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第五話「スパーダ・ネラ・スパーダ」(3)

「元老院議員にヴィンチェンツォという男がいる。その息子ロレンツォが前にドージェの暗殺を企んだとかで、父親共々捕らえられた。処刑されたとは聞いてないから、あの日にはまだ地下牢にいたと思う」


 つい先ほどまで膝を抱えて震えていたとは思えないほどに、ヤコポは勇んで歩を進める。まるで別人のようだ。


(宮殿へ……)


 短剣を握った右手が汗だくなのも無理はない。つい先ほど、宮殿の前で毒王を見たのだ。しかもあれは、宮殿の内部へと消えていったから、今そこにクリュプトンを捜しに行くのは自殺行為でしかない。


「ちょっと待って!」


 ヤコポは止まらない。まるで、何かに憑かれたように一直線に宮殿へと向かう。表情には、歓喜の色。それもそうだろう。彼はリディアが滅んでからこのかた、ただ一人の生き残りという孤独の中にあったのだ。同胞に会えるともなれば、我を忘れもするだろう。


「その、ヴィンチェンツォの息子は本当にドージェを殺そうとしたの?」


 嫌な予感がする。クリュプトンの素性は、暴いてはいけないのではないかという――


「そのはずはない。ロレンツォは(カーネ)が大好きなんだ。犬が好きな奴に悪人はいない。ロレンツォの親父だって次期ドージェに相応しい立派なお方だ。彼らはドージェに()められたんだよ」

「嵌められた……」

「元老院はそんなところさ。畜生! ロレンツォは本当にいい奴なんだ。この間も、俺に面倒を見てくれと、子犬(クッチョロ)を預けてきた。今思えばおかしかったんだ。あいつ、自分が嵌められるって知ってたんだ!」


 ヤコポからはこれ以上詳しい話を聞けなかった。宮殿に着いたからだ。

 毒王の気配はない。混沌は少し濃いから安心はできないが。

 鉄の柵がひしゃげている。恐らく毒王の仕業だろう。それを横目に宮殿内部に入ろうとしたところ、一乗の馬車が目に付いた。宮殿手前の道で横転している。馬車を引くはずの馬の姿は無い。目を引いたのは、馬車が積んでいたであろう荷だ。石畳に叩き付けられて割れた大瓶から、仄かに輝く白濁色の液体が漏れ出て、固まっていた。


(ラクリマ?)


 ナメクジが通った後のように、それは馬車が走ってきた道をほのかな光で示していた。まるで走りながら丹念に道端に撒いたかのように、それは路地の向こうまで続いていた。

 光を逆に辿る。ラクリマは宮殿の門の前まで来て、突然絵の具をぶちまけたように地面に溜まっている。


「ここは――」


 確かなのは、ここは先ほど僕が見た毒王が座っていた場所だということだ。


(ラクリマを嫌がらずにここにいた?)


 信じられない。ラクリマは毒王の数少ない弱点であり、プリンチペ・マッシモの属する名門である剣の家系は、その高祖がラクリマを塗った聖剣で毒王を討ち果たしたことから始まったのだ。


(となると、これはラクリマじゃないのか。一体何だろう?)


 そのはずがない。現に僕の手にはラクリマを塗られた短剣がある。眼下にぶちまけられた白濁色の物質は、短剣に塗られたものと比べてわずかに黄色く変色していて、臭いがきついが、これがラクリマであることには違いない。


薑撞ゼンゼロみたいな臭いだな)


 やがて、僕とヤコポは宮殿の内部に入った。

 壮麗さではルーナの君主宮殿には劣るが、リディアの元首宮殿は百人からなる元老院議員が一同に会して都市の大事を決定する広大な議場があり、偉観と呼ぶに相応しいものがあったそうだ。勿論、今はもぬけのからで、今の僕の感想は想像力に頼むところがある。

 議場を抜けると代々のドージェが住まう私邸がある。街の支配者の邸宅にしてはえらくこぢんまりとしていて、とても君主宮殿には及ばない。


「俺は地下牢を見てくる。エリコは家の中を頼む」


 そう言って、ヤコポは庭先にある地下への階段を下りて行った。

 僕は開け放たれたままの扉を潜って、ドージェ邸に入った。ルーナの君主宮殿には真っ赤な絨毯が敷かれていたが、ここには大理石のタイルが敷かれた床がある。屋内は暗く、混沌を縫ってわずかに窓から差し込む陽光を頼りに、僕は壁伝いに内部へと進んだ。


「クリュプトン! いる?」


 階段を上って二階へと進む。通路の扉は全て開け放たれていて、窓からわずかに混沌が吹き込んできた。


(混沌がこんなに低いところまで下りてきてる。急がないと――)


 通路の奥は真っ暗で、行き止まりと思える場所に扉があった。僕は通路の壁にかかった燭台を見つけると、鞄から火打ち石を取り出して、ラクリマに灯をつけた。

 燭台を持って扉を照らした。何かの花を象った紋章がかけられていた。材質はよくわからない。黒い石英のように見える。


「リディアのラクリマは質が悪いなぁ」


 灯りが弱い上に明度が安定しないものだから、目が悪くなりそうだ。屋外でならもっとよくわかるだろうが、ルーナのラクリマと比べてわずかに黄色がかかっているように見える。先ほど横転した馬車で見かけたのと同じものだ。

 何やら頭の中で引っかかるものがあるが、上手く整理できない。

 やきもきしながらも、僕は目の前の扉を押した。

 埃臭い。この部屋が特別に暗いのは、他に比べて窓が小さいためだろう。猫一匹が辛うじて潜れる大きさの窓が壁の上部につけられている。

 書斎なのか、部屋の中央に大きな机があった。そしてそれよりも早く、僕の目に飛び込んできたものがあった。

 (スパーダ)

 全く、他の何でもない。見間違えようのないものが、机の椅子に、水平に突き刺さっていた。椅子には、確かに何者かが座っていた証として、金縁のベストが垂れ下がっていた。剣は、その胸を貫いていた。密閉されているように見えても、この部屋にまで混沌が侵入していたのか、死体はなかった。


「う……うぁ……」


 ここが殺害現場であることに気付くまで、数秒かかった。机の上に開かれたままの羊皮紙を見た時に理解した。そこにはこうサインされていたのだ。


ーードージェ・クラウディオ。


 ここは間違いなく、リディアのドージェの書斎だ。その椅子に何故、剣が突き刺さっているのか。想像を逞しくせずとも、理解できた。ドージェはここで何者かに殺されたのだ。

 僕は剣の柄に手をかけ、椅子から引き抜いた。


「これは――」


 柄に彫られた印に目が行ったとき、この世で最も恐ろしい声を聞いた。


――くぉぉ……ぉおん。


 毒王だ。かなり近い。僕は先ほどの羊皮紙を手にとって鞄に詰め込むと、貫かれたベストで引き抜いたばかりの剣を包み、それを持って、階下に急いだ。

 一階にはヤコポの姿があった。


「エリコか?」

「ヤコポ、地下牢はどうだった?」

「ああ、それなんだが……」


――お……ぉぉお!


 獣声。


(何の?)


 毒王。


(まさか……)


 そう思う方がおかしい。

 瞬間、強い混沌が吹くとともに眼前を真っ黒い影が横切った。


「う……」


 悲鳴にしてはあまりにも小さく途切れた声。気付けば目の前には何もなかった。瞬きする前までには確かにあったヤコポの姿さえも。

 右手にはラクリマの短剣。左手には、忌まわしいドージェ殺しの剣。体中がこわばり、僕はそれらの柄を無意識に握り締めた。


「ヤコ――」


 一瞬だけ、右方を見やった。きゅう――と、鳩尾みぞおちを突き上げられる感覚がした。怪異は先ほどの毒王と違うものなのか、背に槍は刺さっていない。この廃墟には、今は何匹もの毒王が徘徊しているという事実に、頭が真っ白になった。


(助からない!)


 助かるはずがない。


(助けに行っても死ぬ)


 あまりにも確かな予感。ならば――全てをいっぺんに感じると同時に、はしった。

 気付けば、先ほどより遥かに混沌が下りてきていて、街は夜と思しき暗さの中にあった。


(中央広場へ!)


 だが、僕はリディアの住人ではない。この闇の中で走りきる自信がない。道に迷ってうろうろしていれば、今度こそ僕が毒王の餌食になる。餌食にならなくとも、狙われただけで破滅が確かなものとなる。

 宮殿を飛び出たところで、足を滑らせて勢いよく転んだ。背後ではまだ、あの恐ろしい獣声が鳴っているというのに。


「痛っ!」


 擦り剥いたのか、膝が熱い。血が出たのだろうか。確認する暇はない。立ち上がらなくては――そう言い聞かすが、恐怖で足がすくむ。


(止まれば死ぬ! 止まれば死ぬ! 止まれば死ぬ!)


 恐怖で僕の中のあらゆる可能性が爆散する。パニックが大きな口を開いて、僕の鳩尾をさする。それでも立とうとしたところで、地面についた手が予想外に滑らかな感覚に驚く。


「ラクリマ……」


 宮殿に入る前に感じた毛筋ほどの疑問。道の向こうまでこぼれているこのラクリマは、一体何処まで続いているのだろう。

 これがひとつの符合をもたらすことを、僕は予感した。

 大きく深呼吸した。ほんの少しの間、心臓の鼓動を数えた。そして僕は鞄から火打ち石を取り出すと、地面にぶちまけられたラクリマに灯をともした。

 闇の中に、光の道が浮かび上がった。僕は道を辿って走った。このラクリマの道が、何処へ続いているのか。それは、僕の生死に直結しているが、それ以上に重大な意味を予感させる。ラクリマは毒王の弱点だ。これに間違いがあると、僕はルーナの歴史そのものを否定しなければならない。だが、その例外を僕は実際に目にしてしまった。先の「串刺し(イル・トラフィット)」は、ラクリマを好んで――恐らく、喰っていた。


「ハッ……ハァッ……」


 息が続かない。走りながらも、足がガクガクと震え出した。


「ひっ!」


 背後に、生暖かい息を感じた。右手に持ったラクリマの短剣を握り締めた。これで斬りつけて退散する相手であれば、誰が街の周りを市壁で覆うなどと言い出すものか。


「ひっ……あぁぁ!」


 思考が全ての選択を拒む中、僕の体は、振り向き様に短剣を突き立てることを選んだ。

 瞬間――体が衝撃を感じた。気付けば、僕は馬上にあった。


「クリュプトン!」


 混沌が吹いて頬を打つ。クリュプトンが背後から走り寄り、僕を抱えあげたのだ。


「走って! ラクリマの示す通りに!」


 無用な心配をかけた彼に対する文句がいくつも浮かんだが、それらを全て投げ捨て、残ったものを吐き出した。腋の間から後方を覗き見た時、体中から汗が噴出すのを感じた。

 そこには巨大な目があった。いや、生物にあるべき光の全く灯らない目ーー真夜中の井戸のような真っ黒な穴と読んだ方が相応しいだろう。その毒王の鼻が馬の尻尾に触れそうな位置まで来ていたのだ。背に突き刺さった槍、こいつは街に入った時に最初に見かけた「串刺し」だ。


「くっ……来るな! 来るなぅわぁぁッ!」


 思わず目を逸らした。夢中でラクリマの短剣を振り回した。それが微かな手ごたえを感じた時、心臓を飲み込まんばかりの威圧感が、消えた。

 再び後方を見やる。「串刺し」が離れていく。いや、止まっているだけだ。


(毒王を……斬った? ラクリマの短剣で? それで怯んだの? どうして効くの?)


 途中、光の道が途切れるのを見た。市壁の門を走り抜けた時、僕はクリュプトンの背にしがみ付きながら、左手に持ったドージェ殺しの剣を見た。剣の柄に、剣を模した刻印があった。「剣の中の剣スパーダ・ネラ・スパーダ」は、プリンチペ・マッシモまで連綿と続く剣の家系の家門である。




第五話「スパーダ・ネラ・スパーダ」了

第六話「汝にかかる罪よ、軽かれ」へ続く


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