが、それでもミレイナにしては珍しいほど、はっきりと自分のことを話していた。
「へー。そうなんだ。名前が変わっていたからもしかしたらなぁって思ってたけど。」
璃芙はスプーンをくるくる回しながら、軽い調子で言った。
「やっぱり、ここの生まれじゃないんだね。」
ミレイナはスープの表面をぼんやりと見つめたまま、特に否定も肯定もしなかった。
璃芙もそれ以上深くは聞かなかった。ただ、にこっと笑うと、またパンをちぎってスープに沈めた。
「じゃあ、私が教えてあげるよ! っていうか、前にも似たような子に教えたことあるし。」
璃芙は得意げに言って、スープをすくった。
ミレイナはスプーンを持ったまま、静かに璃芙を見た。
「……慣れてるんだね。」
ぽつりと漏らしたミレイナの言葉に、璃芙はにっと笑った。
「うん、まあね! 任せて!」
璃芙は、数日も経たないうちに、宮中で同じ雑用係たちと自然に打ち解けていた。
持ち前の明るさと物怖じしない性格で、いつの間にか周囲に馴染み、笑い声の中心にいることも少なくなかった。
◇
彼女によれば、ここは今、後宮なのだという。
そこは男禁制の場所であり、彼女の勤める部署は、後宮ではなく高官たちが比較的多く集まるのところだった。
そして、この宮廷では厳格な役割分担が存在するという。
すべての頂点に皇帝が君臨し、その下に、国を動かす六つの部門――兵部、戸部、礼部、吏部、刑部、工部が控えている。
それぞれを取り仕切る長官たちは、国家の根幹を支える役人たちだ。
雑用係たちは、さらにそのずっと下。
高官たちが気にも留めない存在であり、命じられるがまま、見えないところで働く者たちだった。
「でもね、失敗すると、見えないところでもちゃんと怒られるから、油断しちゃだめなんだよ」
璃芙はパンをちぎりながら、冗談めかして言った。
その言葉に込められた真意を、ミレイナは無言で受け止めた。
もっとも、そんな厳しい身分の壁を越えた者も、ほんのわずかに存在する。
例えば、梅雪――。
もとは低い身分に生まれながら、豊かな教養と強い意志を持ち、己の力で皇帝の正妻にまで上り詰めた稀有な存在だった。
この宮廷では、血筋こそがすべてとされる。
だが、梅雪は、ただ血統に頼ることなく、己を磨き、見抜かせ、認めさせた。
彼女の名は、今や誰もが敬意をもって口にする。
それでも、そんな存在は例外に過ぎない。
多くの者にとって、この世界は生まれた時点で、その行く末まで決まっているのだった。
「梅雪様、まだ会った事はないけど、絶対良い人に決まってるわ!あーあ、会えないのが残念。」
璃芙はため息まじりに笑った。
そのとき、食堂の隅から鋭い声が響いた。
「食事は終わりだ! 片付けに入れ!」
雑用係たちが一斉に立ち上がり、慌ただしく動き出す。
ミレイナも璃芙も、慌ててパンとスープを口に運んだ。
冷めたスープはすっかり味気を失っていたが、そんなことを気にしている暇はなかった。
璃芙は最後にパンを押し込むと、ミレイナに笑いかけた。
「行こ!」
ミレイナも無言でうなずき、器を手に立ち上がった。