第三話「プリンチペ・エ・プリンチペ」(1)
三日経った。プリンチペ・マッシモの許可はすぐに下りたが、ビアンカが体調を崩したために大事をとったのだ。その間、ルーナの街はひとつの噂でもちきりになっていた。
隣町リディアが滅んだのは、どうやら本当だったようだ。毒王に市壁を越えられて壊滅し、逃げた者も、混沌に攫われるか、猛追してきた毒王に喰われて全滅したという。眼前で起こった悲劇ではないにしろ、僕が生まれて以来、最大にして最悪のニュースだった。
「クリュプトン、今日は散歩にでも出なよ。少しなら多分大丈夫だから」
クリュプトンには、リディアの話はしていない。だが、この人は恐らく、僕の留守中に何度か外出して、外の噂を知っている。
クリュプトン。そう、彼が、僕にとっての実感そのものなのだ。恐らくはリディアの生き残りである彼の素性を明かせば、街の人は気味悪がるに違いない。だから、未だに人の往来がそれなりにあるモニカからの客人とでもいうことにする。
これはほぼ確実だが、じじいは既に気付いている。気付いて、知らんぷりをしている。
「白犬にくれてやるメシにも限りがあるぞ」
そう言う代わりに、パンを一切れ余分に皿に盛ってくれる。僕はそれをあえて残し、じじいの目を盗んで自室に持って行く。腐っても神父だ。信仰が縁起と一緒に金を運んでくると勘違いしている東区のクソ坊主よりは遥かにマシ。説教の途中を省略しても、葬儀に寝遅れても、じじいはジュリオ神父として、西区の人々の信頼を得ている。
僕が幼い頃に、こんなことがあった。
その年は混沌が濃くて、作物がほとんど実らなかった。プリンチペ・マッシモは宮殿や貴族の倉を開いて、穀物をルーナの街全体に配った。
それまで東区では教会が穀物を買い占めていて、一部の商人にそれを高値で売りつけていたが、彼らはプリンチペ・マッシモの判断を見るや焦って倉を開いた。対して我らが西区教会では、普段から備蓄などないものだから、近隣の人々が教会に麦を寄付するという有様だった。じじいはこれが気に入らなかったらしく、こう言った。
「おいおい、神様はもうとっくに腹一杯だぞ。持って帰れ。持って帰れ」
以後、ルーナの街ではしばらくの間、「お布施をする時はジュリオ神父に持ってゆけ」と言い聞かせるのが流行ったそうだ。東区教会に寄付した金は倉にしまわれるが、西区教会に寄付した金はきちんと神様に届くということらしい。一緒に暮らしている僕にしてみれば、西区全体が貧しくて寄付する額もたかが知れているに過ぎないのだが。東区教会はがめついが、西区よりは人を豊かにするために金を使っていると思う。
だが、それでも人々はじじいの生き方に廉潔さを見たのだ。
* * *
ビアンカを訪ねた僕は、彼女を連れて君主宮殿に参上した。ヴィルトが迎えに現れるという優待振りだ。身分こそ低いが、ヴィルトは有能な馭者で、フェリックス様のお気に入りらしい。彼の駆る馬車は実に乗り心地が良い。
ビアンカの家を出ると、中央通りからアリシア通りに突き当たり、右折したら橋を渡って、貴族街を抜ける。そして天使通りに入って、君主宮殿に至る。
「わぁ! わぁ!」
ビアンカは宮殿の壮麗さもそうだが、近づくにつれてその巨大さを思い知らされるポルタパーチェに感嘆しっぱなしだ。そういえば彼女は、床に伏せる生活が長く続いたせいか、天使通りに入るのは初めてだった。そびえ立つ「飛び立つ者達の門」の向こうは市壁に囲まれているものの、高台に行けば高層の塔がわずかに頭を見せる。天使たちの宮殿は、昼夜を問わずに輝いている。
ヴィルトは、彼は彼で、何やら嬉しそうだった。そこはやはり兄妹で、彼も仕事の都合、ビアンカとほとんど会えないのが辛かったのだろう。
「ねぇ、ヴィルトはフェリチタと仲がいいの?」
「おいおい、まさか宮殿の中でもそんなぞんざいな言葉使いをしてないだろうな?」
ヴィルトが苦笑すると、思わず僕の方が舌を出したくなる。
「フェリチタがそうしろって言うんだ。仕方がないじゃないか。で、どうなの?」
「特に話したことはないな。宮殿の給仕でも彼女の世話を見ている人は少ないよ。ほとんどカヴァリエーレ・リータがつきっきりだからね」
「じゃあ、カタリーナ御嬢様は? 彼女はヴィルトのこと気に入ってるみたいだけど」
「確かによく呼びつけられる。本当は子猫探しなんてしている暇はないんだが、他の給仕達の頼みもあってね」
頼みというのがどういうものなのかは容易に想像できる。
「へぇ、意地悪されたりしないの?」
「しないね」
「もしかしてカタリーナ御嬢様ってヴィルトのこと好きだったり?」
「僕なんかには恐れ多いね」
笑って誤魔化す。でもまあ、カタリーナ御嬢様の気持ちが少しだけわからなくもない。ヴィルトは、一度人と約束したことは絶対に守る。僕は、ヴィルトと何かを約束すると、少しだけ誇らしい気分になる。
* * *
ヴィルトとビアンカは三年前に両親を失った。それからヴィルトが日銭を稼いでビアンカの世話をしていたのだが、それで食べていけるはずもない。
いくら可愛い妹でも、自分の生活のほとんどを彼女のためにあてなければならず、次第に疲労が愛情を凌駕し、それはあっという間に冷めた感情に陥る。一時期のヴィルトはアンジェラとは比較にならないほど荒んでいた。だがそれもすぐに止んだ。赤貧は彼に非行に走る自由すら許さなかった。
ある日、ヴィルトはリディアの街に荷を運ぶ仕事を請け負って出て行った。混沌が濃い季節で、毒王に遭遇する危険性が高く、誰もやりたがらない仕事を請け負ったのだ。天使の街の塔が三度輝くまでに――つまりは三日以内に戻るという契約で。
三日後、彼は街に帰還したが、ひとりだった。後方の馬車が濃い混沌によって道を誤り、崖から転落したのだった。雇い主は怒り、ヴィルトに賠償まで求めた。そこで、彼は雇い主に言った。仲間を見捨ててはいない。葬って来たのだと。
「まだ塔は輝いていない。それまでに荷を取り戻してくる」
誰も信じない。僕だって信じなかった。だが、彼は約束を守ったのだ。ひとりで街を飛び出し、荷馬車を牽いて戻ってきた。雇い主は満足し、ヴィルトは賠償を免れた。だが、彼は正統な報酬を手にすることを拒んだ。
「僕は皆で帰るという約束をした。それを果たさなかった」
ヴィルトは崖から落ちて死んだ二人の同僚の家族に、自らの報酬を渡した。彼は何も手にしなかった。幸運があるとすれば、この話がフェリックス様の耳に届いたことだった。
優秀な馭者を探していたフェリックス様は、ヴィルトを宮殿に呼んだ。次期プリンチペの馭者ともなれば、身分は低くとも誇り高い仕事だ。周囲の者はフェリックス様の酔狂だと笑ったが、ヴィルトは彼らの前で目隠しをしたまま馬を操り、右を誉めては左を罵ることに忙しい者達を黙らせたという。
フェリックス様が面目を保ち、ヴィルトに忠誠を求めたところ、彼は拒否した。
「守れないとわかっている約束をしたくはありません」
フェリックス様は、暴言を吐いたヴィルトをすぐさま磔にせず、理由を問うた。
「多くの人々があなたに忠誠を誓い、あなたを守るでしょうが、彼らはあなたに守られているに過ぎません。あなたが真に危険に陥った時、彼らは、あるいはあなたを守らないことにより、自らを守るでしょう。ですから、あなたが僕に求めるものが忠誠であるのなら、忠しくない約束をするわけには参りません」
「では、君はどうすれば私の馭者になってくれるのか?」
「ご心配には及びません。ただ、『私を運んでゆけ。決して落とすな。道も誤るな』と、命じてください。馭者はそれが全てです」
フェリックス様は満足してヴィルトを宮殿に召し上げた。今や、西区に住む誰もがヴィルトを誇りに思っている。当然のことだが、ヴィルトはフェリックス様を一度も馬車から落としていないし、道を間違えてもいない。
『誇らしいヴィルト』
誰からともなくそう呼ぶようになった。本人は「恥ずかしいからやめてくれ」と言うのだが、そんなヴィルトが周囲の人々にとって誇らしいのだ。