第一話「毒王」(2)
西門から西区教会は近い。市壁近くを通るアリシア通りを少し東に向かうだけで着く。
教会に戻ってじじいに挨拶するとすぐにゴミ捨て場に戻る。じじいは神父らしからぬ短気でもって僕を問い詰めようとしたが、それはピオに任せた。
ちょうどアリシア通りまで戻ったところで、僕はある一団と鉢合わせた。
兵装。明らかに自警団ではない。刻印のついた華美な鎧。その中でも白銀の鎧に身を包む男が、馬に乗ってアリシア街道を軽快に走る。
先頭を駆るは黄金の髪。プリンチペ・マッシモの長子フェリックス様だ。ごつい父親には似ずに母方の血が濃いのか、街中の女の恋を奪うほどの美貌が、鎧の留め具ひとつですら華やかに魅せる。
「あっ、エリコ!」
今日はよく名前を呼ばれる。まあ、いつもより少し多い程度だが。
「ヴィルト?」
僕はフェリックス様の馬を牽く男に駆け寄った。相変わらず、眠そうな顔をしている。
「無事だったのか。毒王は?」
小走りのまま、ヴィルトと並んで話す。
短く波打つ短髪はフェリックス様とは比べようがない。二人が並ぶと、決して容姿が優れていないわけでもないヴィルトも、もはや形無しだ。背が小さいのも泣き所だろう。
「もういなくなったと思う。今、トマソが市壁を調べてる」
「そうか。わかった。ビアンカに顔を見せてやってくれ。今頃、お前の話を聞いて家を飛び出してるかもしれないから――」
「ヴィルト」
頭上から落ち着いた雅美のある声。フェリックス様だ。ヴィルトは彼の眼光にさらされているのを知ると、口をつぐんだ。
「申し訳ありません、フェリックス様」
と、謝ったのは僕だ。だが、フェリックス様はこれくらいで怒るような人じゃない。
「よい。今回は街の者に犠牲が出なくてよかった。だが私は道を急がねばならない。決して毒王に市壁を越えさせてはいけない」
ヴィルトは僕に目配せだけ残して、フェリックス様とともに道を急いだ。僕を引き止めて話を聞かなかったのは、トマソが綿密な報告を既に行ったのだろう。彼らプリンチペ親衛隊は、本来プリンチペ・マッシモ直属の部隊なのだが、最近はプリンチペのお体が優れないため、フェリックス様が公務の多くを代行しているようだ。
僕は苛立ちを隠しながら、彼らに続く騎士達が路地の向こうに消えるまで見送らねばならなかった。
* * *
(ゴメンよ、ビアンカ。あとで会いに行くから)
心中で友人に詫びつつ、僕はつい先ほど通ったばかりの道を引き返した。
ゴミ捨て場の前。積み重なるゴミにかぶせられた襤褸が、誰にも気付かれなかった証でもあった。僕は左右を確認した。誰かに見られるのだけは避けたい。夜に来てもいいが、それまでこの人が生きているという保障はない。
襤褸を取り去った瞬間、僕は思わず息を呑んだ。
それは、子犬のようにそこに横たわっていた。足を曲げ、少しだけ丸まるように。白銀の髪から漂う微かな香りが、悪臭を飛び越えて僕の鼻に届く。瞼は安らかに、唇は呼吸を拒むように、閉じている。美しい。この人からはフェリックス様とは違う何かを感じる。
何だろう、何だろう――と僕が感覚の正体を突き止めようとしている間に、その人は薄っすらと目を開け、まるで暁光にさらされたように僕を見た。
唇が、声なき言葉を紡ぐ。
――生きていたか。
感じた。確かにこの人は、僕を祝福していた。
「君、運がいい」
祝い返した。僕は男に手を差し伸べた。
「うわッ!」
生ゴミがぬめったのか、男はわずかにバランスを崩して、僕に寄りかかった。
「だ、大丈夫?」
一瞬、頭の中が真っ白になった。背丈の違いがそうさせるのか、端から見れば僕が男に抱きとめられてるように見えただろう。
こんなこと、初めてだ。ヴィルトだって、フェリックス様だって、ピオだって、トマソだって、こんなこと、僕にしなかった。
「――ッ!」
思わず、僕は男を跳ね除ける。当然だ――当たり前だ。ビアンカだって、アンジェラだって、そうするに違いない。君主宮殿の奥で宝物みたいに大事にしまわれているフェリチタ御嬢様だったら卒倒するに違いない。いや、会ったことはないが。
違和感。思い出した。男は負傷しているのだ。毒王に跳ね飛ばされて、重症を負っているに違いない。今にも消え逝く命なのだ。気の毒なことをした。
更に違和感。男は、平然と僕に向かって立っている。見たところ、喉以外の外傷はない。
そして男は、小さく片足を曲げ、右手で胸を抱くようにして、僕に一礼したのだった。
――失礼、お嬢さん。
とでも言わんばかりに。
「あ……」
思わず――
「アハハッ……」
声に出た。それが、僕の率直な感想だった。
「面白いよ、君。名前何ていうのさ? 僕はエリコ。西区教会のエリコ」
男はうん、と一度頷いた。「あなたの名前を心に刻みました」とでも言うように。あるいは、これは荒唐無稽だが「知ってるよ」とでも言わんばかりに。まあ、市壁から落ちた時は何度も名前を呼ばれていたから覚えそうなものではある。
しかし喋らない。今度は口も動かさない。もう、僕も気付いている。男は喋れないのだ。
「何だ。君、クリューソスか。外から来たことといい、毒王に襲われて生きていたことといい、不思議な奴。そうだ。君は不思議だ」
クリュプトン。とりあえずは彼をそう呼ぶことにした。今は彼のことを他の人に見られるとまずいから、本当の名前はあとで教えてもらうとしよう。
「さあ、クリュプトン。今は西区教会に行こう。先に言っておくけど、君はあんまり安全な状態じゃないんだ。間違っても誰かに気付かれないようにしなきゃ。それに怪我もあるし――」
外傷はないようだが、無傷なはずがない。とにかく今は、この場を離れることが先決だ。
クリュプトンの手を取る時、僕は一瞬躊躇した。何となく、今さっきのことを思い出したからだ。すると、クリュプトンの方が僕の手をつかんできた。
強引ではない。やさしく、しかし力強い。握手のようだった。
「アハッ……」
僕はまた、笑ってしまった。