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第四話「マッシモ・ノネ」(3)

 君主宮殿の中は、いつもの平穏とは遠かった。市壁の強化のためにフェリックス様が部下に指示を出したり、何度も市壁と宮殿を往復したりで、それだけでも慌しい。対抗馬であるヴィルトは日中に馭者の仕事をやり、午後には下町で毒王討伐の下準備をしている。鍛冶屋連中は意外にも乗り気で、彼に無償で武器を提供すると約束してきた。同時に兵士も募集されたが、毒王の弱点である「月 の 涙ラクリマ・ディ・ルーナ」を大量に贈与する形でヴィルトに協力する貴族や大商人もいた。

 どうにも、取り残された気分だ。フェリックス様も、ヴィルトも、プリンチペとなるために毒王対策に専心している。ニッコロだって見えないだけで似たようなことをしているだろう。

 ただクリュプトンだけが、何もしていない。誰も彼に協力しようとはしない。

 クリュプトンはリディアに行かなければならない。考えてみればこれが公約というのもおかしな話だ。リディアに行って、その惨状をみることが毒王を追い払うことと直接の関係を持たないことは、誰が考えても明らかだ。


「あちゃぁ……迷っちゃった……」


 フェリチタの相手を終えて宮殿を出ようとしたのだが、考えながら歩いたせいか全く見当違いの方向に向かっていたらしく、いつの間にか見慣れない場所に出ていた。いつもは道を間違えばビアンカが教えてくれるのだが、あいにく体調が悪くて休んでいる。今日は混沌が濃くて昼間なのに暗いのも災いした。

 天使通りにさえ出れば、後は南に行けばいいだけだから、四六時中輝いているポルタパーチェに向かった。衛兵と出会えば道を尋ねるつもりだったが、不思議と誰とも会わなかった。

 その内、広い場所に出た。暗くてよく見えないが、ちょっとした高台に贅沢なことに泉と噴水がある。見渡せば向こうに光輝くポルタパーチェがあり、すぐ下に天使通りが見える。

 誰かが泉のほとりに立っている。近づいてみると、雄大な男だった。髭は濃く、真っ黒で、顎が太い。だが、野生すら感じさせる容貌から放たれるのは獣臭ではなく、混沌の晴れた夜のような静けさだった。

 その人はずっとポルタパーチェを見やっていたのだが、僕に気がついたのか、身を翻した。


「おやおや、子猫が迷い込んだか。うむ? お前は確か――」


 低く力強い声。冷徹ですらあり、決して誤りを口にしないような厳格さが漂ってくる。


「あっ……あのッ!」


 声をかける前は衛兵だと思ったが、剣を帯びていない。ありえない想像ではあるが、無理のない結論だった。この人はプリンチペ・マッシモその人だ。ここまでポルタパーチェに近いと、プリンチペの敷地というよりは公道と言ってもよいのだが、プリンチペ・マッシモが供も連れずにこんな場所にいるのが不思議だった。


「見なさい。また一人、『飛び立つ者達の門(ポルタパーチェ)』を越えてゆく……」


 プリンチペ・マッシモは、視線をポルタパーチェに移した。僕もそれに倣うと、一人の若者が天使通りを抜けて、門の前にたどり着こうとしていた。


「ああ、『行ってしまわれる(エ・イル・ノストロ・)のですか(アッディーオ)?』」


 僕は胸に手を当て、祝福の文句を吐いた。よく見ると青年だ。まだ結婚もしていないに違いない。何かの病なのか、足を引きずっている。家族はいないのか、誰も彼を見送らない。

 ポルタパーチェをくぐるには、資格が要るといわれている。人が神から与えられた役目を果たすと、天使の街から手紙が届く。ポルタパーチェの向こうには何もない、ただの廃墟だと言いはる人もいる。だが、随分昔の話だが、ポルタパーチェの向こうから天使が現れたことがあったらしい。ルーナの街の誰よりも賢く、誰よりも美しく、誰よりも優しい。それが、天使だ。


「また一人、旅立ったか……」

「えっ?」

(ヴィアッジョ)はよい。だが、帰ってこなければならぬ」

「旅――ですか?」

「旅の終わりには、確かなものだけが残る。家に帰って荷を降ろし、足を投げ出してくつろいでいる時に消えずに残るもの。旅は、荷が確かではないことを知るだけで、既に目的を遂げているのだ」

「あの、プリンチペ・マッシモ。その……旅って何ですか?」


 プリンチペ・マッシモの大きな目が、少しだけ更に大きくなった。彼は、僕の無知に驚いたのだ。当然だ。僕自身、クリュプトンの代弁とはいえ、君主競争の場で口にした言葉なのに、それを知らないのだから。


「そうか……。この街にいると、そういうことも知らずに育つのか。だが、この街にも旅人はいる。彷徨(さまよ)う人の多さを見よ。彼らはいずれ、自らが旅人であることを知るだろう。自然は常に、人に語りかけるのだ。『確かなものなど、何もない』と。街でさえそうだ。ただ人だけが、『確かなものがどこかにある』と言う。そして、自分が気付かないだけ、たどり着けないだけだと思い込むのだ」


 彼が何を言っているのか、僕にはよくわからない。旅とは何なのか。


「クリュプトンはリディアに行く。それが旅だ。遠くを目指し、頼りない荷物を持って故郷を飛び出す。それが旅なのだ」


 実に簡潔な答えをくれた。そしてクリュプトンの名を出したことからも、彼が僕をエリコだと認識していることも理解した。


「あの……お怒りではないのですか?」


 クリュプトンが立候補したことで、無用な混乱を生んだのではないか。だが、ルーナの支配者はゆっくりと首を振った。


「あらゆる可能性がある。それらは常に若芽を摘み取られる危険にさらされる。だが、最も愚かに見えた選択が最も善き結果を生むこともある。最も遠い道のりが、たとえ険しくあろうとも、穏やかで短い道よりも早く人を目的地に運ぶこともあるのだ。若くして切り刻まれた樹木は最も太く育つ。リディアに行くといい。そこで全てを見よ。クリュプトンは、己が目で見るのだ。今、この街は旅をしなければならない」


 そう言って、プリンチペ・マッシモはポルタパーチェに視線を戻した。何故だろう。悲しい。彼の後姿が、悲しい。天使に迎えられる青年は、祝福に値する。あるいは、羨望にも似たものをプリンチペ・マッシモから感じる。これではまるで――


「何処へ行かれるのですか?」


 思わず振り向いた。突然の声。どこかで聞いた様な声に、僕もプリンチペ・マッシモも振り返った。闇の中に銀色が浮かぶ。白銀の髪が緩やかになびく。


(クリュプトン……?)


 プリンチペ・マッシモは驚いたようにじっとクリュプトンを見つめていた。すると、クリュプトンのすぐ後ろから、もう一人の男が顔を見せた。フェリックス様だ。


「父上、一体何処へ行かれるつもりなのですか?」


 あるいは、先の問いはフェリックス様のものだったのかもしれないと思い直した。クリュプトンは喋れないのだからそうだろう。彼がここにいるのは驚きだが、天使通りのすぐ傍であるから、ポルタパーチェに向かう人の付き添いがうろうろしててもおかしくはない。彼なら興味本位でそれをやりそうだ。


「供も連れずに、何をしておられるのです?」


 再度、フェリックス様が問い詰める。父親の無用心をなじっているようだ。


「何処へも行かんよ。旅立つ者を見送っていただけだ」


 プリンチペ・マッシモは静かに答えた。


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