第二話「プリンチペッシーナは退屈にあらせられる」(3)
「猫……ですか?」
「そう、猫よ。わたくしの可愛いルカちゃんがいなくなったから探してるの。いつもヴィルトにやらせてるんだけど……」
僕は何故か、カタリーナ御嬢様の愛猫探しを手伝うはめになった。屋敷内を勝手に歩き回ってはいけないとカヴァリエーレ・リータに言われたが、そこは御嬢様権限が強く、何とかなった。逆に宮殿内の安全管理を疑問視したいが。
真っ白な猫らしい。短く「ミャォ! ミャォ!」と鳴くのが特徴で、外にはあまり出たがらない。だから、屋敷内のどこかにいるだろうということだった。他にも何人かの給仕が僕と同じように猫捜索に当てられていたが、可哀想なことに、報告する度にカタリーナ御嬢様に蹴飛ばされたり、唾を吐き掛けられたりしていた。とんだお転婆だ。
「おや、坊やが御嬢様の新しい遊び係かい? 気の毒にねぇ……」
年配の給仕の反応は明るかったが、そこに多くの苦労が滲んでいるようにも見えた。
カタリーナ御嬢様のお墨付きがあっても、発端が彼女のわがままであれば情報伝達は遅いらしく、給仕達は僕に冷淡な反応をして、捜索が可能だったのも一部の区域に限られた。
「ルカ? そういえば庭先で猫の鳴き声がしたわね……」
厨房にまで足を運んで得た情報は、猫ルカは屋敷の外にでないというカタリーナ御嬢様の情報と矛盾していた。どうりで見つからないわけだ。
庭に出ると、離れだろうか――向かいに小さな建物が見えた。その先の花壇に白い何かが顔をのぞかせていた。ルカに違いない。とにかく一階であれば邸内は自由に出入りしてもいいとカタリーナ御嬢様の許可はとってあるから、僕は自分の仕事を果たすことにした。
「あっ!」
花壇には慎重に近づいたつもりだったが、ルカは僕の気配に気付いたのか、空きっ放しの窓から邸内に入ってしまった。僕は渋々裏手に回って、扉をノックする。誰も出ない。
(戻ってカタリーナ御嬢様に伝えようか?)
そう思ってはみたものの、ルカを見つけておきながら引き返したことをなじられて鞭で叩かれるに違いないと想定し、僕は意を決して扉を押した。
香草を焚いているのか、花壇よりも芳しい香りが室内に満ちていた。
「リータ? 戻ったの?」
澄んだ声。カヴァリエーレ・リータは冷徹、カタリーナ御嬢様は乱暴、他の給仕達は皆忙しさに追われるように話すので、僕は君主宮殿に足を踏み入れてから初めて人の声に接したような妙な感覚にとらわれた。
ほっそりとした少女が、体半分だけを部屋の奥の扉から見せてこちらをうかがっている。
「……? あなた、誰?」
巻き気味だが流動感豊かな金色の髪に、小さな顔。紺碧の瞳が僕をじっとみている。
「あっ……いや、僕は別に怪しいものじゃなくて――」
少女は小さく首を傾げる。可愛い。どこかビアンカみたいだ。
「カタリーナ御嬢様のご命令で……。あっ、僕はエリコです。西区教会のエリコ! ルカを探しに来たんです。ここに入って行くのが見えたから!」
全く、しどろもどろもいいところだが、僕は何故自分がこうも緊張しているかもわからないでいるのだから仕方がない。
「エリ……コ?」
「そ、そうです。エリコ! じゃなくて猫が!」
「うふふッ――」
薄い唇がわずかに曲がった。
「ルカならね、エリコ。ここにいるわ。カタリーナ姉様が探しているのね」
「あのぅ……。もしかして、フェリチタ様? 剣の家系の姫様?」
彼女の話し振りから、そうとしか思えなかった。君主宮殿の宝、ルーナ三大美女の一人などと下町では謳われている花園の姫フェリチタ。それが彼女なのだと思った。
「ええ、初めまして、エリコ」
本来なら平伏してしかるべきなのだが、フェリックス様やカタリーナ御嬢様、あるいはプリンチペ・マッシモの前では許されざる無礼が、この空間には存在しないのだと、フェリチタ御嬢様の目が告げているのだ。
「でもね、エリコ。ルカは見つからないの」
不思議なことを言う。僕の視線は、御嬢様の足元から現れた白猫に注がれている。
「見つからない?」
「姉様の遊びはとても激しいの。この子、尻尾が曲がっていたり、耳が欠けていたりするでしょう? 全部姉様の遊びなの。だから見つからない。今日は見つからないの」
確かに、よく見るとフェリチタ御嬢様の言うとおりだ。カタリーナ御嬢様のことはいちいち思い出さなくても、平素の彼女の乱暴は明らかだ。この猫は常々その矛先を向けられていたのだろう。給仕達があまり熱心にルカを探しているように見えなかったのはそういうことなのだろうか。
「わかりました、姫様。ルカがどこにいるのか、僕は知りません」
にっこりと、フェリチタ御嬢様は笑った。
「ふふふ……ありがとう、エリコ」
なんという、可愛らしいお姫様だろう。彼女だけが御嬢様ではなく姫様と呼ばれる理由がわかった気がする。アンジェラに見せてやりたいくらいだ。
「それじゃあ、姫様。僕はカタリーナ御嬢様に叱られに行きます」
僕が片手を胸に当てお辞儀をすると、フェリチタ御嬢様は困ったような顔をして言った。
「御免なさい。あなたが叱られるなんて考えていなかったわ。どうしましょう?」
「いえ、お気兼ねなく。カヴァリエーレ・リータに助けてもらいますから」
「まあ、それは頼もしいわ。リータなら大丈夫ね。御機嫌よう――御機嫌よう、エリコ!」
* * *
屋敷に戻った僕は、適当にそこらを探しまわった後、まるで他の給仕達と話でもあわせたかのように、カタリーナ御嬢様への報告を行った。
「えっ? ああ、まだ探していたの? あれならヴィルトに言いつけたから、もういいわよ」
無下というか、給仕達の不熱心がよく理解できるというか、全く困った御嬢様だ。
「あー、ヤダヤダ。兄様もどうせリディアの件で忙しいだろうし、ヴィルトくらいしか遊び相手がいないのよねぇ」
カタリーナ御嬢様の言う遊びが僕の想像の通りだとしたら、ヴィルトも災難だろう。
ふと、カタリーナ御嬢様の言葉が気にかかった。
「あの――」
「あん?」
「リディアの件って、何でしょうか?」
僕はそれが、昨日の毒王襲撃事件のことだと思った。クリュプトンはいくら問うても素性を答えようとしないが、彼はリディア出身であるというのが、僕の立てた仮説だった。
「え? お前知らないの? ちょっと前にリディアは滅んだのよ。毒王の襲撃に遭って――」
「滅ん……って、どういうことですか?」
「文字通りよ。リディアが滅んだの。少し前にこの街に逃げ出してきた連中がいたから本当よ。今は御父様が保護してるはずだけど――」
大事件だ。カタリーナ御嬢様の話し振りからすると、宮殿内では昨日今日の話題ではないらしい。彼女自身、この話に飽き飽きしているのが見て取れる。
「まあ、下にはまだ知らされてないみたいだけど、明日か明後日くらいには正式に発表があるでしょうね。マンマが呼ばれたってことは、それだけじゃないかも知れないけど」
「下」というのが、西区や東区を含む下町を指すことはすぐにわかった。
「あ、そうだ」
何かを思い出したように、カタリーナ御嬢様は話題を変えた。
「お前、もしかしてフェリチタに会ってないでしょうね?」
話題をぶつ切りにして鋭い指摘。彼女に何かを詮索されるような覚えは、あるといえばあるのだが、何やら答えようによっては容赦しないといった雰囲気が、少し怖い。
「いえ、知りません」
馬鹿な返答をした。会っていないと答えるべきだった。
「そう、ならいいのよ」
カタリーナ御嬢様はただの思いつきを口にしたに過ぎないらしく、僕は安堵した。
少しして、ニッチがヴィルトを連れて現れた。
「マンマはお泊りになることに決まりましたので、ヴィルトが教会までお送りします」
彼は僕のために馬車まで用意すると、庭先でそれに乗り込む間際、僕の耳元で囁いた。
「ここで見聞きしたことはしばらく他言なさらぬよう。プリンチペの怒りに触れられぬよう、よろしくお願いいたします」
釘を刺すというよりは、脅迫に近い言い様だった。まるで、カタリーナ御嬢様との会話を知っているとでも言わんばかりに。
ヴィルトは途中、「疲れただろう? 帰ったらゆっくり休め」と声をかけてくれた以外は無言だった。彼は何やら考え込んでいる様子で、ビアンカのことを話す暇すらなかった。
「やはりいつまでも守っているばかりでは駄目だ」
ひとりごちるのが聞こえた。