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第四話「マッシモ・ノネ」(5)

 二日後、僕とクリュプトンは荷造りを済ますと、朝食も取らずに教会を飛び出した。


「おい、エリコ。こんな時間に何処へ行くんだ?」


 当然、じじいに見咎められる。


「リディアだよ。じゃ、行って来るね」


 走るしかない。じじいが眠気眼をこすりながら僕の言葉を反芻している間に、僕はクリュプトンの手をとって走り出した。ほんの三十秒ほど後に、後方から怒号が聞こえた。

 アリシア通りを一気に駆けた。次の路地を左に曲がれば西門というところで、僕は一息をついた。じじいは今頃、トマソあたりに声をかけて、僕を捕らえようと画策してでもいるだろう。トマソの家は教会より随分北にある。どう考えても間に合わない。

 余裕故か、息を整え終わった頃に、クリュプトンが口を開いた。


――黙って出なかった理由は?


 クリュプトンもまた、西区教会のジュリオ神父という男の半分ほどを理解していたが故に、僕に問いを投げかけた。


「じじいはね、ああ見えて責任感が強いんだ。僕はじじいの言うとおりにしただけだよ」


 珍しく、白銀の髪が小さく揺れた。クリュプトンが笑ったのだ。


――エリコ、君は悪い子だ。


 とでも言いた気に、僕をからかい半分で責める視線がそこにあった。それが感謝の裏返しであるのだと、僕は漠然と思った。

 西門を視界に捉えた時、僕たちの余裕は消し飛んだ。

 アルフォンソの姿が無い。

 無骨な、巨大な鉄の門がそこにあった。他には何もなかった。あるべきはずの荷馬車、あるいは三頭の馬、往復分の食料、まぐさ、水、何もかもがなかった。二人の門衛が眠たそうに突っ立っているだけだった。


(裏切った?)


 何故?


(許可が取れなかったんだ。僕と同じで――)


 あるいは、あり得る。

 途端に、満腔まんこうが後悔の念で満たされた。


(どうして、確認しなかった?)


 昨日の朝、アルフォンソから、馬も荷も準備が整ったという知らせを受けた。それで全ての段取りが終わったと思い込んだ。西門の通行許可も取れると聞いた。だがそれは、僕やアルフォンソのような子供だけでは入手不可能だ。後見人が誰なのか、聞いていない。

 アルフォンソと同じ名前の父親は大商人だ。無難に考えればフェリックス派だが、モニカとの交易に勤しむ商人故に、東区の人間であっても毒王討伐を公言するヴィルトにつくかも知れない。どちらにせよ、商人アルフォンソがクリュプトン派である可能性は限りなく低い。


(どうして、ここまで考えなかった?)


 舞い上がっていた。楽観していた。未来を、決め付けていた。


(どうする? 待つ?)


 このまま待っていても、じじいに捕まるだけだ。アルフォンソが現れるという奇蹟を、僕は待たねばならなかった。


「どうしよう……。ねぇ、クリュプトン。どうしよう……」


 おろおろと――みっともなく狼狽する。

 僕を追ってくるに違いないじじいに捕まれば、クリュプトンの君主競争は終わる。ただでさえ街の人間の信用など得ていないクリュプトンは、一度転べば再起不能と考えていい。たといそれが彼ではなく僕の不始末であっても。


「ああ、畜生……畜生畜生畜生!」


 どうしようもない。じじいに黙って出てくれば、まだ取り返しはついた。それが、僕は保身のつもりで自らを追い込んでいたのだ。これほど愚かな餓鬼が他にいようか。


「おい、お前」


 頭を掻き毟りながら、僕はいずれ来る破滅――というよりは大いなる挫折を嘆いた。


「そこの、お前」

「えっ?」


 振り向いた先には、西門の門番がいた。門番の中には顔見知りもいるが、僕に声をかけた人は、どうやらそうではない。


「お前、エリコだな?」

「えっ、あ……うん」

「アルフォンソとかいう小僧から馬と荷を預かっている。発行された許可証にお前の名があるが、間違いないか?」

「ま、間違いない!」


 思わず、口元から笑みがこぼれた。この瞬間の僕には、中年太り以外に表現しようのない門番の男が、ポルタパーチェの向こうに住むという慈悲深き天使に見えた。


(アルフォンソ! ナイスだ! やるなぁ、アルフォンソ!)


 もうひとりの老いた門番が、恐らく詰め所が路地の向こうにあるのだろうが、小走りでそこに向かった。四頭の馬と荷が引かれてくるのを見た時、先ほどまで僕の脳内を占拠していた不安は霧散した。ほんのわずか、リディアまでの案内をするというアルフォンソの姿がまだ見えないという点を残して。


「四頭もいるけど?」

「代え馬だよ。旅に危険はつきものさね」


 髭のような眉毛で目元の隠れた老門番は、しわがれた声で言った。

 クリュプトンは、馬のたてがみを撫でながら、出発の時を待っている。焦りは見えない。ここで彼に狼狽されたりすると、僕の方がどういう醜態をさらすか、想像に難くないが。


「まだかぁ……早く来いよ。のろまのアルフォンソ、早く来い……」


 ほんのわずか。日常に感じたならば、振り返ることすらしないわずかな違和感を抱いた時、クリュプトンは弾けるように動き出した。

 突然、馬に飛び乗った彼は、驚いて見つめる僕に向かってこう示した。


――これ以上は待てない。


 全てが直感だった。僕はクリュプトンに倣って、馬に飛び乗った。


「門を開けてくれ! 出発する!」


 門番は驚いたような顔を見せたが、首をかしげながらもふたりがかりで閂を抜き取り、巻き上げ機で鉄柵を引き上げる。

 重い鉄製の門が音を立てて開いてゆく。

 無限の荒野。漆黒の混沌が渦巻く世界が大きな穴の向こうに見えた時、思わず唾を飲み込んでいた。クリュプトンは、まるでそこが懐かしい場所でもあるかのように、悠々と馬を進めた。

 瞬間、後方から怒号にも似た声が聞こえた。


「エリコ――!」


 身を震わせた。ひとりではない。少なくとも二人、同時に叫んでいる。

 振り向いた時、最初に視界に入ったのは、明らかに激昂した様子でこちらに走ってくるトマソだ。次いで、その後ろで息せき切って走るアルフォンソの姿があった。

 戦慄、焦燥、躊躇、色々な感情が僕を支配しようとしたが、それはただひとつのものによって駆逐された。

 クリュプトン。そう、今の僕にとって最も大いなる謎である彼への好奇心が、全てを駆逐したのだ。予見というにはあまりに時宜を得た彼の判断は驚嘆に値するが、同時に僕には誇らしくもあった。


(アルフォンソは間に合わないな……)


 何故だろう。笑いが止まらない。先ほどから何度も揺さぶられた僕の心は――広大な死の大地に圧殺されそうだった僕の心は、笑いで満たされたのだ。


「あははッ! アルフォンソ、ありがとう(グラツィエ)! じじい、ありがとう! トマソも、ついでにありがとう!」


 馬の横腹を蹴って、走った。これが旅だとすれば、なんて愉快なのだろう。


「エリコ! お前、全く冗談じゃねえ(マッシモ・ノネ)!」


 背後から聞こえたトマソの怒鳴り声が、ますます楽しかった。




第四話「マッシモ・ノネ」了

第五話「スパーダ・ネラ・スパーダ」へ続く


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