第二話「プリンチペッシーナは退屈にあらせられる」(1)
「ピオだ!」
「いいや、アルフォンソだ!」
男どもが騒ぎ立てる。
「どうしてこう――お子様連中は殴ったり叩いたりが好きなんですの?」
心底つまらなそうに座りながら、アンジェラが愚痴る。
(自分だって少し前まで娼婦と殴り合いの喧嘩をしてたじゃないか……)
少しおかしかった。
「エリコは!」
アルフォンソが僕に詰め寄る。酷いふとっちょだ。また腰周りが豊かになったんじゃないか。
「エリコはどっちに賭ける?」
「勿論、ピオ!」
そう言って、僕は今朝くすねた卵を懐から取り出す。
「おおっ! 三つだ! 卵三つ!」
アルフォンソはチッと舌打つと持ち場に戻って木の棒を握る。僕が賭けに負ければこの卵は彼の懐に入るのに、どうして残念そうな顔をするのだろうか。彼の考えていることはよくわからない。
「アルフォンソも可哀想ですわねぇ……」
と、アンジェラは意味のわからないことを言った。
「相変わらず、ピオはカヴァリエーレ・リータにご執心ですのぉ?」
アンジェラがピオに野次を飛ばす。
「カヴァリエーレに勝つのは、ルーナの男なら誰もが考えることだ」
当然のようにピオの反論。
「考えませんわよ。カヴァリエーレ・リータと寝たい男ならごまんといるでしょうけれど――」
「なっ!」
ピオの頬が一瞬で真っ赤に染まる。
(おーおー、のぼせとる……)
全く、こんな調子でカヴァリエーレ・リータの前に立っても、指ひとつ動かせないまま冑をかち割られて終わりだろう。
鼻で笑いながら、一応はピオを応援する。
始まる。月に一度の西区東区での代表戦。ただの遊びだ。だが、ルーナの子供たちにとっては数少ない遊びでもある。
五日後、年に一度の剣闘大会が行われる。ルーナには年に三つ大きな祭りがあるが、その内のひとつがこれだ。参加者は名門貴族から下町の腕自慢までピンキリで、前回大会はカヴァリエーレ・リータの二連覇で終わっている。
アルフォンソは木の棒を水平に構える。ピオは同じように木の棒を持った右手を、だらりと垂らしたまま動かない。相変わらず、ピオはカヴァリエーレ・リータに倣った構えだ。アルフォンソが飛び出すと、ピオの体がわずかに揺らいだ。バチン――と、馬の尻を鞭で叩いたような音が鳴った。次の瞬間、アルフォンソは右手首を押さえて呻いていた。
「今日もピオの勝ちか」
歓声。このところ、西区はピオのお陰で三連勝している。以前はアルフォンソ一強だったが、頭角を現したピオが威張り屋の彼を追い抜く様は見ていて痛快と言うほかない。
「ピオ! ピオ!」
西区と東区の堺にある空き地で、喜びの声がこだまする。
「ああっ、危ない!」
倒れてもがいていたアルフォンソがピオの足首をつかみ、力任せに引き倒す。ピオは相変わらずつめが甘い。すぐに馬乗りにされて、三度ほど殴られたところで悲鳴を上げる。こうなればもう、いつも通りだ。それまで観戦していた連中も試合に加わる。
「これだから東区の連中は!」
僕も息巻いてピオの加勢に向かおうとすると、アンジェラが僕の袖をつかんだ。
「エリコ、やめておきなさいな」
「邪魔するなよ、アンジェラ。これからが面白いんだ」
「鼻血噴いたり、頭から血を流したりの何が面白いんですの? 石で殴ったり、棒で顔を叩いたりの一体どこが?」
「でも、アンジェラ。東区の連中になめられるのはよくない」
「いいんですのよ。エリコも少しは大人になりなさい。大体、あなたはもう少しで一人前の女になりましてよ?」
「そんなの関係ない。ピオは僕の友達だ」
「エリコ、あなた喧嘩しても最近は誰にも顔を殴られないでしょう? その意味を理解しなさいな」
アンジェラは何を言っているのだろう。東区の連中は僕が女でも容赦しない。この間など耳に石が当たって酷い目に遭った。大体僕はアルフォンソ相手に暴れまわって泣かせたことがある。あいつ、僕に手も足も出ないまま赦しを請うていた。
「嫌だね、アンジェラ!」
そう言って、僕は飛び出した。
* * *
今日はじじいの命令でマンマの世話だ。午前中に食料を届けて、部屋を掃除するだけなのだが、最悪なのはあのボケた婆さんの話し相手になることだ。聞いていても意味がわからないし、こちらが何を言っても理解してくれない。
ルーナの街の西端。ちょうど昨日、老婆を見送ったアリシア通り沿いの橋より更に西に、マンマの家がある。ただマンマと呼ばれているだけで、本名は知らない。多分、本人も憶えていないだろう。百歳を越えているという話も聞く。だとすれば「飛び立つ者達の門」の向こうに呼ばれないのが不思議でならない。
貧民街の果てにあるにしては小奇麗な家で、白く塗られた壁は、貴族街のものを思わせる。彼女が落魄貴族であるというのは、真実味のある噂だ。
白塗りの扉を開ける。軽い。ビアンカの家の扉もこれくらい軽ければいいのに。
中に入ると大きなテーブルがある。暖炉に火はついていない。昼間なのに少し暗い。
(灯りをつけなきゃ……)
僕は、手探りでランプをまさぐると、蓋をひねる。注がれたラクリマが強い光を放つ。
「来たよ、マンマ。エリコだよ」
そう言って、部屋を見渡すが、誰もいない。まだ寝ているのだろうか。
――コン、コン。
何かを二度、叩くような音。クリュプトンだ。ついてきた。待っていろと言ったのに。
「おやぁ? 誰かねぇ?」
部屋の奥から声が聞こえた。途端に、香ばしい匂いが部屋中に広がる。ああ、昼食を作っていたのかと思い当たる。
「おや、おや、トーニ。そんなに急かさないでおくれよぉ」
炊事場から老婆が顔を出す。僕よりも小さい。小人みたいなお婆ちゃん。真っ白な御髪に、ムカデみたいに曲がった背中。マンマは目玉焼きを二つ乗せた皿をテーブルに置いた。
「今日も来てくれたのかい、トーニ? あんたには世話をかけるねぇ……」
優しく僕を労う。彼女には、僕がエリコであることは理解できていない。去年まで飼っていた犬が自分を手伝いに来たのだと思い込んでいる。
「お前が来たのはすぐにわかったよ。コン、コンと音がしたからねぇ。さあ、お腹が空いているだろう? たぁんとお食べ」
トーニは、マンマが飼っていた犬だ。最近はマンマのボケようが激しくて、トーニに餌を与えるのをよく忘れていたから、アンジェラや僕が世話を見ていた。だが昨年、僕が目を逸らしている間に家を抜け出して市壁の外にまで逃げてしまった。
僕は井戸の水を汲むために家を出た。クリュプトンはついて来なかったが、マンマ相手なら見られても平気だ。彼女の言うことは誰も信じないから。バケツ一杯に水を汲んで、瓶に注ぎ込む。それを五度繰り返して、ようやく僕は仕事を終えた。
戻ると、不思議な光景があった。マンマと卓を囲んで、クリュプトンが席に着いている。
「パンはいっぱいあるから、いくらでも食べていきなさい。ほら、トーニ。たんとお食べ」
まるで孫に言い聞かせるかのように、マンマはクリュプトンに話しかける。クリュプトンはというと、少し困ったような笑みを浮かべつつ、彼女の話に耳を傾ける。
蹄鉄の音。遠くから聞こえる。それは、真っ直ぐにこちらに向かってくる。
「クリュプトン、奥の部屋に!」
またもや押し込むようにクリュプトンを退散させると同時に、何者かが扉を叩く。
応じると、そこには剣を腰に差した長身の女がいた。
「リータにございます、マンマ。プリンチペ・マッシモの命によりお迎えに上がりました」
腰まで伸びた赤茶の髪はいくつもの三つ編みになっていて、そのひとつが剣の柄にかかる。ルーナの街でも最高の剣士と讃えられる騎士リータだ。
「おやおや、何の話かねぇ?」
時折、マンマは明晰になる。クリュプトンをこの家に預けようなどというのが夢想であることを思い知らされる。
「申し訳ありません。私はマンマを宮殿までお連れせよとの命しか承っておりませんので」
リータは役人然として、恐らくはマンマに言っても無駄であろうことを言った。
マンマはよく心得ているのか、特に駄々をこねるわけでもなく、支度を始めた。
「それじゃあね。番を頼むよ、トーニ!」
またもやボケ始めたマンマを見送ろうと手を振っていると、マンマは急に僕に歩み寄り、
「何をやっているんだい。お前も来るんだよ」
と、意味のわからないことを言った。