第五話「スパーダ・ネラ・スパーダ」(1)
プリンチペ・マッシモに今すぐ会えるのならと何度思っただろう。最初はほんの少し不満をぶつけてやろうと思った次第だが、二日と経たない間に彼の横っ面を殴りたくなった。
疲れる。疲れるし怖い。リディアまで三日だというが、とんでもない。三日もかかるのだ。疲労が蓄積するだけで憩いでも何でもない夜を、あと何度味わえばいいのだろうか。
茫漠たる荒野。市壁から見渡す限り、そこは完全な別天地だった。足を踏み入れるとしても、ほんのわずか、ルーナの明りが届く範囲しか、僕は知らない。
「はぁ……商人って凄い生き物だったんだなぁ」
彼らへの驚嘆がひとつ生まれるたび、新たな困難に出会った。混沌に怯えながら、進路の確認、馬の調子を見ての休憩、水場や薪の確保、馬のブラッシング。馬小屋の手伝いを何度もやらされたから、馬の扱いには自信があると思っていたが、混沌に怯えて寝付けない馬の世話の仕方までは習っていない。
とりわけ野宿の経験のない僕にとっては、夜は辛いものだった。眠れるわけもない。昼間は意地悪に太陽を遮るだけの混沌が、夜ともなれば周囲の闇に同化し、全く見えなくなる。普段は上空にあるものが、僕の肩にかかるくらいの位置に下りてきているのかと錯覚し、怖くなる。
「クリュプトン! クリュプトン!」
何度、彼の名を呼んだか。用もないのに、何度も、何度も、確かめるように。
クリュプトンは静かに僕の話を聴いてくれるが、時々、視線が物語るのだ。
――帰りたいのか?
僕は自らの弱さを恥じた。君主競争の場で、堂々と「リディアへ行く」と啖呵を切ったのだ。このままおめおめと帰るわけにはいかない。
静かだ。
静かなのに、酷い音だ。混沌が鳴っている。木々がざわめき、草は不気味に踊る。馬は時々嘶き、蹄鉄が土を叩く音が荒野の向こう側まで飛んでゆく。だというのに、僕の耳はかつてない平穏と、それと同じくらいの不安に満たされている。全てが同居して、いずれでもない。全てが表に現れ、しかも同時である。だが煩雑ではない。むしろ清々しい。そこには確実に恐怖が含まれているのに、この胸の澄みと、高まりは何だろう。
見えた。禿げた丘の向こう。リディアの街だ。
* * *
破壊された正門があった。市壁は依然、ルーナのそれに匹敵する威容を外から来る者に見せ付けるが、守るべき街が滅んだ今となっては、儚くすらあった。
「なんてこった……」
溜息。毒王が市壁を正面突破するなど、あってはならない事態だ。門を閉じるのも間に合わないほどに毒王に接近を許したのか。あるいは門を閉じられない理由でもあったのか。僕にはわからない。
正門に近づくにつれ、足が痺れたように、徐々に歩みが鈍くなる。冑、槍、手甲。毒王の侵入を食い止めるために勇敢に戦った者達の残骸が、門扉のすぐ傍に散らばっていた。損傷の具合から、彼らが一撃で破砕されたことがよくわかり、背に悪寒が走った。遺体が見当たらないのは、時折吹きすさぶ濃い混沌にさらわれたのだろう。
門扉を潜ろうかという時、僕は一度歩みを止め、中天を仰ぎ見た。
(日は……見えるか)
上空を支配する黒い奔流の中に輝く一点を見つける。
「よし、行こう」
混沌が薄いことを確認したところで、僕の横をクリュプトンが追い越していった。
誰もいない。滅亡から三ヶ月も経たずにこうも変わってしまうものか。家々の間に雑草が生い茂り、道端に服が何着も落ちている。毒王によって命を落とした人たちのものだろう。混沌が掃除をしなければ、より凄惨な光景が僕の前に広がっていたに違いない。
街の中央広場を少し外れたところに井戸を見つけたので、馬から下り、水をやった。そこから歩いてリディア元首宮殿の近くまで来た頃、突然、クリュプトンが僕の首根っこをつかんで草間に引きずり込んだ。
「わっ!」
思わず悲鳴を上げそうになった口を大きな手が覆う。
(何をするんだ? えっ、何を? え? えぇっ?)
突然、クリュプトンが僕の肩を抱き寄せた。驚きで何もできない間に、僕の眼は確かにそれを捉えていた。自覚した時、呼吸が止まった。
毒王。
禍々しい巨躯が、元首宮殿の正門に鎮座していた。まるでそこが自分の領土であると主張するように。
(巨きい……)
僕がルーナで見たものより大きい。リディアの兵士が勇敢に戦った証だろうか、毒王の背には一本の折れた長槍が突き立てられていた。この串刺しの毒王は、僕たちには気付いていないように、大きく欠伸をすると、陽光を嫌がるように宮殿の壁に歩み寄った。
「えっ?」
何かを見た。僕は、何かを見た。
(何だ?)
輝き。
(何処で?)
毒王。
(まさか……)
確かに。
毒王は、宮殿の壁の傍で蹲り、何かに顔をつっこんでいた。確かに、それは淡い光を放っていた。時に強く、それは自ら輝いていることを僕に主張するようでもあった。
(何か……喰ってる?)
貪るというよりは、大事に嘗め取っているように見えた。
突然、強い混沌が吹いた。塵が舞い上がり、顔を打つ。目を細めながらも、しかし毒王から視線を外すわけにはいかない。
何かに気付いたように、毒王の耳がピクリと動き、顔を上げる。
(気付かれた?)
混沌は毒王の方からこちらに向かって吹いているから、匂いで探られる可能性は低い。だが、気配を感じ取られでもしたら、二百歩はあろう距離も、毒王の前では無に等しい。
背筋が凍る。目を伏せ、傍にいるクリュプトンの手を探す。
いない。振り返る。いない。
何処へ消えたのか、クリュプトンの姿が全く見えない。つい先ほど僕を草間に引きずりこんだクリュプトンの姿が、無いのだ。
低く唸る声。毒王が何かに気付いた。それが僕であると想像したのは大袈裟ではない。
幸い、毒王は大きく跳躍して宮殿の向こうに走り去った。それでも、僕はしばらくその場を動けなかった。遭遇すれば終わる。毒王ほど確実な破滅はこの世に存在しない。
遠くから毒王の遠吠えが聞こえたところで、僕は音を立てずに立ち上がった。その時になってようやくというか、背後に人の気配を感じた。
「全く、やれやれだ。一体何処に行ってたんだよ、クリュプトン。心配したん――」
振り返った時、心臓の鼓動が一瞬、止まったようだった。僕の背後には、未知があった。
ボロボロの衣服。垢で黒ずんだ顔。生え散らかした髭に、うつろな眼差し。
げっそりと痩せ細った男が、僕の背後に立っていた。