第九話「飛び立つ者達の門」(1)
プリンチペ・ヴィルトの治政が始まってから三か月が経った。
その間、毒王の襲来は一度もなかった。モニカとは良好な関係とはいえないものの、市壁の外に斥候と思しき部隊が現れるや否や、ヴィルトは瞬く間に大量の市民兵を展開してモニカ兵を去らせた。これには市民の評判も上々だ。他にはこれまでグランデ・マッシモが難色を示していた関税に関する法律がいくつか改められて、特に商人連中からは拍手喝采だそうだ。
最近、ヴィルトは書類にサインする時に、
『誇らしいヴィルト』
と、書くようになったらしい。そのせいか、彼のことをヴィルトではなくイルフィエロと呼ぶ人もいる。こればかりは謙虚なヴィルトらしくないと思った。
暗い話もある。フェリックスの放蕩生活が祟り、君主宮殿の財政は火の車で、ヴィルトは期限付きでの増税を市民議会に提案した。また、貴族や商人の有力者の暗殺事件が頻発していて、どれも斬殺死体でみつかったことから、剣の達人で未だに行方のわからないカヴァリエーレ・リータの犯行と目されている。ヴィルトも何度か危ない目に遭ったという噂があり、剣の家系の残党が不穏な動きを見せているのだろう。
――今、この街は旅をしなければならない。
グランデ・マッシモの言葉を思い出す。
(君のおっしゃる通り、この街は無事に旅を終えました)
彼とともにポルタパーチェを見下ろした時のことが、遥かに感じられる。僕はもう、旅の荷を下ろしたのだろう。
じじいとの晩餐の席で、僕はこれからのことについて話してみた。いつまでも教会の世話にはなっていられない。アンジェラなんかは薬にもしたくはないが、僕も自分で食い扶持を稼ぐような歳なのだ。縁あってというわけでもないが、仕立て屋「エミリア」で働くことにした。店主とも和解したし、じじいの口利きがあれば、すぐにでもと思った。
「そうか、そうか」
普段は怒るか祈るかのどちらかしかないじじいにしては珍しいはしゃぎようだった。そんなに僕はお荷物だったのだろうかと言ってみたところ、
「餓鬼にはわからんよ」
と、途端に不機嫌になった。
* * *
仕立て屋には来月からなら見習いで入ってもいいという返答だった。僕はそれまでの間、最後の子供時代を満喫するわけだ。といっても、ビアンカはとても声をかけられる状態じゃないし、アルフォンソとは連絡もとれない。それで、僕はピオを引きずってでも誘いに行こうと決心した。ヴィルトが貴族街の晩餐会に出席している間、外で暇をつぶす彼を見つけるのは容易だった。にわかに増えたファンに群がられているからすぐにわかる。
「やあ、ピオ」
軽く頬を叩いてやっただけで退散した御嬢様どもを尻目に、僕はへとへとになって座りこむピオに話しかけた。
「何だ、エリコか。どうやって忍び込んだんだよ」
「仕立て屋エミリアのエリコですって言ったらあっさり通してくれたよ。僕の仕事はカヴァリエーレ・ピオの上着の紐がほつれてないか、チェックすることなんだ」
「よしてくれよ。気持ち悪い」
そう言うピオは本当に気分が悪そうだった。
「大丈夫? そんなに忙しいの?」
「ここひと月はまともに寝てない。ごめんよ、エリコ。本当に疲れてるんだ。話なら今度、聞いてやるから――」
あのピオがこんなに無下な態度をとるなんて珍しい。
「プリンチペの護衛も大変だね。リータの噂もあるし、きちんと寝なよ。いざという時に動けないんじゃ、カヴァリエーレ失格だよ」
ピオの肩を叩く。何やら寂しい気もするが、ここは親友らしく彼の出世を喜んでやろう。
「護衛はそんなに大変じゃないんだよ……」
ぽつりと何かを呟いたようだが、訊き返そうにも既にピオはうとうとと眠りこけていた。
「参った奴だな、全く――」
とはいえ、ピオは騎士になるという自分の夢を叶えたのだ。拍手を送ってしかるべきだろう。
ふと、視線を感じた。二階を見ると、開け放たれた窓から誰かが僕を見下ろしていた。
「エリコ? お前、エリコでしょう?」
声の主はカタリーナ御嬢様だった。
実兄を殺した男の元に平然と嫁ぐ女――プリンチペ・ヴィルトから処刑されることを恐れた彼女は、ヴィルトの前で一世一代の大演説を行い、剣の家系を塵滅する愚を説いた。そして、彼との婚約を勝ち取ったというのは、プリンチペ・ヴィルトも認める事実だ。
あの夜はまさに狂気に満ちていた。フェリックスの与党と思われる者は死を免れなかった。ひとり、姫君フェリチタと間違えられて捕縛された小姓は、全裸になって自身の局部を見せつけることで命からがら逃げ延びたという。
そんな地獄を舌先三寸で切り抜けたカタリーナ御嬢様が、僕に話しかけてくる。
「御嬢様、何のご用でしょうか?」
「お前、フェリチタと仲が良かったでしょう? あの子の行先を知らないかしら?」
「知りません。見当もつきません」
「そう……もしあの子から連絡があったら、わたくしに教えて頂戴な」
「はぁ……」
混沌が近くまで下りてきたせいか、ラクリマの灯りがわずかに陰った。その時に見えたカタリーナ御嬢様の表情に、僕は凍りついた。視線が氷のように冷たく、怖気を感じずにはいられなかった。ヴィルトはもう、剣の家系の残党狩りをしていない。唯一の男子であるフェリックスには子もなく、既に家系は途絶えている。フェリチタが反ヴィルト派の頭目となっても、カタリーナ御嬢様と婚約したヴィルトの前では大義名分も薄らぐ。
「どなたとお話を?」
カタリーナ御嬢様の後ろから男の声がした。聞き覚えがあると思っていたら、ヴィルトが窓から顔を出した。
「何だ。エリコじゃないか。そういえば、二人は知り合いだったな。そんなところにいないで、上がってきたらどうだ?」
* * *
まさかパーティーに招待されようとは思わなかった僕は、貴族風のベストを着せられて会場に通された。思えばドレスなど着たこともないし、男物の服の方が動きやすいから気に留めなかった。
貴賓席のヴィルトは、常に誰かしらの貴族から声をかけられていて、その全てに丁重に応対していた。伺候というやつだ。対するカタリーナ御嬢様は何をするにつけヴィルトの方を見ていて、落ち着かない。
一人の貴族が、彼女にダンスの相手を申し出た。僕は壁にじっともたれかけたままそれを見ていた。壁の花というやつだ。二人がこちらに近づいて来た折に、会話を盗み聞いた。
「フェリックス様のことは、まことに残念でした」
男が切り出すと、カタリーナ御嬢様は顔を歪めた。
「あの男の話をしないで下さいます? あんな外道が実の兄だったことを思い返すだけでも、吐き気がしますわ」
男が面食らったのも仕方がない。その後、プリンチペ・ヴィルトに誘われて踊る彼女の姿ときたら、まるで子供のようなはしゃぎようだった。僕は、肉親が死ねば皆が悲しむものだとばかり思っていたが、彼女はどうやら違うようだ。
暇を持て余した僕は、屋敷内で情報収集をすることにした。全く、給仕というものは口が軽くて助かる。
「ここだけの話、フェリチタ御嬢様って物凄く美人だそうで、カタリーナ御嬢様はそれを妬んでいらっしゃるとか。イルフィエロにとっては、カタリーナ御嬢様でもフェリチタ御嬢様でも剣の家系には違いないから、どちらでも彼の好きな方をお選びになる権利がある。だから、カタリーナ御嬢様はイルフィエロのご機嫌をとるのに夢中な傍ら、フェリチタ御嬢様を見つけ出して殺そうとしているという噂よ」
あり得る。彼女ならそれもあり得る。先の僕のように、ヴィルト直属の部下でない人間とみれば、誰にでも同じようなことを頼んでいるらしい。
「兄妹って、本当によく似るものなんですね」
フェリチタのことを思い出す。彼女はカタリーナに比べると随分マシだが、父親の死をまともに悲しむこともできない人間であったことは変わらない。あんな一族に市民の未来がかかっていたと思うと、吐き気がする。




