最終話「行ってしまわれるのですか?」(1)
僕はビアンカの家を訪ねた。何を言えばいいのだろう。詫びて済むのだろうか。何をして彼女に償うべきなのだろう。指輪を差し出した時のビアンカの顔は、信じられないくらいに穏やかで、殺されることも覚悟していた僕の心に、百の剣となって突き刺さった。
「まあ、フェリックス様ったら、ご自身で約束されたことなのに、我慢できなかったのね。ねぇ、エリコ。私の代わりに、フェリックス様にお礼を言って頂戴な」
「お礼って……ビアンカ?」
ビアンカの顔を覗きこむ。彼女は冗談を言っているように見えない。
(ああ……そんな! ビアンカが……ビアンカが!)
壊れた。ビアンカが壊れた。そう思いかけた時――
「ねぇ、エリコ。死んでよ? 死んで、フェリックス様にお伝えして頂戴?」
光のない眼が僕を覗きこんでいた。
「ねぇ、死んで? エリコ、死んでよ」
ビアンカの顔がみるみる巨大になり、僕を覆い尽くす。僕は咄嗟に机の上に置いてあった小さなナイフを手に取る。
「ねぇ、エリコ? それで私も殺すの? 知ってるわ。あの御方もあなたが殺したんでしょう?」
これは、誰だ。ビアンカの顔は、こんなに歪んではいない。飲み込まれる。ビアンカが巨大な怪物となって、僕を飲み込む。
「やめてよ、ビアンカ。そんなの……どうしようも――ねぇ、あの子犬はどうしたの? 可愛らしい黒い子犬がいたでしょ?」
ビアンカの口が、信じられないくらい深く割ける。
「ああ、あの子犬ちゃんなら、食べちゃった。だって、お腹が空いてたんだもの。ねぇ、エリコ、あなたも食べていい?」
飲み込まれる。蛇に睨まれた蛙のように、僕は指先ひとつ動かせない。
* * *
「うわぁっ!」
衝撃。自分がベッドから転げ落ちたことに気づくまで、しばらく呆然としていた。
(夢か……)
懼夢だ。それも最悪な。汗でべたつくシャツが気持ち悪くて、寒気すらする。
食事をとる。誰もいない。僕一人だ。クリュプトンは昨日からどこかへ行ったままだ。
ニッチから渡された指輪を見る。これをビアンカに渡さねばならない。だが、その勇気は今の僕にはない。フェリックス様の死を伝えることはできたのに、彼の愛の証をビアンカに渡すことができない。
街に出る。何処へ行くでもない。ただふらつく。誰かに話しかけて欲しいわけでもない。ひとりでいたい。
予感がする。嫌な予感だ。この街はまだ、旅を終えていない。リディアの怨念、フェリックス様の怨念、それらが街全体を包んでいる。くすぶっている。
あてどなく歩き回るうちに、東区の方に迷い込んでいた。西区と同じようにそこかしこにプリンチペ・ヴィルトを応援する垂れ幕がかかっている。
踵を返して教会に戻ろうとしたところで、アンジェラの姿を見かけた。
(指輪……)
リータが死んだ日、僕はアンジェラに会うはずだった。そこで問いただすはずだった。あの、金の指輪の意味を。君主宮殿で給仕をやっているアンジェラが何故、こんな場所にいるのかはわからない。どうせ下っ端だから小間使いか何かだろう。
彼女を追って裏路地に入る。この辺りは人気も少なく、治安もあまりよろしくない。そんな場所に何の用だろうか。
「しまった……」
三度ほど道を曲がったところで、アンジェラを見失った。と、その時――
「私に何の用かしら?」
後ろからアンジェラの声がした。僕が微動だにできなかったのは、背中に何か鋭利なものを突きつけられていたからだ。
「あら、エリコじゃない……」
あるいは期待外れだったような声と共に、僕は解放された。
「物騒なものを持ち歩いてるんだね……」
「ああ、これ? 使いようによってはねぇ」
そう言って、アンジェラは右手にもったフォークを見せびらかした。僕はこれをナイフか何かと勘違いしたわけだが、むしろ彼女がフォークを持ち歩いている理由を知りたい。
「で、エリコはどうして私を尾行なさってたの?」
「それは……」
「フェリックス様のこと?」
無言で頷く。どうやら彼女にも自覚はあるらしい。
「アンジェラ、あの指輪は何処にやった?」
今の彼女の左手には、金の指輪は見当たらない。
「ああ、あれ? もう売っちゃいましたわ」
「もういらないから? フェリックス様は死んだから? 用済みってこと?」
「何を言ってますの?」
「アンジェラ、これ――」
僕は懐から指輪を取り出す。フェリックス様がビアンカに贈るはずだった婚約指輪を。
「アンジェラが持ってたのは、婚約指輪じゃない。贋物だ」
途端に、アンジェラが白けたような顔になる。
「そんなもの、見せつけて何のつもりですの?」
「何のつもりもどうもない。アンジェラのついた嘘を暴きに来たんだ」
「嘘? 暴く? 何の話?」
往生際が悪い。僕は今にも彼女に跳びかかろうとする自分を必死に抑えた。だが、次に彼女が何か気に障るようなことを言えば、彼女の自慢の顔を痣だらけにしてやる。
「ああ、そういうこと――」
アンジェラが勝手に納得しだす。ついてゆけない僕は、唸るように説明を促す。
「エリコ、あなた勘違いをしているわ。あの指輪は確かにフェリックス様から頂いたもの。でも、婚約指輪ではなくってよ。だってあれ、失敗作だもの」
「失敗?」
「今思えば、フェリックス様は最初金の指輪を造るように命じられたのね。でも途中で気が変わってしまった。わかりますわぁ。ビアンカみたいなみみっちい小娘には、黄金の優雅な輝きは似合いませんもの。こぢんまりとした銀の指輪が丁度いいですわ」
「どういうこと?」
「ニッチ、いますでしょう? あの方、どうやら代々指輪細工の家系らしくて、婚約指輪はニッチがこしらえたものなんですのよ。でも金の指輪はフェリックス様のお気に召さなかった。私はその現場に居合わせたの。勿論、婚約指輪だなんて知らなかったわ。でも、あまりに美しい指輪だったから、廃棄するのももったいないでしょう? だから、おねだりしてみたの。売ったらお金になるかも知れないし、何よりフェリックス様とお近づきになれるじゃない」
僕は、彼女の言葉に嘘がないことを、何故か感じ取っていた。厚顔無恥のアンジェラがあまりにも生々しく思い浮かんでしまったからだ。
「フェリックス様は、それをお許しになったの?」
「いいえ。でも、ニッチが説得して下さったのよ。あの御老人はとても紳士的。いつも私に優しくして下さるの。あの時も長広舌をふるってフェリックス様を言いくるめてしまったわ。それで、私は指輪を手にしたというわけ」
呆れ、怒り、悲しみ、虚無感――全てが同時に僕の心を支配した。この女は、なんという、つまらないことをしてくれたのだろう。アンジェラの恐れ知らずが、全ての誤解を生み、僕はそれをよく確認もしないままに突っ走って街を巻き込んだ。
アンジェラの目を見る。違和感――この女は、こんなにも間抜けだっただろうか。我に返る。アンジェラは僕を騙した。指輪を見せびらかして、フェリックスと愛人関係にあるかのように装おうとした。
「でも、ビアンカからフェリックス様を奪おうとした。フェリックス様を誘惑し、ヴィルトにだって近づいた」
「当然でしてよ。だって、私はヴァレンティーナの血統ですもの」
「血統があるからって何なのさ。アンジェラは一体何がしたいの?」
アンジェラは、大げさにくるりと回ってみせた。まるで自分を見せびらかすように。
「エリコ、マンマって一体何者なのかしら?」
「没落貴族でしょ?」
「そう。でも、何処の? 私、知っているの。マンマこそ、天使ヴァレンティーナ。そして、その孫トーニはプリンチペの娘と恋をし、一人の女児を得た。二人は政争に巻き込まれて死んだけれど、天使とプリンチペの両方の血統を継ぐ女児は、どうなったと思う? そう、ジュリオ神父に預けられたのよ。十四年前にね」
「アンジェラが教会に来たのは僕の後だって聞いたよ」
「それは、偽装。エリコ、あなたは万が一、私の正体が知れそうになった時のための、生贄なのよ。そして知ってまして? グランデ・マッシモは、薨去なさる少し前に、マンマを屋敷に呼んでおりますの。何故?」
恐らく、僕が初めて君主宮殿の中に入った時だ。あの時はマンマの我儘で僕も宮殿に行く羽目になったのだ。
「これは、ニッチがふと漏らしたことでしてよ。あの御老人を酒に酔わせるのは大変だったのだから、心して聞きなさい。グランデ・マッシモは、本当は次のプリンチペ候補にあたりをつけていた。彼は、フェリックス様に継がせたくはなかった。では誰に? マンマを呼んだのは、知りたかったから。天使と剣の家系の両方の血を継ぐ者を。次のプリンチペに相応しい正当性を兼ね備えた女を!」
「アンジェラは……プリンチペになりたいの?」
一笑に付す。彼女の興味は、どうやらそんなものにはない。
「いいえ、権力なんて、興味はありませんわ。そんなことよりも――ポルタパーチェ!」
アンジェラの目がきらきらと輝きだす。ここでいつもの話に戻るのか――と、僕は呆れるしかなかった。
「私は、ポルタパーチェを潜るのよ。そのためなら何でもしましてよ。愛人を騙って、人を没落させるのも、プリンチペを誘惑して天使に都合をつけさせるのも……」
「天使に……?」
「今でも時々、夢に見ますのよ。ラクリマで輝く荘厳なお屋敷、白い壁、数人の召使、広い庭、わたくしは二階からそれを見下ろす。幸せ……そう、幸せ。あんな幸せな場所、この街にはありませんわ。でもあそこなら、きっとあそこが私の居場所なんですの。もうすぐ夢が叶いますわ。一等地をとって下さるって、約束して下さいましたのよ。当然ですわ。私は上手くやりましたもの。ああ、ポルタパーチェを潜る日が待ち遠しい」
夢だ。これはアンジェラの夢。だが僕は知っている。それが決して叶わないことを。
「それ……誰に聞いたの? 一等地って……誰が、そんな酷い嘘ついたの?」
突然、アンジェラが右手を振り向く。
「アンジェ……」
喋ろうとすると口をふさがれた。
(お行きなさいな。ちょっとヤボ用が出来ちゃいましたわ)
アンジェラは僕を壁に突き飛ばすと、懐から、先ほど手にしていたフォークではなく、本物のナイフを引き抜いて言った。
「あなたでしたのね。最近、私をずっと付け回していたのは。さあ、正体を見せなさい。どうせ、この間ふってや
った男でしょう? ラウロ? ロメオ? それともアレッサンドロかしら? さあ、フードをお脱ぎなさい! この臆病――」
言い終わる前に、右手の通路から飛び出してきた影がアンジェラに激突する。彼女の体が白刃に貫かれる様は、あまりにも鮮明に僕の網膜に焼きついた。
「あ……あ……」
倒れたアンジェラの顔は、驚きの表情のままで固まっていた。
『行ってしまわれるのですか?』
眼前の何者かではない。その背後から、声が聞こえた。もう一人いるということが、走ってその場から逃げ出そうとした僕の動きを封じてしまった。
振り返れば背後にさらに一人いて、僕を狙っているのではないか。そう思うと、恐怖で足が竦んだ。
フードの男が小さく首を動かす。もう一人の彼の言葉に疑問を投げかけるように。
「いや何、僕から彼女にかけてやるに相応しい言葉が何かないかと思ってね」
息を殺す。微動だにしてはいけない。だというのに、事切れたアンジェラと視線は、まるでそこにもう一人いるとでも言わんばかりに僕に釘付けになっている。
「うん? 誰か、そこにいるのか?」
同じ声だ。
知らない。こんな声、僕は知らない。
「いや、猫だ」
フードの男――アンジェラを殺した影は言った。フードの隙間から僕を一瞥したはずなのに。そしてその声も、わずかに漏れ出た眼光も、あまりにも僕の身近な人のものだった。
(ピオ……)
何故、ピオがここにいるのか。考えたくもない。彼は、人を殺した。戦士ならば、それが許される時もあるだろう。だがアンジェラの死に様は、まるで暗殺だった。
「死体は河に捨てるのか?」
とても、ピオのものとは思えない、暗んだ声。
「いや、アバズレが路地裏で振った男に刺されるなんてのは、よくある話だ」
もう一人の声の主は、どうやら去ったようだ。
ピオはフードを深くかぶりなおすと、僕の方を見て、微かに呟いた。
――お前は、何も見ていない。ここにいたのは、猫だ。
何度も頷いた。声をかければ、死ぬ。そう思い、ピオの姿が消えた後、一目散に走った。




