第六話「汝にかかる罪よ、軽かれ」(1)
揺らめく火をずっと見ていると、自分が何者なのか忘れそうになる。
火を囲んで向こうのクリュプトンは、相変わらず何も話さない。
こちらから訊きたい事はある。
――どうしてリディアに行ったの?
だが、その答えは僕の手の中にあった。
恐らく僕は、クリュプトンが君主競争に乱入してまで皆に伝えたかったことを知った。未だに信じられない。口に出すのも憚られることだ。彼は候補者ではなく、告発者だった。
――君はロレンツォなの?
思い切って訊いてみたいものだが、それをすると、何故かクリュプトンが何処か遠くへ行ってしまうような気がした。彼が罪人であるのなら、明かすべきではない。
元首邸から拝借した羊皮紙だが、どうやらプリンチペ・マッシモへの親書らしく、ラクリマの取引について書かれていた。リディア産のラクリマをもっと買ってくれといった内容だった。あんな質の悪いものはルーナの貴族には無用だろう。安ければ下層の住民が買うかもしれないが、今の時点では関税が高くてドージェの思うとおりに売れないらしい。
わずかに吹く混沌が焚き火に当たり、パチリと音を立てた。それが妙に心地よくて、僕は甘い世界に誘われてゆくのを感じた。
* * *
クリュプトンがいる。焚き火はまだ消えていない。その向こうに彼はじっと立っている。
もう一人、誰かがいる。ヤコポだ。
(よかった。逃げられたんだ)
炎が揺らめく。二人が気になるものの、僕の視線は無意識に心地よい揺らぎに向かう。
ふと、大きな影が空を覆った。混沌が下りてきたのか、視界が暗い。その暗さの中に長細い光の筋を見た。鈍い光だ。まどろみが全ての疑問を覆い隠そうかというところで――
(あれは……槍だ!)
僕が「串刺し」と名づけた怪異の王。それが眼前にあるのだ。
(クリュプトン……逃げて……!)
頭の後ろの方がすぅ――と寒くなった。体が痺れて指一本動かない。僕は声にならない声で、彼の名を呼び続けた。やがて、影がクリュプトンすらも覆い隠そうという時、全ての束縛が解かれた。
「わぁ――っ!」
目の裏に鈍い痛みが走った。両の目が暁光をまともに浴びたのだった。跳ね起きた僕は、朝の淡い光の中にあった。
「夢……か……」
微かな混沌ですら寒いと感じたのは、僕の顔が汗でびしょ濡れになっていたからだ。
(そりゃ悪夢も見るさ……)
プリンチペ・マッシモは僕に旅を勧めた。必ず得るものがあると。それがまるで素晴らしいものであるかのように語っていた。だが、蓋を開けてみれば、それは恐怖と衝撃の連続であり、恐ろしい陰謀の証拠でさえあった。この旅がルーナに何をもたらすのか、僕には想像もつかない。だが、それが災い以外の何ものでもないことは確かなのだ。
震えを噛み殺しながら、周囲を見渡した。今日は少し混沌が濃いが、旅に支障はないだろうと思い込んだ矢先、信じられないものが目に飛び込んできた。
大地を穿つような巨大な爪痕があった。寝る前には確かになかった。それが毒王のものであることを、僕は直感した。
* * *
旅は、僕が思っていたよりもゆっくりと時間が流れ、僕が期待していたよりも遥かに早く、事態が変転する。クリュプトンと僕は、馬を歩かせてさえいれば必ず目的を達する旅路を、快速で走り抜けた。地面には、巨大な足跡。しかも新しい。
「毒王だ」
それはリディアの方向から、ルーナに向かって延々と続いていた。
ルーナはリディアとは違う。折りしも君主競争の最中、毒王に対する士気が上がっているから、リディアのように不意打ちを喰らうような失態はないだろう。だが、それ以上に不安なのが、ラクリマをものともしない「串刺し」の存在だ。
「急げ! 急げ!」
馬を鞭打ち、道を急いだ。クリュプトンは馬の扱いに優れており、馬は軽快に走っている。この人は本当にリディアの貴族かもしれない。
ほぼ一日半、強行軍を続けた結果、僕とクリュプトンはルーナ市壁を見た。
戦いは、始まっていた。




