最終話「行ってしまわれるのですか?」(3)
しばらく経った。また、教会に戻ってきた。経営難なのかどうか知らないが、仕立て屋エミリアからは解雇されてしまった。
「頑張れよぉ、エリコ。いつか帰ってこいよぉ」
人をクビにしておいて涙ぐむ店主にはかなりむかついたが、僕も今は働くほどの元気が見当たらないので、ちょうどよかった。
最近、道を歩いていると、よく人に「大丈夫?」などと声をかけられる。そんなにひどい顔をしているのかと、何度も鏡を覗く。
クリュプトンの遺体は、まだ見つかっていない。ヴィルトやカタリーナ様の遺体は見つかったのに、彼のだけが見つからないのは不思議だ。
「生きてるんじゃないかってさ。思っちゃうよね」
ピオに言うと、彼は「そうだね」と短く答える。やけに疲れているように見えるのは、酒屋の仕事がそんなに辛いのだろうか。
プリンチペ・ヴィルトの死後、すぐさま新たなプリンチペが即位した。元プリンチペ候補者ニッコロの推薦で、フォルトゥナートという名の少年が貴族会議と市民議会の両方の承認を経て、プリンチペとなった。どうもグランデ・マッシモの遺児らしく、カタリーナ御嬢様が匿っていたらしい。貴族というものは何人も隠し子がいるものだと思い知らされた。ニッコロはちゃっかり執政の席に座っていて、あるいは君主競争の本当の勝者は彼かもしれない。
ーールーナの全てをグランデ・マッシモの治世に戻す。
街の大多数の支持を得たフォルトゥナートの公約がこれだという。それなら君主競争とはいったい何だったのだろう。一度壊れて元通りになるものなど、この世にはひとつとして無いというのに。
そんなプリンチペ・フォルトゥナートの招待状を受け取った時には、何かの間違いではないかと思った。何度も使者に問いただしたが、間違いないの一点張りだ。
ちょっとした意地悪を思いついた。新しいプリンチペに向かって、ポルタパーチェのことを訊いてやろう。どう反応するか見物だ。
* * *
天使通りまで来るのはいつ以来だろう。とはいえ、あまりいい思い出が浮かばないので、僕は馬車の外を眺めるのをやめた。
君主宮殿は随分と元通りになっていた。屋敷に通され、夥しい数の給仕が列を作り、僕はその間を歩いた。やけに広い部屋に通された時、僕は思わず、あっと声を上げた。
「フェリチタ!」
青色をベースにした金縁のベストを羽織り、以前、僕に見せたような冑頭のままのフェリチタが、一段高い席に座って僕を見下ろしていた。彼女はすぐさま立ち上がり、僕に駆け寄ろうとするが、傍に控えていた一人の男がそれを遮る。
「平民に対してそのような振る舞いをなされては――」
「いいではないか、ニッコロ。エリコは私の友人だ」
「たとい友人であってもです。そのような軽挙が、指輪の家系のネチェンタのような過ちにつながるのです。あれがどれほどの災厄を招き、一族に何をもたらしたかはご存知でしょう?」
「ニッコロ!」
フェリチタとは思えない強い声で、彼女は逆にニッコロを叱りつける。ニッコロは何かまずいことでも口走ったかのように、口を手で覆った。
「これは……失礼」
「別に隠さなくてもいいよ。知ってるもの」
「エリコ?」
フェリチタの声が震える。どうやら彼女も知っているらしい。フェリックス様が知っているくらいだから、別におかしくはない。
「天使の街はもうない。この目で見たもの。ネチェンタ坊やが遊びで造った指輪で毒王をおびき寄せちゃったんだ。それでヴァレンティーナだけが生き残った」
あてずっぽうもいいところだ。聞きかじりの知識をつなげただけ。だが、ニッコロの顔面が蒼白になったのを見ると、あながちハズレでもないらしい。
「ねぇ、フェリチタ。プリンチペ・フォルトゥナートに会わせてよ。子供なのにプリンチペになるなんて、可哀想じゃないか。ちょっと遊んであげるから、顔を見せろって言ってやってよ」
フェリチタは面食らったように僕をまじまじと見ていたが、突然笑い出した。
「ええ、ええ、エリコ。彼、君のことを呼んだくせに顔も見せないね」
「そう。頭を小突かれたくなかったらすぐに出て来いって言ってやってよ」
「そうだね。でも生憎プリンチペは留守なんだ。代わりに私の遊び相手になって欲しいんだけど、しばらくこっちに泊まっていってよ」
「何だ、フェリチタ。まるで男みたいな喋り方じゃないか。駄目だよ。そんな風にしてると、僕みたいに男女って言われちゃうぞ」
「ええ、ええ……それは大変!」
フェリチタは、何故か嬉しそうだ。涙が出るくらいだから、よほど退屈だったのだろう。
* * *
久方ぶりに豪華な昼食を楽しんだ後、僕は給仕に紛れて仕事をするニッチを見つけた。彼が一人で庭に出たところを見計らって、声をかけた。
「こんにちは」
「ああ、エリコ様。ご機嫌はいかがですか?」
「実のところ、あまりよくないです」
「それは大変です。何かあればすぐに申し付けてくださいまし」
「じゃあ、訊きますけど、プリンチペって、何ですか?」
簡単な問いをしたはずだった。だが、ニッチはしばらく考え込んでしまった。
「プリンチペの位は力で奪い取るものではありません。ましてや幸運によりもたらされるものでもない。時代がそれを選ぶのです。時代とは、この街のことです。時代が紊乱を選んだ。相応しい者がいるのに、立候補すら許されない。相応しくない者がその座に上りつくために、より大きくあるべき障害が小さく、より長くあるべき道が短くされる。もはやこれは、君主競争ではありません。ただの喜劇です」
「喜劇がつまらないから、指輪を使って犬を放ったんですね」
ニッチの表情が一瞬こわばるのが見えた。
「今、何と?……いえ、ご存知でしたか」
「ビアンカに指輪を差し出した時に気づきました。それにマンマが『坊や』って呼ぶの、ニッチだけなんです」
「左様でしたか。光栄なことです」
ふてぶてしい。だが、何かを諦めているようでもある。
「ではエリコ様、街の者達に教えますか? それもよろしいでしょう。私は破滅します。ですが、民衆の怒りは君主宮殿にも向けられます。不可避の怒りです。よろしいのなら、どうぞそうなさいませ」
「いいえ、誰にも言いません。フェリチタには悪いことをしましたから――」
もう二度とあんな狂った騒ぎを焚き付けるつもりはない。そのために何人が死んだか、数えるのも恐ろしい。
「その代わり、プリンチペ・フォルトゥナートに一筆書いてもらうことにします」
ニッチの目が見開く。だが、何故かそれもすぐに穏やかな光を灯し始める。
「かまいません。どれにせよ、私の仕事は終わりましたから……。それに、この街もどうせ先が長くありません」
「ルーナもリディアみたいに滅ぶというんですか?」
「……天使の街が滅んでから、ルーナの国力は半減しました。実力でモニカやリディアに劣るルーナが、決して友好を一貫しなかった彼らから街を守り抜けた理由は何だと思いますか?」
どこか、遠くをみている。まるで過去のルーナの景色を見ようと試みているようだ。
僕の返答など期待していなかったようで、ニッチは話を続ける。
「毒王ですよ、エリコ様。ルーナを何度も滅亡の淵に立たせた怪物。ルーナの存立は、毒王からの防衛が必須というのは誰でも知っていることです。ですが、毒王が災厄をもたらすのは何もルーナに対してだけではありません。ルーナ近辺を毒王が徘徊している事実が、モニカのような貪欲な街の魔の手から我々を遠ざけていたのです」
「毒王がルーナを守っていた……?」
「結果的にそうなっていたというだけのことです。私の知る限り、それを正しく理解していたのはグランデ・マッシモただひとりです。フェリックス様は二重防壁構想を打ち立てられましたが、グランデ・マッシモにとっては毒王が街を守るための第二防壁であったのです。ヴィルトは賢い男でしたが、彼は街の存立のためにあらゆる手段を用いるという発想を待ちませんでした。彼が手段を選ばなかったのは、己の保身に関してのみでしたね」
これが、ニッチにとっての君主競争だったのだろう。彼は剣の家系の没落に巻き込まれずに、ひとりしぶとく生き残り、自らの目的を遂げた。
「ヴィルトが亡くなって以降、毒王は一度も街の周囲で目撃されておりません。今はまだルーナの指導層も楽観しておりますが、モニカはこのような好機を見逃すほど甘い相手ではありませんよ。いずれ、誰もがルーナを守るものが何もないことに気付くでしょう。他ならぬルーナ市民が今の状況を招いたのですから、私のやったことなどほんの些細なことですよ」
邪悪だ。今、初めてこの人の邪悪さを理解した気がする。
「ニッチ、あなたはきっと、自分が正しかったことにしたいだけです。街のことなんて微塵も考えていない。若い頃に取り返しのつかないことをした自分を善い言葉で語りついでくれる人を探しているんです。少しだけ、あなたが可哀想です。あなたは狂えばよかったのに――」
「クリュプトンのように?」
この時初めて、ニッチの目に鋭い光が灯った。
「クリュプトンは狂ってない」
「いえ、狂っています。アンジェラは随分と狂った娘でしたが、あなたも十分におかしい。どこでお知りになったかは存じませんが、まさか君主競争に名乗り出るとは思いませんでした。あなたがリディア行きを言い出したのには本当に驚きました。あまりにも私にとって都合が良かったので、誰かの差金ではないかと疑いました」
首を傾げる。どうにも話が噛み合っていない。
「僕がおかしいのと、クリュプトンがおかしいのとは違うでしょう? それよりも、プリンチペ・フォルトゥナートにクリュプトンをきちんと捜索するように言って下さい。彼、きっとまだ生きてます」
今度はニッチが首を傾げる。
「不思議なことをおっしゃる。クリュプトンなら、今、私の瞳の中におりますが……。ああ、そういえば、あなたがいつも連れ歩いていた、あの全く吠えない、おとなしい白犬はどうされたのです?」
* * *
屋敷内を走り回る。給仕たちの驚きをよそに、僕はニッコロの部屋に飛び込む。
「何だ、騒々しい!」
全く冴えない執政に、クリュプトンを知っているかと尋ねると、
「今、私の前にいるだろう。君主競争を無茶苦茶にした小娘が」
と、ニッチに劣らず意味不明な言葉が返ってきた。
(もしかすると……)
そう思って、今度は馬を駆って君主宮殿を飛び出した。もう随分昔に感じられるが、君主競争の開始が発表された劇場へと向かう。楽屋に忍び込み、舞台裏からクリュプトンの立っていた位置を見る。ちょうど劇が行われていて、近い位置に女優が立っている。観客席に回り込み、かつてクリュプトンが立っていた位置を見る。
見えない。舞台が出っ張っていて、しかも女優が奥まったところに立っていたせいで、下からは見えなかった。角度を変えると今度は舞台裏のカーテンが邪魔で女優より後が見えない。
(あの時、皆には見えてなかった。彼らは僕がクリュプトンだと思い込んでた?)
どうりで、プリンチペ候補者のクリュプトンが相手にされないはずだ。
(いや、違う。舞台にいた人からは見えていた。あの時壇上にいたのは……フェリックス様と、ヴィルトと……ニッコロは引きずり降ろされてたから、あとはグランデ・マッシモ)
唇を噛む。皆、この世の人ではない。クリュプトンと会話をした記憶のある人は、アンジェラも、じじいも皆、生きてはいない。街の人の誰に話しかけても、記憶に残っている人などいない。二度にわたる毒王騒動の時も、その混乱の大きさからか、人々の記憶自体が錯綜していて、とても信用できなかった。
「クリュプトンはいない? そんなの絶対におかしい! だって、僕は彼と一緒にいたし、リディアへも……あっ!」
思い出すと同時に、また馬にまたがる。
「アルフォンソだ!」
東区へ走り、商人アルフォンソを訪ねる。既にアルフォンソの謹慎は解けており、久しぶりの挨拶を交わす。
「エリコ、お前ニッチと親しいみたいだけど、あいつには気をつけろよ。どうやら親父と組んでリディアで何か商売しようとしていたらしい。親父に聞いても答えてくれないが、お前の名前を出すと途端に機嫌が悪くなる。『上手いように使われた』ってな。何か変わったことがあったら俺に……」
「ごめん、ニッチなんかどうでもいいから、僕の話を聞いてよ。クリュプトンのこと覚えてる?」
話を遮って、クリュプトンについて訊く。彼は、右手に持った金貨をチャリチャリ鳴らしながら、一瞬だけ何か苦いものを噛んだような顔をした。
「僕を置いて行った奴だろ? 確かに知ってるよ」
何を根に持っているのか知らないが、毒づく彼の返答は僕の期待を裏切らなかった。
「どんな人だった?」
「どんなってお前……あ、いや、そうか――」
「銀の髪をしてた? 背が高かった? 銀のコートは? 喉に傷があった?」
「あ、ああ、そんな感じだったよ。うん、そんな感じ」
やった。ニッチの嘘つきめ。あのじじい、僕に言いくるめられたのが悔しくて嫌がらせをしたに違いない。
「エリコ」
外に出ると誰かに呼び止められた。フェリチタが馬車の窓から顔を出している。先ほどからずっと停まっていたように見えたが、アルフォンソの家に何かの用だろうか。
「帰ろう」
フェリチタの一声で、馭者が馬車から降り、僕に乗車を促す。
わざわざ迎えに来てくれたのだ。彼女は髪を切ってから随分いい子になった気がする。
「またね、アルフォンソ。ありがとね」
「ああ、きちんと治すんだぞ」
不思議なことを言う。僕が怪我をしているように見えるのだろうか。




