第一話「毒王」(4)
ビアンカはヴィルトの妹だ。以前は教会の隣に住んでいたのだが、ヴィルトがフェリックス様の馭者をするようになってからは、フラヴィオ河沿いに引っ越した。
アリシア通りを西に進み、西フラヴィオ橋を見ると東に曲がって中央通りを進む。すぐに左折して、工業区に入る。川沿いにある工人達の住居の端に、古びれた木造の家がある。
僕は、西区教会より小さいだけでボロさ加減ではいい勝負の扉を叩く。
誰何の声はない。耳をすますと「どうぞ」と、微かに聞こえた。
相変わらず狭い家だ。ヴィルトは君主宮殿に住み込みだから、それほどの広さはいらないにしても、やはり狭い。ピオならきっと贅沢だと言うだろう。教会住みとしては、無駄に広いのも考えものだ。掃除が大変だから。
「ゴメンね、ビアンカ」
まず謝る。するとビアンカは、いつものように身を起こす。彼女に寄ると、優しく抱きついてくる。
「ああ、よかった。無事で……」
心から――心から思う。ビアンカが好きだ。僕はビアンカが大好き。
「へへッ、ちょっと危なかったけどね……」
「誰かが毒王に追われたって聞いて、それがエリコだって言う人がいて、とても怖かった。怖かったわ……」
僕は、ビアンカの頭を撫でてやる。長く艶のあるストロベリーブロンドの髪。フェリチタ御嬢様ほどではないにしても、街の男たちはビアンカに憧れる。
ビアンカの頭を撫でる。いっぱい撫でてやる。アンジェラの黒髪も綺麗だけど、ビアンカの方がずっと綺麗だ。パサパサの僕の髪とは大違い。いい匂いがする。暖かい。掌に乗せる。さらりと流れ落ちる。小さな口、小さな鼻、透き通った蒼い瞳。ドレスを着せたくなる。麻の服はこの子には似合わない。
「大丈夫だよ。僕は大丈夫」
「そう……よかった。本当によかった……」
「それよりダメだよ、ビアンカ。勝手に教会まで来ちゃあ」
「だってエリコが――」
「ダメ、ダメ! 結構歩いたでしょ? だから今日のお散歩はなし」
ビアンカの頬が小さく膨らんだあと、すぐに元に戻った。咳き込んだのだ。
「エッ! エッ!」
痛そうな声。吐き出す空気がなくなっても、肺はまだ彼女をいじめる。
僕は彼女の背をさすってやる。止まらない。薬はもう飲んだ後だろう。さするしかない。
ヴィルトも、こんな空気の悪いところに住み続ける必要もないだろうに。
「エッ! もう…大丈夫よ……。大丈夫……エリコ」
ビアンカが目に涙を溜めながら僕を見上げる。すると――
「ん?」
コツ、コツ――と、二度、ドアが鳴った。
「ヴィルトかしら? ……エッ!」
再びビアンカが咳き込む。代わりに出るように、目で僕に訴える。
扉を開けた瞬間、僕は硬直して動けなかった。
銀のコートを纏った男が、そこにいた。銀の髪がゆらゆらと揺れていた。何故、クリュプトンがここにいるのか。僕は少しムカっ腹が立ってきた。
(君を守るために、僕がどれだけ――!)
唇を噛み締める。この人は毒王に轢かれた時に頭でも打ったんじゃなかろうか。
「エッ……エッ! どうしたの、エリコ?」
ビアンカの声。
「ゴメンよ、ビアンカ。トマソが呼んでるみたいだ。また明日、マンマのお世話が終わったら来るね」
「そう。早く来てね、エリコ……」
ビアンカはわがままなんていう子じゃない。僕を除いては。それが、僕の小さな誇りだ。
* * *
「全く、クリュプトン! 君は何を考えてるんだ! トマソなんかに君のことがバレたら、二人して生きたまま市壁の外に出されて毒王の餌だ。本当に、僕は怒ってるんだぞ!」
裏道を通りながら、クリュプトンを叱り付ける。この人は僕よりずっと大人のはず――二十代の中頃のように見える――なのに、緊張感というものを欠片も感じない。そう思っていた矢先、クリュプトンが突然、歩みを止めた。ちょうど中央通りに入るところだった。
鍛冶屋から鉄を打つ音が響く。
僕は、クリュプトンの視線を追った。
一人の老婆が、おぼつかない足取りで道を行く。すぐ後ろに、一人の男と、一人の女、そして子供が一人続く。
「ああ……」
僕は、もう僕のいうことなど聞かないだろうクリュプトンには何も告げずに、老婆を追った。知ってる顔だ。途中まで見送ってあげよう。
僕は、老婆の前に出ると、幽霊のようにふらふらと歩く彼女に向かって言った。
『行ってしまわれるのですか?』
老母は僕を見ずに答える。
「ええ、ポルタパーチェの向こうへ……」
「母さん! おめでとう、母さん!」
老婆の答えに、彼女の後ろを行く男女が歓喜の声を上げた。だが、やはり決別は寂しいのか、子供だけはわんわんと泣いた。
「おめでとうこざいます……」
そう言って、僕は老婆に道を譲った。
中央通りを最後まで歩き、アリシア通りに行き着いたところで右折し、老婆は橋を渡った。このまま貴族街を通り過ぎ、君主宮殿の先でポルタパーチェを潜るのだ。
橋まで見送った僕の肩を、クリュプトンが優しく叩いた。
「君のいた街ではどうかわからないけど、ルーナではこうやって送るんだ」
クリュプトンは無表情のまま、老婆を見やっていた。だが、その姿が何故か悲しく見えたので、僕は彼の勘違いを正すことにした。
「違うよ。死ぬわけじゃない。天使の街に呼ばれたんだ。幸福の街で、いっぱい贅沢をするんだ。『飛び立つ者達の門』を通ってそこへゆく。残された人にも、天使の街から恵みが与えられる」
僕は、貴族街の向こうにそびえる煌びやかな君主宮殿の、さらに向こうを指差した。
光輝く巨大な門が、街の北端にある。君主宮殿よりも遥かに豊かな暮らしを約束された街。その街に通ずる門――ポルタ・ディ・パーチェ。ほとんどの人は少し短く、ポルタパーチェと呼ぶ。
僕もいつか、ポルタパーチェの向こうに行く。あんな皺くちゃになるまで待たされるのは御免だが。
教会に帰った後、クリュプトンを部屋に入れるのには難儀した。じじいは僕が何かを隠しているのに薄々気付いているらしく、探りを入れてきた。
「また犬を拾ってきたのか」
じじいは僕の部屋に踏み込んでくるようなことはしないが、やれやれ、クリュプトンのために当分は卵をくすねたり、食事を半分に減らしたりしないといけなくなった。
第一話「毒王」了
第二話「プリンチペッシーナは退屈にあらせられる」へ続く