第二話「プリンチペッシーナは退屈にあらせられる」(2)
マンマが妙にこだわったせいで、カヴァリエーレ・リータの方が折れて、僕は何故か君主宮殿までお供することになった。じじいが知ったら腰を抜かすに違いない。
アリシア通りを抜け、橋を渡り、フラヴィオ河の中央に浮かぶ中洲に入る。貴族街だ。ラクリマをふんだんなく使っていて、混沌の濃い日でも随分と明るい。東区の繁華街に行けば同じくらい明るいが、やはり漂う気品が違う。代々の名家が建ち並び、幌をまくって外を眺める僕を圧倒する。
中洲に半円を描くように横たわる花園通りを途中まで走り、もう一度フラヴィオ河を渡って対岸に着くと、天使通りに入る。真っ直ぐに行けばポルタパーチェで、右折するとそこが君主宮殿だ。
壮大、壮美、他に何の言葉で表そうか。純白に彩られた宮殿がそこにある。馭者が手綱を引き、馬車が止まった。そうなるまでにいくつの門を潜ったか、数えておけばよかった。
庭の中央の噴水を越えて、宮殿の扉の前に来た。今日は混沌が濃いから夜とあまり変わらない暗さだ。扉の中から光が溢れ出る。
「お待ちしておりました」
黒の正装で身を固めた一人の老人が、扉の前にいた。
「おやおや、しばらく見ない間にまた大きくなったねぇ、坊や」
「ハハ……恐縮にございます」
片眼鏡をつけている白髪の老人は、マンマの気の抜けた呼びかけに相づちを打った。
「その者は?」
僕の姿に気付いた老人がカヴァリエーレ・リータに問うた。
「西区教会のジュリオ神父が養っている孤児です。マンマがどうしても連れて来るように仰るので――」
自己紹介を促すかのように、カヴァリエーレ・リータは僕を見やる。
「エ……エリコと申します」
右手を胸に当て、深々と頭を下げる。
「左様ですか。私は執事長のニッチです。どうぞ中へ……」
まるで賓客を遇するかのような態度だ。今までマンマの世話を何度かやったが、こんなことは初めてだ。彼女は一体何者なのか。
* * *
宮殿の内部は、よくもまあこれだけのラクリマを無駄使いできるものだなと感心したくなる明るさだった。赤い絨毯の敷き詰められた広い廊下を歩いている時は、僕の靴で床が汚れてしまうのではないかと心配になった。黄金色の手すりにはおっかなくて触れられないまま二階に上がったところで、とてとてと何者かが走り寄ってきた。
「ヴィルト! ヴィルトはいないの? ねぇ、ニッチ。ヴィルトを知らない?」
艶のある黒髪はアンジェラに似ているものの、巻き癖なのかところどころ跳ねている。顔は細長く、そばかすが可愛らしく引き立っている。釣り目で、気が強そうだ。
「カタリーナ御嬢様、廊下を走ってはなりませんよ」
カヴァリエーレ・リータにたしなめられると、カタリーナと呼ばれた少女はつんと横を向いて、「それどころじゃないのよ!」と返した。
カタリーナ様といえば、プリンチペ・マッシモの長女に違いない。彼女は僕の姿に気付くと、あからさまに嫌な顔をした。
「ちょっと、物乞いが紛れ込んでるじゃない。誰よ、こんなのを屋敷に入れた奴!」
素晴らしい第一印象をカタリーナ御嬢様にプレゼントしてしまったらしい僕は、最悪な気分になった。もとより場違いなのは承知の上だが、物乞い呼ばわりは酷い。
(これでもあんた達のために時々毒王を見張ってるんだけどな……)
勿論、口が裂けても言えない。言えばその口を裂かれてしまう。いや、言ったらもう口が裂けてるのだから、裂きようがないか。
コホン、と咳払いが聞こえた。ニッチだ。
「マンマの御前であることをお忘れなく……」
言われて初めて気付いたのか、カタリーナ御嬢様は急にばつの悪そうな顔になり、容儀を正すと、ピンク色のドレスの端をつまみ、マンマに向かって一礼した。
「御機嫌麗しゅう、マンマ。またお会いできて光栄ですわ」
先ほどの嫌悪剥き出しの台詞とは裏腹に、教養を感じさせる、落ち着きある声だったのが、僕にとってはやや不満だった。ドレスの端を踏んでずっこければよかったのに。
「カタリーナや。最近はドレスの端を踏んでずっこけたりしなくなったかい?」
マンマが僕の願いを叶えるようなことを言い、カタリーナ御嬢様のひきつった笑顔も見れたので、僕は溜飲を下げることができた。
マンマはどうやらプリンチペ・マッシモの部屋に案内されるらしいが、流石に僕はそこまでついては行けなかった。
「ここで待っていろ」
窓際の壁に持たれかけながら、カヴァリエーレ・リータが言った。改めてみると、何という人だろう。立ち振る舞いからして剣士そのものなのに、アンジェラよりも成熟した女を感じる。短く言うと、綺麗だ。
「あの、カヴァリエーレ……」
僕が話しかけると、カヴァリエーレ・リータは目だけを僕に向けて言った。
「リータでいい。私はただの侍女だ。騎士ではない」
そんなことは勿論知っている。貴族街の生まれだが、母方が卑賎の出で爵位などない。それが、剣技に優れているという理由でプリンチペ・マッシモに起用されたというのは、ピオが自分の自慢話でもするように聞かせてくれた話だ。ピオにしてみれば、カヴァリエーレ・リータに流れる血の半分は貴族ではなく平民であることが、重要らしい。彼はリータのような剣士になりたいのだ。
「あの、リータ様って何歳くらいなんですか?」
途端にカヴァリエーレ・リータの眉間に皺がよる。それだけで僕は彼女に斬りかかられると思い、肝を潰した。
「礼を知らぬ餓鬼だな。覚えておけ。男が女の歳を聞くほどの禁忌は存在しない。さもないと指輪の家系のように一族郎党皆殺しにするぞ」
「あ……はい。すみません……って、あれ?」
勢いで謝ってしまったが、彼女は重大な勘違いをしている。確かに僕の服装はピオやアルフォンソと大差ないから、仕方がない部分もあるのだろうが。
とてとてと、廊下を走る音。
「いたわ。ちょうどいい。お前、来なさい! 暇なんでしょ? 来なさい!」
カタリーナ御嬢様だ。先ほど怒られたばかりなのに、もうそのことを忘れたように慌しく屋敷内を走る。何かを探しているようだ。
「カタリーナ御嬢様、何度も同じことを申し上げるのは心苦しいのですが――」
「うっさいわね。黙ってなさいよ、年増女!」
再び忠告しようとしたカヴァリエーレ・リータにまさかの暴言。身分の差を考えれば、カタリーナ御嬢様の方が強いのはわかるが、これにはさすがのカヴァリエーレも眉間に青筋を立てたまま、わなわなと震えるしかなかった。
「年……増……? 御嬢様、私はこれでも二十三――」
「お黙りなさい。いつもお前が御父様に告げ口してるのは知っているのよ。お前は大人しくフェリチタのお守りだけしてればいいのよ」
「しかし……」
口答えがやや過ぎた感もあった。次の瞬間にカタリーナ御嬢様が平手で彼女をぶったのは、まあ仕方がない。
「チッ……チッ」
舌打ち。正直、今のカタリーナ御嬢様は、いらついた幼児のようにもみえる。
「拭きなさい」
カタリーナ御嬢様は、叩いた方の手をカヴァリエーレ・リータに差し出した。彼女は無言で懐からハンカチを取り出すと、別に汚れてもいない彼女の手を拭き取る。
「気持ち悪いわ、お前。下賎の分際で。兄様にどう取り入ったかは大体想像つくけど、自らの卑しさをよく覚えておくことね」
そう言って、御嬢様はカヴァリエーレ・リータの髪を鷲づかみにする。
威圧。御嬢様のとる態度は威嚇以外のなにものでもないが、カヴァリエーレ・リータがただ単にカタリーナ御嬢様の瞳を覗き込む行為は、威圧に値した。二人の間の、身分を越えた絶望的な格の違いを見せ付けるかのようだった。その偉力に呑まれたのか、カタリーナ御嬢様は息を忘れたようにピクリとも動かなくなった。
嫌な目だ。死人を見るような目。人間を見るものではない。カヴァリエーレ・リータが優秀な剣士であることを、僕はこの時になって思い出した。
「あ……あのッ!」
他に方法が思いつかなかった。このまま放っておけば、どうなるかわからない。
「御嬢様、何の御用でございましょうか?」
すっとんきょうなのは自分でもわかる。だが、やはり他に何も思いつかなかったのだ。