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最終話「行ってしまわれるのですか?」(2)

「エリコぉ! フェッランド様んとこのベストどうなってる?」


 店主の大声が店内に響く。


「あ、はい! 今持ってきます」


 クローゼットをかき回して注文の品を探し出す。

 あれから半年が経った。ルーナはいつになく激しく決着した君主競争の混乱を、もう引きずってはいなかった。その間、僕はひたすら働き続けた。そうしなければ、気が狂ってしまいそうだった。何かをしていないと、思い出してしまうのだ。

 ピオとは、あれ以来一度も会っていない。ヴィルトはなおさらだ。

 最近になって、プリンチペ・ヴィルトの治政を疑問視する声が出始めた。一か月ほど前に、毒王討伐に出向いた部隊が音信不通となった。モニカとの外交も上手くいっていないという話も聞く。討伐隊は毒王ではなくモニカ軍と交戦したという噂もある。

 それからの彼は思い出したかのようにフェリックス様の打ち出した二重防壁構想を実行しようとしているらしかった。そのせいで税金が倍になり、市民は喘いでいる。仕事のある僕なんかは、まだマシな方だった。

 ひとつ、大きな出来事があった。マンマが亡くなったのだ。これまでの元気が嘘のような、突然の終わりだった。ヤブ医者は腎不全だとか抜かしていたが、誰もが老衰だと思っていた。

 マンマの葬儀に出席するため、生まれて初めて就いた仕事を休んだ。葬儀で初めてマンマの本名を知った。

 涙は出なかった。代わりに、一緒にマンマの世話をしていたことのあるアンジェラのことを思い出し、足が震えた。

 忘れる。何もかも忘れる。そう誓ったはずなのに、僕の手にはまだ、あの指輪があった。


「エリコ、もう上がっていいぞ」


 二階から店長が顔を見せる。


「えっ、でもまだ昼にもなってませんよ?」

「何言ってるんだ。今日はイルフィエロとカタリーナ様の結婚式じゃないか。こんな日に働くのは神父くらいなもんだ」



            * * *



 気乗りはしないが、他にやることもない。僕はクリュプトンを誘いに教会に向かった。今は彼以外に話し相手が見つからない。

 じじいの後任で入った神父は、教会に住み着いたクリュプトンをどう思っているのかわからないが、特に問題があるようには思えなかった。彼ときたら気配を消す達人だから、じじいよりも歳を食った神父だと、一緒に生活していることに気づかないこともあり得る。


――お待ちしておりました。お嬢様。


 久々に会ったクリュプトンは、随分と丁寧にお辞儀をして僕を喜ばせた。

 教会を出ると、ピオの姿があった。


「あ……その――」


 かける言葉がみつからない。僕が最後に見たピオは、間違いなく殺人者だった。それも騎士カヴァリエーレの呼び名に相応しくない、暗殺者(シカーリオ)としての。


「行こうぜ」


 ピオは、何も話してはくれなかった。恐らくだが、彼はあれが初仕事ではなかったのだろう。以前リータの仕業とされていた暗殺事件も、ピオが手を下していたのではないか。というのも、ヴィルトの評判が落ちてきてから囁かれた噂の一つに、暗殺事件の被害者がフェリックス派の残党か、反ヴィルト色の強い者たちばかりだというものがあったからだ。


「あの人の命令?」


 何の脈絡もなく、言ってみた。誰とは言わなかった。言っても答えてはくれないだろう。

 ピオは無言で頷いた後、もう話してくれるなと言わんばかりに、僕をじろりと睨んだ。


「ピオ、僕さ、最近考えることがあるんだ。人を強く動かすものは何なんだろうって」


 答えず、歩き続ける。僕が遅れないように歩速を合わせているのは、続きを促しているのだろう。


「それはね、誰かに『あなたは正しい(セイ・ネル・ジュスト)』と言ってもらうことなんだ」


 ピオはおそらく、罪の意識に苛まれている。僕を見逃した(・・・・)時の彼の声色からは、友を救おうという気概よりも、迷いを強く感じた。あの時のピオの判断は正しい。だから、生真面目なピオらしく忠誠心(・・・)との間であの時のことを思い悩む必要はないのだと。


「違うよ、エリコ。多分違う(・・・・)。その先にあるのは紊乱(カオス)だけだ」


 不意に、歩みが止まる。思わずピオにぶつかりそうになる。心なしか、少し背が伸びたように見える。

 淡い拒絶。息を合わせたように沈黙したのは、互いにそれを感じ取ったためだろう。

 再び歩き出そうとしたピオが、まるで磔にされたように不自然に止まった。


「ピオ……?」


 ピオの視線の先、ルーナで最も華やかな花園教会。その路上にルーナの街から忘れ去られた少女がいた。



            * * *



 結婚式は、貴族御用達の花園教会で行われる。教会の少し手前の路地に人だかりができている。もう、式が終わってヴィルトとカタリーナ様が教会から出るところなのだろうかと思ったが、どうやら違った。僕は最初、それが誰だかわからなかった。

 髪を振り乱し、ぼろぼろの服を着たままで、ふらふらと幽霊のように歩く。誰も声をかけようとしない。恐れと憐みがないまぜになった眼差しで彼女を見つめるだけだ。


「ビア……ンカ?」


 彼女の正面に立つまで、それに気づかなかった。


「あらぁ、エリコぉ? どうしたのぉ? お祝いを言いに来てくれたのぉ?」


 視線は虚ろ、声も何処か呆けていて、落ち着かないように体を震わせている。髪は墨で染めた部分がまだ残っており、豹変というにはあまりにも変わり過ぎた彼女は、いつか夢に見た化け物にも似ていた。


「うふふ、今日は特別な日だから、いっぱいおめかししてきたのぉ。だって、フェリックス様ったら、ついに私にプロポーズして下さったのよ」


 幻想。ビアンカには、もうそれしかなかったのだろう。彼女の一語一語に、胸が張り裂けそうになる。半年間も彼女を放置した罪を責めているようにも聞こえた。

 ビアンカは教会に向かって歩き続ける。


「ビアンカ……何処に行くの?」

「うふふふふ……フェリックス様のとーこー!」


 小躍りしながら教会に駆けてゆく彼女を、僕たちは追った。止めようなどとは、誰も言わなかった。あまりにも哀れで、あまりにも痛々しくて、誰も手を触れたがらなかった。

 教会の奥では、たった今プリンチペ・ヴィルトとカタリーナ様が指輪を交換したばかりだった。そこに、ビアンカが踏み入った。


「あら、ヴィルト。御機嫌よう」

「ビアンカ?」


 ヴィルトもまた、妹の豹変に頭がついていかないようだった。


「ねぇ、ヴィルト。フェリックス様は何処かしら? もうすぐ式の時間なのに、何処にもいらっしゃらないの。馭者のヴィルトなら知っているでしょう? フェリックス様は何処?」

「ビアンカ……フェリックス様は――」

「あら、その指輪、フェリックス様のものじゃない? 駄目よ。妹を取られたからって、そんないじわるしないで。きっとフェリックス様は指輪を探してらっしゃるのよ」


 ずかずかと、ヴィルトに歩み寄る。隣では恐怖か怒りか、カタリーナ様が顔をひきつらせていた。ヴィルトが一瞬、近侍の方を向いた。すかさず彼らはビアンカを取り押さえる。


「やめて! いじわるしないで! フェリックス様は何処? 花嫁に乱暴するなんて! フェリックス様ぁ! 助けて! フェリック――」


 泣き喚くビアンカの声が突然、止まる。普段からして体の弱い彼女のことだ。ヴィルトが案じて駆け寄る。


「エッ! エッ! ゲホッ……エッ!」


 激しく咳き込む。吸気が間に合わず、顔が紅潮する。


――ごぉふ……ごぉふ……。


 ふと、唸るような音が教会の中に響く。


「何だ?」


 明らかな異常を察知したピオが身構える。


子犬(クッチョロ)……?)


 以前、マンマの家に行った時に見かけた黒い子犬だ。ビアンカが飼うと言っていたが、その後は見ていない。

 いない。唸り声だけが聞こえるのに、子犬の姿が見えない。

 気づいた。同時に粟立った。

 猛獣のような低く大きい唸り声は、ビアンカの口から聞こえていた。そして僕は、この唸り声に聞き覚えがあった。

 ヴィルトの身を守るために、彼に駆け寄ろうとするピオの手を掴む。


「エリコ、放せ!」


 知っている。僕はこの音を知っている。恐怖と共に焼付いた記憶。華やかな教会に最も相応しくない死の旋律。

 瞬間、建物を突き抜けるように、全ての扉と窓から混沌が入り込み、吹き荒んだ。


「毒王だぁぁ――!」


 誰かの叫びと同時に、混沌がビアンカを包み込み巨大な影へと姿を変えた。それは大きくうねりながら、次第に大犬を形作った。以前、市壁で出会した毒王に似ていた。

 次の瞬間にはそれはヴィルトの頭を噛みちぎっていた。

 教会の中が、一瞬で恐怖と絶叫に彩られた。ビアンカを飲み込んだ混沌はヴィルトを喰らった後、すぐさま恐怖で立ちすくむカタリーナ御嬢様に齧りついた。それを傍目に見ながら、僕はピオの手を取って教会の外へと飛び出した。


ーーあら、ダメよ。悪い(カーネ)は連れてきちゃダメ。悪い犬は人を食べてその人に化けるの。


 不意に、マンマの話を思い出した。



            * * *



 毒王は花園教会を完全に破壊した。多くの貴族や市民がその犠牲となった後で、教会の外でプリンチペ警護の任に就いていた毒王討伐隊が出動する。


「放せ、エリコ! 僕が戦う!」


 ピオは僕の手を振りほどき、ラクリマの長剣を片手に毒王に斬りかかる。彼ほど勇敢な人間を僕は知らない。そして、プリンチペ・ヴィルト創設の毒王討伐隊もまた、勇気の量ではピオに劣らなかった。

 だが、粉砕。毒王の膂力の前に、赤子のように蹴散らされる。

 毒王討伐隊の崩壊を見て、人々はパニックに陥った。四方八方に逃げ散り、毒王は逃げ惑う蟻を潰すように、気の向くままに人を喰らった。


「嫌ぁぁ! あなた! あなたぁ!」


 女の叫び声に混じって、あらゆる断末魔が混沌を裂いて空に散った。

 僕は、呆然とそれを見ていた。誰も、僕を助けようなどとは思わなかった。誰もが必死に逃げた。入り組んだ路地であるせいか、それでも毒王の獲物は減らなかった。中には壁に激突したまま、押し寄せる人々に圧され、踏みつけられたまま残された死体もあった。

 ひとりだけ、僕の前に留まる者があった。そう――


「クリュプトン……」


 いつも、本当の危機にはこの人がいた。誰に裏切られても、誰も信じられなくなっても、クリュプトンだけは最後まで僕の味方だ。そうでなければ、今の僕に存在価値などない。

 だが、今回ばかりは相手が悪い。今になって確信したことだが、君主競争の時にピオが倒した「串刺し(イル・トラフィット)」は、明らかに瀕死だった。何があったかはわからないが、ヴィルトによる毒王討伐隊の最初の獲物は弱りきった敵だったのだ。それが、傲慢を生んだ。人の手で毒王を殺せるという傲慢を。


毒王(レ・ヴェレーノ)


 何という呼び名だろう。この世の呪いを全て詰め込んだような忌まわしき名だ。その名を誰もが叫び狂っている。

 クリュプトンが毒王に対して何か出来るか。そんな期待はしていない。彼も僕も、逃げるしかないだろう。だから、僕は彼が僕の手を取るのを待っていた。このままルーナが滅んでも、彼とともにいれば必ず生還できる気がした。

 そのクリュプトンが、あろうことか毒王に突進したのだ。


「何を……!」


 声をかける間もなく、クリュプトンは巨大な犬の形をした黒い影に飲み込まれた。


「あ……あ……」


 死んだ。

 クリュプトンが。

 三度も毒王との戦いから生還した男が、こんなにもあっけなく。涙は出てこなかった。眼前の状況が、次は僕の番だということを告げていた。

 五体が弾けた。そう錯覚するほどの衝撃と共に、僕は突進して来た毒王によって自分が宙に跳ね飛ばされたことを知る。


「――ッ!」


 地面に叩きつけられた時の痛みは、想像を絶するものだった。叫びたいのに声も出ない。うずくまり、死を覚悟する。わずかに目を見開くと、巨大なあぎとが全ての景色を隠した。


――フェリックス様……。


 微かに聞こえた。確かにビアンカの声だった。


――そこにいらっしゃるの?


 毒王は、何故か僕を喰らうことをせず、じっと何かを待っているようだった。奇妙な感覚にとらわれた。これは、毒王なのか、それともビアンカなのかと。


「……ッ!」


 体がようやく呼吸を思い出すと共に、僕は、ポケットからあれ(・・)を取り出し、毒王に向かって差し出した。まるで子犬(クッチョロ)のようにスンスンと鼻を鳴らし、毒王は僕の掌を何度も嗅いだ。「剣の中の剣スパーダ・ネラ・スパーダ」が刻まれた、銀の婚約指輪を。


――ああ、フェリックス様。そこにいらしたのですね。


 ビアンカの声が微かに聞こえた瞬間、また、混沌が吹き荒れた。全ての生命を奪い、ラクリマへと変える死の風。ちりちりと肌を打つそれがやんだ時、眼前の怪異を、ありったけの長槍(ピッカ)が貫いた。


「ああ、ビアンカ……。これでお別れなのエ・イル・ノストロ・アッディーオ? ごめんなさい。ごめんなさい、ビアンカ……」


 不意に声に出た言葉は、生温く冷えた(ヴェント)に攫われて消えた。



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