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第七話「風」(2)

 西区貧民街の外れ――マンマの家の前には、クリュプトンの姿があった。彼を客人としてもてなしてくれる人はマンマくらいしかいないから、気に入っているのだろう。


「こんにちは、マンマ」

「あら、お久しぶりねぇ。少し、背が伸びたのかしら?」


 コン、コン――と何かを叩く音が鳴る。クリュプトンがテーブルの足を軽く蹴ったのだ。


「あらあら、トーニ。そんなに急かさなくても、もうすぐお昼ですよぉ。ほら、お前さんも手伝うんだよ」


 マンマと一緒にスープを温めて数切れのパンを用意する。


「ねぇ、マンマ。ヴァレンティーナって人、知ってる?」

「おやぁ、懐かしい名前が出たねぇ」


 今日のマンマが明晰であったのは好都合だ。彼女がボケない内に、話を聞いてしまおう。


「アンジェラが言ってたんだ。ヴァレンティーナの血筋ってアンジェラのことなの?」

「普通は自分の子供に天使アンジェラなんて名づけないものよ。ヴァレンティーナはねぇ。天使の街の貴族だったの。それが、もうとても昔――昔の話ね。落ちぶれて、ルーナまで逃れてきた。これが、ルーナにおけるヴァレンティーナの血筋の始まり――」


 アンジェラが何を言いたいのか、僕はほんの少しだけだが、理解した。彼女は自らが天使の家系にあると言うのだ。


「今もヴァレンティーナの血筋はあるの? アンジェラがそうなの? ねぇ?」

「ルーナに落ち着いたヴァレンティーナは歳をとり、孫もできた。年頃になった彼はとても男前で、街の女はみんな彼に恋をしていた。貴族の女も例外じゃなかった。そしてプリンチペ家の(むすめ)も、彼に恋をしたの。二人はとても愛し合う、素敵なカップルだったわ。でも、プリンチペは二人の仲を許さなかった。その頃、天使とプリンチペは犬猿の仲。教会の神父もグルになって、二人の仲を裂いてしまった。可愛い孫は無理やりポルタパーチェを潜らされ、彼に一生会えなくなって絶望した女は、市壁から身を投げて死んでしまった。そして、二人の忘れ形見である女の子だけがただ一人残されたの」

(それがアンジェラ……)


 リータのしていた話と似ている。彼女が口にしなかった悲劇的な結末で終わっている。


「どうして、ヴァレンティーナは天使の街を()われたの?」

「それはねぇ。悪い子が犬を逃がしちゃったの」

「犬?」

「そう。街中大騒ぎ。誰のせいかって話になったわ。そう言えば、ネチェンタ坊やは元気かしら。あの子には不憫な思いをさせたから。落ち込んでないか心配だわぁ」

「もうちょっとわかりやすく話してよ」

「……今日はいっぱいお話をして疲れちゃった。クララもトーニも、食事は済んだかしら?」


 駄目だ。いつものマンマに戻ってしまった。


(やれやれ……)


 信ずるに足らない――と思った。仮にマンマの言うことが真実だとしても、これを信じるのはアンジェラくらいなものだろう。それに万が一彼女がヴァレンティーナの血筋だったとして、ただの給仕に何ができるというのだろう。


「ん? お前、悪い犬の臭いがするねぇ。犬は怖いわよぉ。上手く言うことを聞かせないと、食べられちゃうんだから。指輪は持っているかしら? ほら、薑撞茶デ・ゼンゼロをお飲み。悪い犬にはこれがいいんだよ。言うことを聴いてくれるようになるから」


 マンマは相変わらず、僕を誰かと勘違いしている。悪い犬とは、毒王のことだろうか。ゼンゼロで毒王を追い払えたなら、どんなに楽かわからないが。


「大丈夫だよ、マンマ。毒王ならヴィルトが追っ払ったから。これからも、きっとそうなる。薑撞茶なんていらないよ。武器を持って毒王に突撃した方が、世の中のためさ。もう、これまでのルーナじゃないんだ」

「おやおや、知った風な口をきくのねぇ。ジュリオから一体何を習ったのかしら。ほら、薑撞茶をお飲み」


 マンマの世話が終わった後、僕はビアンカを訪ねることにした。昨日は彼女の調子が優れずに会えなかったから、フェリックス様との約束を今日、果たすつもりだ。


「今日は(ヴェント)が強いから、気をつけるんだよぉ」


 珍しく僕を見送るマンマが、不思議なことを言った。


「マンマ、風って何?」

「風は風さね。ほら、今もびゅうびゅう吹いてる」

「それは混沌だよ、マンマ」

「違うわ。風よ。これは風なのよ。風は気持ちのいいものよ。昔はもっと、爽やかな風が吹いたものだけど。この街はどうにも空気が篭っていていけないわ」


 首を傾げながら、僕はマンマの家を去った。混沌が気持ちいいとは、変な話だ。



            * * *



 今日のビアンカは調子がいいようで安心した。フェリックス様は、さすがに超一流の貴族というだけあって、肺の病によく効く薬を容易く贈りつけてくるらしい。だが、僕としてはフェリックス様とビアンカという組み合わせは、身分の違いを別としても上手くいくとは思えない。


「こんにちは、エリコ。ふふ……今日は可愛らしいお友達も一緒ね」


 ベッドから半身を起こしながら、ビアンカが変なことを言った。振り返ると、先ほど君主宮殿に行く際に見かけた子犬(クッチョロ)が、一生懸命にドアを押し開けているのが見えた。


「こいつ、ついてきたのか……」


 僕が箒ではたいて追い払おうとすると、ビアンカが慌てて止める。


「待って、エリコ。大事なお客様よ。無下に返してはいけないわ」

「お客様って……こいつは野良犬だよ?」

「フェリックス様の妻となる女が、そんなことをいちいち気にしていてはいけませんわよ」


 ビアンカは声を整えてアンジェラの真似をした後、堪えきれなくなったのか、ついに笑い出した。指輪の件を伝えても、ビアンカは嫌な顔ひとつしなかった。


「わかっているわ。そういうお方だもの。私が我儘わがままを言って、彼を困らせるのが一番悪い事よ」


 膝の上に置いた先ほどの子犬を撫でるビアンカを見ると、もう少し男というものを疑ってもいいのではと思いもする。

 ほんの少しだけという彼女の願いを聞いて、散歩に出かけた。


「今日の混沌はやけに大人しいわね」


 ルーナで最も美しいものを挙げろといわれたら、僕はポルタパーチェの他に、ビアンカのストロベリーブロンドの髪を挙げるだろう。混沌が濃い日でも鮮やかな色彩を失わない彼女の髪の美しさを、フェリックス様は理解しているのだろうか。あるいは、それだけを理解していて、他には目もくれていないのではないか。


「風っていうらしいよ。気持ちいい混沌はそう呼ぶらしい」

「風?」

「そう、風。マンマが言ってた」

「ふふ、初めて聞いたわ。そうね。今日は風が気持ちいいわ」


 宮殿での仕事を辞めたことについて、ビアンカの落胆は大きかったが、詳しい理由を語れなかった。剣の家系に対する不信。だが、その不信が何なのかは、誰にも言えない。


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