第九話「飛び立つ者達の門」(4)
仕立て屋エミリアでの見習い仕事が始まった。早朝から日没まで働き通しで、終わればベッドで泥のように眠る日々が続いた。それでも辛くはなかった。たまに仕事が早く終われば、教会に顔を出した。
ある夜、教会に戻るとクリュプトンが食卓にいた。
「あれ、じじいは?」
今日は帰ると伝えていたのに、じじいの姿が見えない。
「ねぇ、クリュプトン。じじい知らない?」
クリュプトンはテーブルの上にある書簡を指差した。僕はそれを手に取り、広げる。
――敬虔なる神父ジュリオよ。汝の罪は全て贖われた。飛び立つ者達の門は汝に潜られることを望んでいる。疾く、参られよ。
読み終わるや否や、僕は書簡を投げ捨て、教会の外に飛び出す。アリシア通りを上り、貴族街を突っ切り、天使通りに入ろうとしたところで、ピオと出くわす。
「エリコ! ジュリオ神父が!」
トマソも、ヴィルトの姿さえある。他にも西区の連中が数十人、一団となって一人の老人の後をついてゆく。
「手紙が届いたんだそうだ。お前にも人をやったが、行き違いになったみたいだな。さあ、行ってやんな。家族じゃない俺たちは、ここから先には行けない」
トマソが嫌に冷静に言うのが悲しかった。
「神父も運がいい。あれだけ元気なんだ。天使の街に行っても、長生きするだろうさ」
僕が一歩を踏み出すと、皆が道を譲った。
十歩先には、じじいの姿があった。老体に鞭打って、長い距離を歩き、ポルタパーチェを目指す。じじいに追いついたところで、僕は彼の背に触れた。
「じじい……」
「エリコか?」
何故か、じじいは振り返らない。僕はじじいの手をつかむ。
「帰ろう、じじい。スープが冷めちゃうよ……」
「お前を引き取ってから、何年経ったかな」
「十四年だよ、じじい。ほら、帰ろうよ? 風邪ひいちゃうよ」
じじいは振り返らない。彼は決して歩みを止めない。僕の方が力が強いのに、どうしてかじじいを振り向かせることができない。
「エリコ、俺は長く生きた」
「そうでもないじゃん。マンマなんか百歳行ってるって噂だよ」
「あの御方は特別なんだ。俺はポルタパーチェを越えなきゃならんのだ。それが贖罪なんだ」
引っ張っても、引っ張っても、じじいは振り向かない。いつの間にかパーチェの目の前まで僕らは来ていた。ヴィルトも、ピオも遥か後ろにいた。
「おかしいなぁ、じじい。手紙にはじじいは全ての罪を償ったって書いてあったよ。それに、罪人がパーチェを潜って天使の街に行っちゃ駄目じゃないか。ほら、帰ろう?」
「ヴァレンティーナ様は、俺を許して下さるだろう。今のお前を見ていると、そんな気がする。もう、心残りなどないのだ」
「ほら、帰ろう……。帰ろうよ、じじい。もう、卵をくすねたりしないよ。だから――」
これは全ての人間にとっての誉れなのだ。天使の街に行けば、何不自由ない快適な暮らしが待っている。そこでじじいは余生を過ごす。祝福すべきことだ。だが、この寂しさは何だろう。二度と会えないのなら、僕にとってのじじいは死んだも同然ではないか。
前が霞んで見えない。じじいの手は確かにこの手で掴んでいる。だが、それには何の意味もない。何を言ってもじじいが行ってしまうことを、僕は知っているのだ。
「俺はもう、長く生きた。お前はまだ、多くを生きるだろう。生きるというのは、それだけで強いのだ。死に向かうのも、それだけで強いのだ。弱いのは、そのどちらでもない状態。そんなもの無いと思うか? あるのだ。意思もあり、不自由もないのに、生きても死んでもいない人間は確かにいる。エリコ、お前がそれを教えてくれた。お前が生きても死んでもない俺に、生きることを教えてくれた。ありがとう、エリコ。お前に残しておくよ。お前がまだ知りもしないのに俺に教えてくれたことを――」
門の前にはニッチの姿があった。彼はじじいと目語した後、門の取っ手に手をかけた。
(ああ、行っちゃう。じじいが行っちゃう……)
扉の向こうは、光に包まれていた。じじいがその中に消えてゆく中――
「嫌だ! 行っちゃ嫌だ!」
飛び出した。門の向こうに消えたじじいの手を掴む。
「エリコ様、いけません!」
刹那、全ての光が反転する。僕は、自分がどこにいるのか、わからなくなった。
* * *
轟々と吹き荒ぶ混沌。雑草の生い茂る地面。崩れかけた廃墟にはラクリマが塗りたくられていて、燦々と街を照らす。人の気配などなく、この街が人の生を拒絶していることだけが、肌で感じられた。
(リディアだ。ここはリディア……)
おかしい。先ほどまで僕はルーナにいた。それが突然、リディアに迷い込んだのだ。
(違う。ここは……)
じじいはこの景色が見えていないのか、迷わず歩を進める。
「トーニよ。いるか? 俺はここにいるぞ」
混沌が下りてくる。じじいの姿が漆黒の闇に飲まれる。心なしか、混沌が犬のような形を作っていた。
「じじい! 戻って! そっちに行っちゃ駄目だぁ――!」
「さよならだ、エリコ。達者でな――」
この時初めて、じじいは僕の方を見た。笑っていた。
瞬間、じじいを混沌が覆いつくし、僕は凄まじい力で後ろに引っ張られた。
門が閉じた。それは確かに「飛び立つ者達の門」だった。つまり、僕は今見たのは、滅亡したリディアなどではなく、憧れの街、天使の街だった。




