第九話「飛び立つ者達の門」(2)
教会に帰ると、僕の服装を見て仰天するじじいの傍らに、見知らぬ少年の姿があった。
「そう言えば、今はマンマのところに別の人が行ってるんだっけ?」
「今のお前には関係ないだろう。それより、早く着替えて来い」
着替えて晩餐の支度でもと思っていたところ、表の方で何かがひっくりかえる音がした。外に出ると、先ほどの少年が荷馬車からラクリマの入った壺を落として右往左往していた。
(頼りない新人だなぁ……。確か名前はーーフルヴィオだったかな?)
なるほど、帽子の隙間から見えるのは確かに金髪だ。
華奢な見た目通り、男にあるまじき非力らしい。ラクリマを荷車に積んでいるが、どうにも重そうなので手伝ってやることにした。
「一緒に押してやるよ。マンマの家だろ? ほら、さぼってないできちんと力入れてよ」
少年は荷車を牽くが、どうにも力弱い。
「おい、ちゃんとやれって!」
少年に喝を入れようと顔を見たところで、僕は思わず呻いた。
「フェリチタ……?」
「……いいえ、私はフルヴィオです。人違いです。助けていただいてありがとうございます。ですがご心配には及びません。ひとりで出来ます」
そう言うものの、どうみてもフェリチタだ。髪を僕と同じ冑頭にしてはいるが、目の前にいるのは確かにフェリチタだった。
* * *
結局、あれからは無言でふたりして荷車を押した。
マンマの家に着くと、フェリチタはようやく僕に素性を明かした。
「ある貴人が助けて下さったの。でも、そのお方はヴィルトに警戒されている。それで、マンマの家に匿ってもらっているの」
嫌な予感がする。その人物はもしや、プリンチペ・ヴィルトの転覆を企んでいるのではないか。リータが殺めたとされる有力貴族や商人のことを考える。
「リータは?」
フェリチタは首を振る。彼女とは一切連絡が取れないそうだ。
「リータの悪い噂があるけど、全部嘘よ。信じないで、エリコ。リータは人殺しじゃない」
彼女の訴えは、僕の中で虚しく響いた。
「でも、ヴィルトを殺そうとしてる」
「そうかも知れない。リータはお兄様が好きだったから……。でも、彼女は悪くないの」
「リータが? フェリックスを?」
重なる二つの影、それは確かにフェリチタとリータだった。だが、リータの想い人はフェリックスだという。
「お兄様……。こんなことになるなんて……お可哀想に――」
フェリチタの目に涙が溜まる。先のカタリーナ御嬢様とは対照的だ。
「フェリチタ、今の君にこんなことを言うのは酷かもしれないけど、これは僕のせいでもあるから、言うね。あの男は、滅ぶべくして滅んだんだ」
瞬間、フェリチタは涙を振り払って僕を睨めつける。
「滅ぶべくして? どうして? お兄様は誰よりも街の事を考えていらした。それが、陰謀家のヴィルトが街の人間を騙して、全部奪い取ったの!」
「ヴィルトのことを悪く言うな! 陰謀があったのは本当のことじゃないか!」
「嘘よ! 嘘! お兄様は、そんなこと絶対にしない! ビアンカのことだって、本当に愛しておられた。指輪を渡すんだって、今、職人に銀の指輪を造らせてるけど、待ち遠しくて仕方がないって! 公務でお忙しい中も、いつも気にかけていらしたのよ。それなのに、アンジェラとかいう女の罠に嵌まって! 全部、ヴィルトが仕組んだことよ! みんな、あの男に騙されたの!」
「銀の――?」
ふと、アンジェラの指にはめられていた指輪を思い出す。
「剣の中の剣」が刻まれたそれは、確かに金色の光を放っていた。
(婚約指輪じゃない?)
そのはずがない。彼女には到底手に入る代物ではなかっただろう。フェリチタは何かを勘違いしているに違いない。
「こんなところに引きずり出されて……わたくしに何をしろと言うのよ! 一生、屋敷の中で静かに暮らす定めのわたくしが、どうして……。リータと一緒にいたかった。ずっと二人でいたかったのに!」
もはや僕のことなどお構いなしに、フェリチタはわめきだす。
(ああ、そういうこと。結局自分が屋敷から追い出されたのが一番悲しいわけね)
今のフェリチタの悲しみは、ビアンカには到底及ばない。じじいもこんな奴は早いところヴィルトに引き渡せばいいのに、匿う理由がわからない。いや、じじいはフェリチタの顔を知らないはずだから、彼も気づいていないに違いない。
「ほら、トーニ、クララ。食事の用意ができたわよぉ。あら、ダメよ。悪い犬は連れてきちゃダメ。悪い犬は人を食べてその人に化けるの」
惚けたマンマの声が妙に滑稽だった。
マンマの家から出てしばらく歩いた時、異変に気づいた。見慣れない馬車が道端をのろのろ走っている。
(貴族の馬車だ……)
装丁が美しいが、貴族にあるべき家紋がない。どこぞの金持ちが間抜けにも貧民街に迷い込んだのか。そう思って開いたままの馬車の窓を見ていると、ふいに幌がめくれ、中の貴人の顔が見えた。
「カタリーナ御嬢様……」
嫌な予感。噂を思い出す。もしかしてカタリーナ御嬢様は、フェリチタを探しているのではないか。彼女は僕に気づいているだろうか。
だとしたら、このまま戻ると怪しまれる。僕は気づかないふりをして工業区へ向かう。すると、馬車がゆっくりと僕の後をついてくる。そのまま鍛冶屋通りに至ったところで、馬車は一気に駆け出し、道の向こうへと消えてしまった。何故だろうか、カタリーナ御嬢様は微かに笑っていた。屋敷で見た彼女からは想像も出来ないほどに、穏やかに。




