第五話「スパーダ・ネラ・スパーダ」(2)
男の名はヤコポ。仕立屋の息子で、エミリアという店名だけで貴族に通じるほどには売れていたらしい。歳を訊いてみると、僕より少し上の十九歳らしいのだが、表情のせいか三十路ほどに見える。
「悪夢だった」
近くの民家に入り、僕は埃だらけの椅子に股がって、膝を抱えたまま床に座るヤコポを見ている。
「何があったの?」
訊かずとも、街の惨状を見ればわかる。だから僕の問いには、「どうしてこうなったのか」という意味も含まれる。
「……わからない。奴は突然現れたんだ」
ヤコポは頭を抱えたまま、何度も首を振った。あえて俗称を避けて「奴」と呼んでいるのが、彼の傷の深さを物語っていた。
僕は膝を抱いて震えるヤコポの肩に手をあて、自らがルーナから来たことを告げた。
「原因を調査しに来たんだ。僕の名前はエリコ。実はもうひとり仲間がいる。次期プリンチペ候補のクリュプトンだ。生存者はヤコポ、君だけ? 他にはいない?」
ヤコポがまた、首を振る。彼は僕が何か言うたびに、リディア滅亡の断片を口にする。僕はそれを脳内で丁寧に並び替えた。
ひと月と少し前、ルーナ市壁が毒王に襲撃された。僕はそこでクリュプトンと出会ったのだが、毒王と対峙した時、化物の口中に馬車ごと噛み砕かれた人の亡骸を見た。遡ること更に二日、リディアは毒王によって滅ぼされたのだ。
ヤコポが気付いた時には、既に市壁が突破されていたという。警鐘は鳴らなかった。避難の間もなく、市壁付近にいた数百の人間が毒王に食い散らかされた。
「本当に? 毒王一匹で滅んだの?」
「紊乱だ。紊乱は奴らの味方なんだ」
紊乱とは聞き慣れない言葉だが、話の流れからすると混沌のことかもしれない。
折りしも毒王に呼応するように空に広がる闇――混沌が低い位置まで下りてきて、人々の視界を奪ったのだろう。たまたまそうだったのかはわからない。外に出ていた人間はそれでパニックになり、奴と関係ないところで多くが死んだと思われる。
女、子供の中には群集に踏みしだかれて死んだ者も多くいただろう。先ほど僕が見た中には足跡付きのスカートもあった。
「君主……じゃなかった。元首はどうなったの?」
「知らない。貴族の奴ら、真っ先に街を飛び出して行ったらしいから、今頃他の街に逃げ込んでいるに違いない。奴ら、自分たちが逃げ延びるために警鐘を鳴らさなかったんだ!」
「そんなことが……。仮にも街の指導者が――」
「指導者でも! そうするさ! ルーナの連中も逃げる以外に何もできない」
――プリンチペ・マッシモはそんなことしない!
そう言いたかったが、何故か喉の奥が詰まったように、声を発しない。僕もまた、ヤコポほどではないにしろ、毒王の恐怖の片鱗を見た。あれの前では、あらゆる人智が砕かれるという確信にも近いものがあった。
(ヴィルト……)
真っ先に思い浮かんだのは、彼のことだ。毒王討伐を公言するヴィルトは、その恐ろしさを知っているのだろうか。本当に毒王を倒そうというのなら、何故、クリュプトンのようにリディアを訪れないのか。何故、毒王について知ろうとしないのか。硬い矛、鋭い剣に囲まれただけで、毒王を倒せると思っているのだろうか。
(いや、違う。ヴィルトはそんなんじゃない)
思慮の深さでいえば、街の誰よりも優れているヴィルトのことだ。きっと確信があってのことに違いない。それに、リディアはなんの準備もなしに毒王の襲撃を受けたのだ。入念に準備を済ませたルーナの戦士たちが彼らと同じ末路を辿るとは思えない。
「背中に突き立てやがった。奴め、俺の背中に!」
毒王の爪にひっ掻かれたのか、ヤコポが背中をまさぐる。先ほど見た時は大きな傷は見えなかったが、服が大きく裂けるほどの傷であったなら今頃彼の命はなかっただろう。
「ヤコポ、ルーナに行こう。ルーナには君の同胞がいる。ここにいても、いつか毒王に喰われるだけだ」
僕はヤコポの手をとった。あとは、いつもふらりといなくなるクリュプトンを探さなければならない。
* * *
嫌な気配がする。混沌が急に濃くなりだしたのだ。僕は肩掛け鞄の中から短剣を取り出した。以前、僕が毒王に襲われそうになったことを知ったリータがくれたものだ。ラクリマが満遍なく塗られていて、普通に使うには切れ味もあったものではないが、毒王対策としてはこれ以上のものはない。
「クリュプトンを捜さないと――」
恐らく迷子の達人である彼を探し当てるのは至難の業かもしれないが、昼間から毒王が徘徊するようなところでひとり動き回るのは自殺行為だ。
「連れとはぐれたのか?」
ヤコポは僕と話して少しだけ元気が出たようだ。先ほどまではしどろもどろで時系列もばらばらに話すから理解が難しかったが、今は顔色も良くなってきて僕もようやく人と話している気分になってきた。
「そうなんだ。こんな時に何処をほっつき歩いてるのやら――あっ!」
よくよく考えてみたら、クリュプトンはリディアの人間なのだ。彼にも家族がいたはずだろうし、それも考えずに迷子扱いした僕はあまりにも軽薄だ。
「ヤコポは見なかった? 銀の髪に、銀色のコートを着てる。背が高いから目立つとは思うんだけど――」
ヤコポは首を振った。毒王が徘徊している中での人捜しともなれば命がけだから、できれば芳しい答えを期待していたのだが。
(何してるんだよ、クリュプトン……)
ふと、僕の中の好奇心が甦る。
「クリュプトンはね、多分リディアから逃げて来たんだ。ヤコポの同胞だよ。心当たりはない? 銀髪なんて結構珍しいと思うんだけど」
「多分?」
「彼、クリューソスなんだ。拷問を受けたみたいに喉を怪我しててさ」
「拷問……?」
そこまで話したところで、僕は自分が不味い方向に話を向けていることに気付いた。これではクリュプトンを罪人だと言っているようなものだ。僕がどう取り繕うか迷っている間に、ヤコポの中で結論が出たようだ。そしてそれは僕が予想だにしないことだった。
「宮殿へ行こう。もしかすると、君のいう彼はそこにいる」