第四話「マッシモ・ノネ」(4)
フェリックス様の二重防壁構想は父に劣らず大掛かりなものだ。プリンチペ・マッシモは十年かけて市壁を強化したが、二重防壁の完成にはそれ以上の時間を要するだろう。本人もそれをわかっているのか、まずは先日脆弱性が明らかになった市壁の修復に専念する。
対してヴィルトは実にわかりやすい。武器を調達し、兵士を募集し、討伐隊を組織するだけでいい。数こそ少ないが、毒王を撃退した例は過去にある。ただし、それは甚大な被害もともに記録されているという。
さて、困った。
どうやってリディアに行こうか、全く考えていなかった。クリュプトンをひとりで送り出すわけにはいかないし、街道を真っ直ぐ行くだけとはいえ、途中で混沌が濃くなれば毒王と遭遇する危険が高まる。
プリンチペ・マッシモはこれを旅だと言った。旅とは、知らぬ土地へ行くことだと。
旅には十分な準備が要る。トマソの話だと、リディアまでは馬車で三日の旅程で、最低でも五日分の食料を持ってゆくのが常識らしい。その資金はとても僕に用意できるものではなかった。馬を調達しなければならないからだ。歩いて行くのは自殺行為だと言われた。
道連れも必要だ。残念ながら、フェリチタにはプリンチペ一家の人間を僕に貸すほどの権能はないように見える。彼女に忠実なリータも同じだ。
(ピオに訊いてみよう)
中央通りにある酒屋の息子ピオは、日が傾く少し前までは父の店の番をやっている。
「ゴメンな、エリコ。俺は行けない」
ピオならばあるいはと思って真っ先に訊いたのだが、あてが外れた。
「どうして?」
「ヴィルトが俺を護衛にしたいって言うんだ。毒王討伐隊に加わってもいいって。それにあいつは必ずプリンチペになる」
最も大事なことを、ピオは言外に置いた。
(騎士になるのか……)
カヴァリエーレ・ピオ。それが彼の夢だ。途方もないことではない。プリンチペの側近ともなれば、カヴァリエーレ・リータと並べても何ら遜色はない。
「エリコもクリュプトンなんかやめなよ。ヴィルトがいい。ヴィルトならやってくれる」
「ちょっと、ピオ。本当に毒王退治なんかできるって考えてるの?」
「鍛冶屋通りを見に行けばいい。ラクリマで塗装した槍が山のように積まれてるからさ。モニカと戦争した時だってあんなに使わなかったって話だ」
気付いた。ピオの表情の変化に気付いてしまった。うんざりしてるって顔だ。
「ピオ……。もしかして、僕を馬鹿にしてる?」
「してないよ。馬鹿を見る前にやめろって言ってるのさ」
「それを馬鹿にしてるっていうんだよ! 舞い上がってるのはピオの方じゃないか。リータに負けたのがそんなに悔しかった?」
ピオは顔を青くして唇を噛んだ。こいつは泣き虫の癖に、剣を手放さない。
(リータを見ろ。あの人はそんな顔、絶対にしない)
フェリチタを見る時のリータが頭に浮かんだ。どこか儚く、今にも散りそうな花を儚むような、そして自らも消え入りそうな、悲しい微笑。彼女はピオとは違う。全く違う。だが、正反対の二人がどこかで交差しているような気がして、それを探そうと試みた時、ひとりたたずむプリンチペ・マッシモを思い出した。
「ごめんよ、ピオ。言い過ぎた」
気付けば、謝っていた。ピオがあの顔をすると、いつもこうなる。
「俺の方こそ悪かった。でも、エリコ。お前と一緒にリディアに行く物好きなんて、きっといないさ。諦めるんだ。何よりもジュリオ神父が許可しないよ」
「うっ……それは――」
正直な話、じじいからはリディアへ行くことについて何も言われていない。ただ、勝手にしろと言われただけだ。何処まで勝手にしていいのか、判断がつかない。あれでも西区のゴロツキにまで敬愛される肝いり神父だ。本当に怒らせた時の怖さは計り知れない。
おずおずと引き下がるしかなかった。全面的にピオが正しい。意気消沈といった感じで一人中央通りを歩いていると、誰かが僕の肩を叩いた。
振り返って驚いた。アルフォンソだ。
「馬鹿だよ、お前。またかって顔してるぜ」
この男も皆と同じことを言う。
「そりゃまあ、まただよ。アンジェラもピオも同じことしか言わない」
「当然だ。今、リディアに行くなんて普通じゃない」
「知らないよ。行きたがってるのはクリュプトンだ」
「はぁ? まあ、いい。エリコ、神父の許可はとったな?」
「許可? 何の?」
「リディア行きのだよ」
「いや、とったといえばとったというか――」
アルフォンソの顔をまじまじと見た。彼は何故かぷいと横を向いて話を続けた。
「明後日だ」
「えっ?」
「明後日の朝、出発だ。荷物も馬も任せろ。リディアにはラクリマの仕入れで何回か行ったことがあるから、きちんと案内できるよ。明け方に西門前で待ち合わせな。それじゃ!」
彼はまくし立てるように言うと、僕の反応を待たずに、走って行ってしまった。何か急ぎの用事があるのだろうか。
いや、それよりも――
「やった!」
ついに得た。クリュプトンの最初の同志だ。全く予想外だったが、アルフォンソはあれでも大商人の子だ。言うからにはきちんと準備をしてくるに違いない。
あとはじじいを説得するだけだが、これには相当に骨が折れる。というか不可能だ。だが、言質はとってあるから、最後の手段は残されている。
とにかく、実現不可能と思われたリディア行きが、アルフォンソの協力によって現実のものとなるのだ。
「ここからだ。クリュプトン、ようやく僕たちは始まるんだ。旅だよ。君を馬鹿にした連中を見返してやろう」
僕はクリュプトンの方を振り返った。彼の口元が、かすかにほころんだ。そしてそれは僕が考えても言及しなかったことには、触れなかった。
(リディアに行って、どうするの?)
クリュプトンは何も言わなかった。彼には何かが見えているのだ。