第八話「月が燃える」(3)
気づいた時には、僕は椅子を並べて急にこしらえた簡易ベッドの上で寝かされていた。
「ヴィルト?」
誰もいない。ピオですらも。酒場は無人だった。
いや、一人いた。床に膝をついたまま、僕の手を握る人――そう、クリュプトンが。
――そのまま寝ていなさい。
唇を読む。声なき声。だが、優しい。起こしかけた半身を再び椅子に預ける。硬くごつごつしていて、お世辞にも快適とはいえない。そのままで周囲を見る。やはり誰もいない。
「みんな、何処に行っちゃったんだろう?」
頭が痛い。さっきまで何をしていたのか、思い出す。
(そうだ。酒をたらふく飲んだから……)
我ながら馬鹿なことをする――と思ったところで、全てを思い出した。
飛び起きる。驚くクリュプトンの手をとって、酒場を飛び出す。
「行かなきゃ……行かなきゃ!」
――何処へ?
クリュプトンにとっても、これは看過すべき問題ではないはずだ。
「君主宮殿へ! プリンチペに相応しくない男が、あそこにいる!」
走り出す。だが、後ろから引っ張られるように、踏み出したはずの足が土を蹴った。クリュプトンは動かない。彼の手は力強く僕の腕を握ったまま、離さない。
「ちょっと痛いよ、クリュプト――」
抱擁。思ったよりふくよかな彼の肌。銀色の髪は、なんともいえない匂いがした。だだっ広い荒野に一人立ち尽くしたような感覚。だが、それらが全て自分を生かすものであるという妙な安心感。全てがクリュプトンの胸の内にあった。
――信じられぬ者の後を追うな。生きた人間の墓に土を盛るな。
謎の言葉。だが、彼が僕を引きとめようとしているのはわかった。だからといって、今更どうやって引き返せというのか。僕は平和なルーナの街に剣をもたらした。あの男――フェリックスを破滅させる呪いの剣を――真実を暴き出したのだ。見届けなければならない。一度振りかざした正義の剣は、誰かの頭に落ちるまで、決して止まない。
「ごめんね、クリュプトン。僕、行くよ」
心が躍る。ビアンカは救われる。ヤコポも救われる。無残に死んでいったリディアの人たちも、これで救われるのだ。僕は、それをクリュプトンにやって欲しかった。あれは、彼の剣であるべきだった。だが、それをするには、彼はあまりにも非力だった。
びゅうびゅうと、熱気に満ちた混沌が僕の顔を叩く。今夜、罪人は裁かれる。
* * *
君主宮殿の正門に立った僕は、言葉を失った。
炎上。ルーナでもっとも由緒正しく、最も偉大な一族の居城が、ただの一晩で焼け落ちようとしていたのだ。あるいは、丸一ヶ月の間、僕は寝こけていたのだろうか。そう疑いたくなるほどに、剣の家系の没落は突然、訪れた。周囲に飛び交う怒号。彼らは何かを探している。よくみると見知った顔もある。工業区の連中もいれば、西区の連中の姿もある。東区を訪れたときに見た顔も少し混ざっている。
彼らは、蜂起したのだ。
(何故?)
倒すため。
(誰を?)
ルーナいちの詐欺師フェリックス。
炎上する宮殿から、人々が逃げてくる。そして――
「助けて! 助けてください!」
命乞いをする給仕達を、数人の男が囲う。彼らの手には、そこらで拾ってきた木の棒や、農具があった。
「おい、何をするんだ。何をするんだよ……」
僕の呟きなど、誰にも聞こえない。彼らは手に持った獲物を上空に掲げると、誰の合図もなしに一斉に振り下ろした。
「やめろぉぉ!」
芝居などでは血飛沫が飛ぶシーンだが、鈍器ではそれもない。代わりにべろりと剥がれた頭の皮を見たときに、僕は自分が地獄に迷い込んだのではないかと錯覚した。
「おい、みんなやめろよ。彼らは何もやってない! やってないだろ!」
誰も、僕の声が聞こえないらしい。腕にしがみついてやめさせようにも、肘打ちを食らわされて終わりだった。その間に、ひとつの命が消えた。まるで、夢の中にいるようだ。熱気に当てられたせいか、顔が焼けるように熱い。頭がくらくらする。
(夢だろう? これは夢なんだろう?)
そう思いながら、邸内を徘徊していた。何度か、逃げ延びる給仕に命乞いをされた。
(人を殺人鬼みたいに見てくれるな!)
気づけば、姫屋敷にいた。そこで初めて、僕は嫌な予感を覚えた。
「フェリチタ?」
屍臭。確かにそうだ。リディアで嗅いだのと同じ臭い。
(やめろよ。やめろよぉ。フェリチタは何にも悪くない。悪くないんだ……)
扉を押す手が震える。僕は、ここに来るまで何人の悲鳴を聞いただろうか。ここはやけに静かだ。それが怖い。
野獣のように折り重なった二人の影を思い出す。あの二人は、ここから出てはいけないのだ。誰も、ここに入ってはいけないのだ。屋敷の入り口のすぐ傍に、恐らくリータに斬り殺されたのだろう。遺体がふたつ、転がっていた。顔は見ない。知っている顔であって欲しくなかった。寝室には誰もいなかった。この屋敷には二つの遺体があるだけだった。
(よかった。逃げたんだ……)
ここから逃げたとして、宮殿の外へ出られるのだろうか。考えたくはなかった。
姫屋敷を出たところで、誰かが僕の名を呼んだ。
「エリコ!」
最初、それが誰かわからなかった。だが、よくみるとピオだ。駆け寄る彼の顔が血で染まっているのを見て、身震いがした。元気に駆け寄ってくる。あれは彼の血ではないのだ。
「無事でよかった。向こうの連中が酒場でぶっ倒れたはずのお前を見かけたっていうからさ。まだ親衛隊の連中が離れ屋敷の方で抵抗してるんだ。ここも危ないからついて来いよ」
「ピオ……なの? 本当にピオなの?」
「はは、何言ってんだよ、エリコ? それより聞いてくれよ。俺、凄いぜ。親衛隊長と一騎打ちして勝ったんだ。トマソが悲鳴を上げて逃げ出した相手に勝ったんだぜ」
瞬間、ぐるりと景色が回り、強烈な眠気に襲われた。視界が霞む直前、紅く染まった月が網膜にこびりついた。
(ああ、月が……月が燃えてる……)
ピオが何か話していたようだが、全く聞こえなかった。




