第九話「飛び立つ者達の門」(3)
その日の夜、珍しくピオが訪ねてきた。
「ヴィルトが酒場に来てるんだ。エリコも来いよ。昔の面子で久々に話がしたいってさ」
昔――という彼の言葉に遥かなものを感じた。君主競争が始まってから数えても、まだ半年も経っていない。だが、その間に僕を取り巻く環境は激変した。ピオだってその一人だ。カヴァリエーレ・リータに打ち負かされた少年の面影は、もうどこにもなかった。
「アンジェラはいるの?」
「さっきまでいなかったけど、仕事が終わったら来るってさ」
どうやら今のアンジェラは君主宮殿でヴィルトの世話をしているらしい。彼女を傍に置くヴィルトの考えがよくわからない。彼女がヴィルトの愛人であるという人もいる。根も葉もない噂だ。信ずるに足らない。アンジェラに会おう。会って確かめなければならない。
(何を確かめるの?)
彼女の嘘を。あるいは、フェリチタの嘘を。
(フェリチタがあっていたら? フェリックスは本当にビアンカを愛していた?)
それはない。彼の陰謀は確かなものだ。それに、思い出す。初めてフェリックスがビアンカを見たときの邪悪な顔を。
「行くよ。ちょっと待ってて」
支度を済ませると、じじいとクリュプトンに外出を告げて、ピオと共に酒場へと向かった。
「そういえばエリコ、前に連れてた犬は元気にしてるかい?」
「犬? ああ、あの子犬か。ビアンカが飼ってるけど、元気だと思う。多分……」
言葉に詰まる。ビアンカのことを想うと、胸の中から針が生えてくるように苦しくなる。
「そうか……」
慰めの言葉も思いつかないのか、ピオはそう言ってつぶやいただけだった。
歩きながら、ピオは左腰に差した長剣を神経質にかちゃかちゃと弄っている。
「……それ、やめなよ。餓鬼っぽいよ」
「そうか? 実戦とは関係ないし、別にいいだろう。こうしないと落ち着かないんだよ」
「酒場には他に誰がいるの?」
「野郎ばっかりさ。トマソが女っ気が少なすぎるって嘆いてたよ」
何だろう。懐かしい。以前のヴィルトのまわりは、いつもこんなだった。
ピオが僕の顔をまじまじと見つめている。
「何だよ」
「どうせならドレスでも着てくりゃいいのに――」
「僕にドレスは合わないそうだよ」
「この前のパーティーのことを言ってるのか? あれはたまたま替えのドレスを切らしていたから、仕方なく男物のベストを着させたって話だぜ。お前の機嫌を損ねちゃいないか、ヴィルトが気にしてたよ」
「そんなの今更だよ」
そんな会話をしている矢先、僕たちの前を歩く人影に気づく。黒い外套に深くフードを被っていて、見るからに怪しい。通り過ぎる間際、ピオが顔を覗こうと近づく。
瞬間、甲高い金属音が響き渡り、いつの間にか抜剣したピオが跳び退る。フードを着た何者かも、剣を手にしている。
「カヴァリエーレを名乗るだけはある。よく受けた」
女の声とともに視界が闇に包まれる。脱ぎ捨てたフードがピオに覆いかぶさり、その上を鞭のようにしなる剣が叩きつける。呻き声と共にピオは地面に倒れ、もんどり打つ。
「だが、所詮は餓鬼だ」
腰まで伸びた赤茶の髪、長くしなる剣、獲物を前にした猫のようにギラつく眼光――そう、僕の前に立っていたのは――
「リータ……」
リータは僕を一瞥しただけで、その場を走り去ろうとした。どこへ行くのか。決まっている。ヴィルトの元へ。彼の首を獲る以外に、彼女の目的が見つからない。
「待って、リータ! 行っちゃダメ! 死んじゃう!」
酒場は工業区の屈強な男たちでごった返している。確かにリータは、我らが英雄ピオを圧倒した。だが、それでも数に勝てる道理はない。
「死んだ。カヴァリエーレ・リータは死んだ! フェリックス様と共に死んだのだ! 今、ここにいるのは亡霊だ。エリコ、お前はフェリックス様を売った。お前のような裏切り者を、私は許しはしないが、フェリチタ様に免じて、命だけは助けてやろう。だが、全てを仕組み、罪なき人々を煽動したあの男だけは許すわけにはいかない!」
「フェリチタは! フェリチタはどうなるの? リータのことが大好きなのに! 一緒にいてあげなきゃ! リータが一緒にいてあげなきゃ!」
僕は、つい先ほどフェリチタを軽蔑したはずだった。だが、同時にどこか憐れむ気持ちがあったのかもしれない。彼女の小奇麗な顔が哀しみでしわくちゃになるのを想像すると、心のどこかがきゅっと締まる。そこから漏れ出た最後の一滴が、言葉となって顕れた。
一瞬だけ、リータの表情が曇るのが見えた。ここで彼女を止めなければ、確実に死者が出る。だが、僕の方を振り向いたとき、リータの顔からは全ての迷いが消え去っていた。
「エリコよ。私は亡霊なのだ。亡霊に話は通じない」
近寄るリータに対して、僕はあまりに無防備だった。隙を突く必要もなかっただろう。気づけば、剣の柄で鳩尾を打たれていた。その場に倒れこみながら、去りゆく彼女を見た。
動けるようになるまでしばらくかかった。裏道を選んだせいで、誰も通りかからないから、助けを呼ぶこともできなかった。ピオを起こしてリータの後を追う。ピオは一撃でやられたとはいえ、ほとんど無傷に近い。悔しさで歯軋りする彼にかける言葉がみつからない。やっとの思いで追い越したと思った人が、まだずっと遥かにいたのだから。
しばらく遅れて酒場についた。
「ここで待ってるんだ」
酒場の中から漏れてくる声を聴く限り、にぎやかに盛り上がっているようだ。リータは暗殺の失敗を見越して引き上げたのだろうか。
「どうしたの、ピオ?」
ピオが扉を押したまま固まっている。彼の視線は、信じられないものを見るように、ずっと一点に釘付けになっていた。
「ピオ、どうしたの? ねぇ、中に入ろうよ。ヴィルトを呼んであげてよ。ねぇ……」
気づいてしまった。時々、歓声に混じって聞こえてくるのだ。嗚咽とも悲鳴ともつかない女の声が、聞こえてくるのだ。それが誰のものであるのか、考えたくもなかった。
――おい、次は誰だ? トマソか? ピエロか?
――まだ、殺すなよ。今、加勢を呼んだから、全員分回るまでもたせとけよ。
中の歓声は全て獣にも似ていた。誰が何を言っているのか、何もわからなかった。あんな汚い言葉、人間のものではない。それに紛れて、人間の声。死にゆく人の声が聞こえた。
ーーうぅ……うッ……うぅぅ……。
手で塞がれた口から漏れ出るような、くぐもった呻き声。何かを訴えるのではなく、まるで誰かに呼びかけるようなーー
――フェリックス様……。
ピオはゆっくりと抜剣すると、剣を手にしたまま、酒場に入った。
「おさらばです、カヴァリエーレ。俺は結局、あなたを越えられませんでした。俺はただのピオに過ぎませんでした」
直後、小さな呻き声と共に、全てが静まり返った。
僕は、恐る恐る酒場の中を覗いた。純白の肢体が、床に寝かされていた。うつ伏せになったそれに、ピオは自分が羽織っていた外套を被せた。わずかに見えた口元には猿轡がかまされていた。
「何で……どうして裸なの? ヴィルトはどこ? ヴィルトは何をやってるの? トマソ、ここで何をしてたの?」
トマソは答えない。長い沈黙の後で、僕はピオに引きずられるように、酒場から連れ出された。どうやら、ピオとリータの諍いを目撃した人がいたらしく、ヴィルトは危険を知らされると同時に、酒場から離れた。そして、酒場の連中は武装して彼女を待ち構えたそうだ。
* * *
翌日、袋に詰められたカヴァリエーレ・リータの遺体がフラヴィオ河に投げ込まれた。
そして、マンマの家に行くと、フェリチタの姿も消えていた。
「ああ、フルヴィオかい? 昨日、良いなりした男どもが連れて行ったよ。よく働くいい子だったのに、残念だわね」
マンマの言葉に唖然となる。
(連れ去られた。カタリーナ御嬢様に――)
その後フェリチタがどうなったのか、想像したくもない。僕にできることは、フラヴィオ河に新しい死体が浮かばないよう、祈ることだけだった。




