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第七話「風」(1)

「辞めよう。クリュプトン。僕、辞めるよ。フェリチタにそう伝えてくるよ」


 昨夜はほとんど眠れなかった。リディアで手に入れた元首(ドージェ)の文書と、彼を殺めたと思われる(スパーダ)は、まだ僕の手元にある。フェリチタの遊び相手をする仕事を辞めようと決心したのは、僕の中では全く自然の選択だった。正直、剣の家系とはこれ以上関わりたくないと思った。

 朝一番にアリシア通りを駆け抜け、貴族街の花園通りを突っ切り、天使通りに入る。君主宮殿に入ろうかというところで、道端に子犬(クッチョロ)が寝転がっているのを見た。


「今日は混沌が濃いから、そんなところで寝てるとさらわれちゃうぞ」


 犬猫のような動物にとって、混沌は人間以上に脅威だ。彼らは夜になると橋の下に群がり、吹きすさぶ混沌を朝になるまで耐え忍ぶ。よく見ると、中々に可愛らしい子犬だ。混沌に溶け込みそうな黒い毛なみに、小さな目がとてもチャームで、口元が髭で隠れているあたりは、犬好きなビアンカなら抱きしめたくなるくらいだろう。

 君主宮殿で僕を出迎えたのは、リータだった。


「それは残念だ。フェリチタ御嬢様も悲しまれるだろう。考えなおすつもりはないか?」


 僕の決心が変わらないことを伝えると、リータは寂しそうに目を伏せた。


「今は、伝えられない。御嬢様の心は、これ以上何かを喪うことに耐えられない。だから、これをお伝えするのは、しばらく先になるだろう。それまで気持ちが変わることがあれば、いつでも戻ってきてくれてかまわない」


 いたになく細い声が、フェリチタの哀しみの深さをものがたっていた。



            * * *



 リータに別れを告げて宮殿を後にしようとしたところで、意外な人物と出会した。


「あら、エリコ。こんなところで何をしていますの?」

「それはこっちの台詞だよ。アンジェラこそ、君主宮殿に一体何の用だよ?」


 それこそ愚問であるというように、アンジェラはスカートの端をつまんで見せた。一目で給仕とわかる格好から、彼女が宮殿に雇われたことを理解した。


「調度よかった、エリコ。これから休憩なんですけど、ご一緒して下さる?」


 そう言いつつ腕を組んできたのは、拒否を許さないということだろう。どうせアンジェラのことだ。ここでも給仕仲間にはぶられているに違いない。

 光輝く「飛び立つ者達の門ポルタ・ディ・パーチェ」を遥かに望める丘の木陰に、僕たちは腰を落ち着けた。


「何で給仕なんかやる気になったのさ?」


 アンジェラの性格からすると、最も縁のない職種だと思っていただけに、意外だ。


「勿論、天使の街が近いからですわ」

「そりゃまあ、距離的にはね。アンジェラはどうして天使の街に行きたいの?」

「エリコは行きたくないんですの?」

「そりゃあ、いつかは行ってみたいさ。でもそんなのよぼよぼのお婆ちゃんになってからに決まってるだろ?」

「そうでもありませんわ。天使からの手紙さえ得たなら、ポルタパーチェを潜れますもの」


 確かに若くともポルタパーチェを潜る者はいる。以前、足を引きずってポルタパーチェを目指す青年を見たが、彼もその類だ。


「でもそれと給仕をやることは別だろ?」


 僕の問いに、アンジェラはあからさまに溜息をついてみせた。


「エリコ、あなた本当に何も知らないんですのね? 私が本当にただの給仕をやっているように見えて?」

(何を言っているんだ。こいつは……)


 相変わらずのアンジェラ節に辟易してきた。


「理解していないようですわね。でも、いいですわ。ヴァレンティーナの高貴な血筋について、庶民に語っても理解できないでしょうから」


 何だろう。どこかで聞いた名前だ。しかもほんの少し前、つい最近のことだ。


「天使の街のヴァレンティーナ?」


 そう――ニッチの話に、確かこの名前が出てきた。名前からして女の人のようだが。


「何処で知ったんですの? それ、誰に聞いたんですの?」


 アンジェラがいきなり僕の胸倉をつかんで揺さぶるものだから驚いた。


「マンマに? マンマに聞いたんですの?」

「いや……違……ニッチに……ニッチに聞いたんだ! 放せ、アンジェラ!」


 思わず突き飛ばした。それでもアンジェラは興奮冷めやらぬらしく、未だに信じられないといった風に僕を見ていた。寒気。微かにだが感じた。何故だろう。今、とても不安だ。


「ヴァレンティーナの血筋って何さ?」


 ここまでされては僕も興味を持たずにはいられない。アンジェラは少しの間、僕の問いに答えずに呼吸を整えていた。だが決心がついたのか、ついに口を開いた。


「憶えておきなさい、エリコ。私は、アンジェラ。あなたはエリコ。私はアンジェラ――天使アンジェラなのよ」


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