最終話「行ってしまわれるのですか?」(4)
フェリチタと共に馬車に揺られながら、君主宮殿へと向かう。
(クリュプトンはいる。確かにいる。だから、きっと生きてる……)
根拠などないが、そんな気がする。出会った時のように、またひょっこり現れて僕を驚かすに違いない。
「ほら、エリコ。見て。ポルタパーチェがとても綺麗。ちょっと見ていこうか」
今日は混沌がやけに濃いが、それに相反するようにポルタパーチェの輝きが強い。あれもまた、門を越えていった者たちの命の輝きなのだろうか。
ポルタパーチェの近くまで来た時、僕は思わず叫んだ。
「ねぇ、ちょっと……馬車止めて!」
馬車から降りた僕は、そこへ向かう。
「エリコ! どうしたの? エリコ! 待って!」
後ろでフェリチタが呼んでいる気がしたが、そんなの関係ない。
確かにいた。「飛び立つ者達の門」の前に、彼は立っている。
「クリュプトン! 生きてた! クリュプトン!」
駆け寄る。今日は何という日だろう。胸の奥深くに熱い何かが染み渡るのを感じる。
僕の声に気づいたクリュプトンは振り返ると、にっこりと微笑んだ。
――旅を……。
手を差し延ばす。僕はそれを掴む。
「また、旅をするの? 何処へ? 何処へ行こうか、クリュプトン?」
門が開く。外の世界は光に包まれていた。明るい。これは、命の光だ。眩しい。僕はクリュプトンとともに、この中に飛び込んで行くのだ。
足を踏み出そうとした途端、腰に重みを感じた。何かが僕にしがみついている。
「いない! クリュプトンなんて人、最初からいなかった! いたのはただの静かな白犬。エリコ! あなたが、あまりにも見ていられなかったから……アルフォンソには……! お願い! 帰ってきて、エリコ!」
フェリチタは寂しがり屋だ。このまま放っておけない気もするが、彼女はひとりではない。クリュプトンには、僕以外にいない。
「どうして……どうしてエリコなの? どうしてわたくしじゃないの? わたくしだって狂ってしまいたい! だって、ポルタパーチェの向こうにリータはいないのに! 帰ってきて、エリコぉ! お願いだから! わたくしをひとりにしないで!」
振り返る。彼女に別れを告げなければ。何だ。フェリチタはいい子じゃないか。
「さよなら、フェリチタ」
優しく彼女の手を振り解こうとした瞬間、熱っぽい何かが胸下を通り過ぎた。
「ーーッ?」
急に足元が覚束なくなる。足先が痺れて立っていられない。おかしい。腹の辺りが焼けた石を孕んだみたいに熱い。
膝をつく。腹を弄ると、温かい何かが手を濡らした。
赤い。何だろう。今度は足先が寒い。混沌が降りてきたのだろうか。
誰か、いる。
ひとりやふたりではない。大量にいる。滅びたはずの街に似つかわしくない生者の気配がある。
不自然な静寂。フェリチタが息を呑む音が聞こえてくる。
彼女の視線の先には、自動弓を構えた兵がいた。
見慣れない鎧だ。ルーナのものより冑が大きい。
「モニカ……。嘘……どうして?」
驚愕と恐怖で身を震わせながら、辛うじて捻り出した声が聞こえた。
(モニカ……?)
何故、モニカ兵がここにいるのだろう。いや、何故無事でいられるのだろう。混沌が吹き荒れる廃墟で。
ふと、ニッチの言葉を思い出す。
ーーいずれ、誰もがルーナを守るものが何もないことに気付くでしょう。
ああ、彼が言っていたのはこれなのかーーと、得心が行った。ついにモニカがルーナに攻め入ったのだ。しかも守備の薄い天使の街側からという徹底ぶりだ。
「何だ。何が飛び出してくるかと思ったら餓鬼か」
「誰でも良い。こじ開ける手間が省けた」
誰かの声が聞こえてくるのだが、よく見えない。頭の後ろ側が寒気で凍りそうだ。
「もう一人は貴族の子か? どうする」
「騒がれてもつまらん。殺せ」
「了解」
聞こえているのに、中々頭で理解できない。でも、フェリチタが危ないのはわかった。
いくつもの足音が近づいてくる。それも、夥しい数だ。話し声が聞こえたのはほんの一部。彼らのほとんどは寡黙に任務を遂行しようとしている。
「フェリ……チタ、逃げて」
良かった。どうにか声を捻り出せた。だというのに、フェリチタは僕を抱くように座り込むと、着ていた外套をくしゃくしゃにして僕の腹に当てた。自分の顔を同じくらいくしゃくしゃにしながら静かに泣いていた。
「ああ……。ああぁ……エリコぉ……。止まらない。血が、血が止まらないよぉ……」
なんて馬鹿な子だろう。フェリチタには、自分の命の危機が見えていないのだろうか。彼女の護衛は何をしているのだろう。それに今すぐプリンチペ・フォルトゥナートにモニカの侵攻を伝えないと、ルーナが劫掠の憂き目に遭う。
不意に、自動弓が構えられるのを感じた。何の音もしないのに、それを感じ取った。
仄かに怒りが立った。火の粉が頬を掠める程度に仄かな熱。
こいつらはフェリチタに矢を向けている。あの、虫一匹殺せない、優しいフェリチタに。
(クリュプトン、どこにいるの?)
呼びかけようにも、腹から何かが抜け出てしまい、声にならない。
クリュプトンはそこにいるはずだ。彼ならきっと僕とフェリチタを守るように、敵に向かって立ちはだかっているはずだ。
寒い。
混沌が足元まで降りてきている。
ーーごぉふ、ごぉふ……。
唸り声。どこかで聞いたことのあるーー
ーーうわぁッーー!
金切り声のような何かが聞こえた。
ーー助けて! 助け……!
ーー隊長! あいつ長槍が通ら……うわッ……逃げッ!
ーー何だ、あれは。聞いてないぞ、あの巨きさは! ぎゃッ!?
雄々しい犬の吠え声と、子犬が騒ぐような金切り声。それらが次第に混ざり合って聞き取れる声も少なくなる。
フェリチタの無事を確かめようと、首を動かす。彼女は僕の腹に丸めた外套を押し付けながら、一点を見上げていた。
フェリチタは、まるで怯えた子犬のような目で、それを見ていた。いや、視線が少しずつ上ずれる。何だろう。かなり巨きい。彼女は何を見ているのだろう。
ーーごぉふ、ごぉふ……。
何かの唸り声と、誰かの叫び声が互い違いに聞こえるたび、フェリチタは身を震わせる。顔が恐怖で引き攣っている。
眠い。
瞼が鉛のように重い。急に景色が眩んだと思ったら、目を閉じていたようで、フェリチタに頬を叩かれる。
「エリコ……待って! 駄目よ! 眠っては駄目!」
駄目だ。眠い。
それに寒い。額に熱い何かが落ちてくる。
風が吹いた。混沌の濃い、生暖かくじめじめした、頬に張り付くような風。
ふと、全身の重さが消え、身体が羽根のように軽くなる。まるで吹き荒ぶ混沌に攫われるように身体が浮いた。
誰かに背負われているのに気づくまで少しかかった。
(ああ、そこにいたんだ。クリュプトン!)
身体が大きく揺られる。絶叫と唸り声は未だに耳元から聞こえる。クリュプトンは僕を背負って何処へ行こうというのだろう。
いや、何処だっていい。
クリュプトンと一緒なら、何処へだって行けるはずだ。
暖かい。広い背に顔を埋める。
遠くから、誰かの声が聞こえる。
「逝かないで、エリコ!……逝かないで! わたくしを置いて逝かないで!?」
フェリチタかな。やっぱりまだ寒い。声が遠い。もうあまり聞こえなくなってきた。彼女は門の向こうに逃げただろうか。
ああ、暖かい。
ねぇ、クリュプトン。何処へ行こうか。
でもその前に、少しだけ眠らせて欲しい。さっきから眠気が酷いんだ。
少しだけ……。
少しだけだから…………。
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………………。
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………………………………………………………………ん?
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……………………………………何?
ふと、クリュプトンが振り向く。
(ダメだよ、クリュプトン。フェリチタは連れていけないよ)
耳元で心底残念そうな吐息が漏れ出るとともに、どこかで門の閉じる音を微かに聞いた。
「プリンチペ・エ・プリンチペ」了




