第六話「汝にかかる罪よ、軽かれ」(4)
葬儀の翌日、僕は君主宮殿に召された。そこで僕を待っていたのは、遺言によって喪に服することを禁じられたフェリックス様だった。
「よく来てくれた。座ってくれ」
そう言って、長いテーブルの端に座したフェリックス様は僕に促した。十席はあるテーブルのどこに着けばいいか迷っていると、執事長のニッチが案内してくれた。その間、フェリックス様に観察されているような気分になった。
「早速だが、頼みがある」
「頼み……ですか?」
案の定、そう――リディアのことだと思った。あれについて訊かれるのだと思い、体が震えた。名指しで宮殿に呼ばれた時に、覚悟はしていた。だが、僕のような非力な餓鬼に、しかもルーナで最も偉大で、最も強力な一族を相手に、何の覚悟をしろというのだ。
「ビアンカのことだ」
ふっ――と、息が漏れた。半ば安心だったが、緊張から解放されるとともに、少し不愉快になった。父の葬儀が終わって間もないというのに、この人は女のことを考えている。
表情に出ていたのだろう。フェリックス様は僕の心を見透かしたように弁解を始めた。
「そうではない。父上は私に喪に服すなと遺されたが、そのようなこと、子に許されるはずがない。だが、君主競争は続行せねばならない。私か、ヴィルトか、ニッコロか、それともクリュプトンか――次代のプリンチペを決めねばならない。それでだ。以前、私はビアンカに約束をしたのだ。古式に則って婚約の証を贈ると」
「人目につくとまずいから、僕に渡せと仰るのですか?」
僕の知るフェリックス様は、一言でいうと、ずるをしない人だ。ヴィルトだってそうだが、フェリックス様はプリンチペの長男ということで、街の誰よりも高貴な地位にいらっしゃるだけに、余計に気を使っておられたのだ。「ずるをしていない」ように見せかけることに。
(化けの皮が剥がれた)
そう思った。こんな男に嫁いで、ビアンカは幸せになれるのだろうか。
不敬罪に問われてもおかしくない罵詈を投げつけた僕に対して、フェリックス様は――当然だが――初めて不快を示した。勿論、ほんの一瞬眉をひそめる程度のささやかなものだったが。
「勘違いをしないでくれたまえ。わざわざお前を呼んだのはビアンカに伝えて欲しいことがあるからだ」
「伝える?」
「私の父は偉大な人だった。仮に実の父でなかったとしても、私は、身分や階級を越えて高貴な者が果たすべき義務を完璧にこなしたプリンチペ・マッシモを、誰よりも深く尊敬しただろう。だが、今の私は喪に服している時間はない。このような重要な時期に、それが私の最愛の人のためであっても、婚約に浮かれることがあってはならないのだ。本来なら、今日、彼女に婚約を誓う『剣の中の剣』の指輪を贈るはずだった。だが、それは出来ない。ヴィルトが敵だからではない。ヴィルトが従者以前に友であり、互いにルーナの明日を担う者であるからこそ、私は君主競争に最大の敬意と、決心をもって臨まなければならないのだ。彼女には、それを伝えて欲しい。私が君主競争に敗れれば剣を受け取るつもりはないと彼女が言うのなら、悲しいが、それでもかまわない」
要するに、婚約を延期してくれと言うのだ、この男は。
「ビアンカなら、きっと理解してくれるでしょう。ですが、何故僕に?」
「ヴィルトが私に婚約を勧めるのだ。仮に候補者の妹と婚約関係になったとしても、君主競争における障害になどならない。むしろ慶事であるのだから、『祝うべきは祝え』という父の遺言に沿うものだと。だが、彼には私の決心を理解できても、政治の機微がまだわかっていない。候補者同士で姻戚関係を結ぶことは、たとい我々に一切の不義と不正がなかったとしても、ルーナの歴史に悪しき前例を残すことになるだろう。私としては、我が友ヴィルトとの関係を壊したくはない。彼の頭越しに、ビアンカを説得することは良い方法とはいえない。であるから、ビアンカの第一の親友であるエリコ、お前に頼みたい」
本音が出たというべきか、フェリックス様も体面が気になるらしい。そもそもフェリックス様がビアンカに婚約を持ちかけたのは君主競争が始まったからだから、彼の言い訳は詭弁に思える。何故だろう。今まではこんなこと、全く気にもならなかったか、あるいは気付かなかった。
――旅の終わりには、確かなものだけが残る。
リディアに旅立つ前、グランデ・マッシモが仰った言葉を思い出した。
「わかりました。ビアンカには必ず伝えておきます。それと、只今の無礼をお許し下さい」
「気にしていない。お前が誰よりもビアンカを思っていることは、よくわかっている。だが私の気持ちもわかって欲しい。父上は本当に偉大な人だったのだ」
フェリックス様を見た。汗ひとつかいていないが、一安心といった顔だ。簡単に用件だけ言いつけて終わるつもりが、思わぬ反撃に遭い、多少ながらも驚いたという顔でもある。
フェリックス様が席を立ち、公務に戻ろうというところで、僕は本当にこれ以外の用件が存在しないことを知り、小さな衝撃を受けた。
(訊かないの? リディアのこと。知りたくないの?)
考えればグランデ・マッシモがリディアの生き残りを保護しているというから、必要な情報は全て彼らの手の内にあるのだろう。いや、それ以上にフェリックス様は僕があれを見つけたかどうか、気にならないのだろうか。もしそうで、今のやり取りの中で静かに僕を観察していたのなら、彼の冷徹さは驚嘆に値する。
「あ、あの! フェリックス様!」
「どうした?」
まずい――と思った。今、僕の喉元まで出ている言葉は、僕が想像しているより遥かに危険だ。言ってはならない。言おうとしたことに、気付かれてはならない。
「フェリチタ御嬢様もビアンカを慕っておられます」
自分でもわけのわからないことを言っていると気付いた。だがこれは、先ほどフェリックス様に頼まれる際に、にわかに浮かんだ疑問でもあった。
「フェリチタは体も弱いが、心はもっと弱い。今、あれは――あるいは私以上の悲しみに暮れている。肉親とはいえ、ものを頼める状態ではないのだ。リータが慰めているが、出来ればお前も顔を出してやってくれ」
フェリックス様が退室された後、僕はしばらく席についたまま、テーブルの木目をじっと眺めていた。自らがとった不遜な態度に、今頃恐怖が追いついてきたのだ。
* * *
「……大丈夫ですか?」
ニッチの声に気づいたのは、彼が三度ほど僕に話しかけた後らしい。
「執事長……」
「ニッチでよろしいですよ。ただの執事ですから、屋敷内ではあなたとさして違わない身分です。さてエリコ様、旅疲れの癒えぬ内に、我が主の願いを聞いて下さって感謝しております。よろしければ、お帰りの際は馬車をお使い下さいませ」
「それは……ありがとうございます」
ニッチは不思議な人だ。君主宮殿には結構歳老いた給仕も働いているのだが、その中でも最古参で、カタリーナお嬢様に至っては、物心付いた時にはニッチに世話をされていたらしい。
フェリックス様の養育も任されていて、噂では先代プリンチペであるグランデ・マッシモですら、彼に乗馬の仕方から教えてもらったという話だ。勿論、誰よりも宮殿のことに詳しく、フェリチタと話しているときに何かわからないことがあれば、リータあたりが、
「ニッチなら知っているかもな」
と言い出すことがあった。
「ニッチはリディアについてよくご存知ですか?」
ほんの少しだけ、つつくつもりだった。相手の反応をみて終わり――そのつもりだったのだ。だが、彼の答えは僕の想定を遥かに超えていた。
「ここ二年ほどは足を運んでおりませんが、稀に公務で赴くこともありました。元老院議員にヴィンチェンツォという方がおられたのですが、昔から良い将棋仲間でした」
ヴィンチェンツォ――と聞いて、背中からどっと汗が噴き出るのを感じた。聞き間違いではない。ヴィンチェンツォだ。ニッチは確かに、そう言ったのだ。
「ヴィンチェンツォ議員の息子について、何かご存知ですか?」
「息子ですか。確かに彼には一人息子がいました。銀髪の美しい好青年です。犬が好きで、彼の飼い犬がじゃれて何度も駒を倒されました」
気が付けば、ニッチが僕の瞳を覗き込んでいた。それはすぐに柔らかく曲がり、懐かしさを伴う笑みへと変わったのだ。
「エリコ様がヴィンチェンツォ議員のお知り合いとは意外でした」
好々爺とはこの人のためにある言葉なのだろう。だが、僕の心は彼に言葉に絆されるのではなく、より張り詰めて行った。
「リディア出身の知り合いがいるんです。彼がヴィンチェンツォ議員の息子の安否を気遣っていましたから。そうだ。ニッチ、どうにかしてリディアから逃げ延びた人達とお話ができませんか?」
こうなれば、もう訊けるところまで訊いてしまおうという気にもなる。ドージェ邸にさえ触れなければ、そこまで危険な話題ではないはずだ。
「それは、できません」
案の定、一蹴。当然だ。ルーナの者が彼らと面会することは禁じられている。
(えっ?)
疑問。
(どうして駄目なの?)
空恐ろしい想像が頭に浮かぶ。だが、やはり辻褄が合ってしまう。
「エリコ様が望まれるなら、彼らのところへお連れしましょう」
最初、彼が言ったことを理解できなかった。僕があっけに取られている間に、ニッチは歩き出してしまった。




