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第三話「プリンチペ・エ・プリンチペ」(3)

 ビアンカが変な顔をしている。ぱちぱちと瞬きしながら、呼吸を忘れている。フェリチタはにやにやと笑っている。リータは、ここにはいない。

 今日は剣闘大会。それは、僕らの眼前で行われている。

 ビアンカと一緒にピオを探していると、背後から声をかけられた。フードを深くかぶっていて、いかにも怪しいが、顔を覗き込んだ瞬間、僕とビアンカはあっと声を上げた。

 フェリチタは、自ら宮殿を抜け出してきたのだ。侍女のリータは剣闘試合の参加者であるから、彼女の監視はいつもよりぬるいだろう。だが、それでもフェリチタにここまでの行動力があったことに、僕は驚いたのだ。世間知らずのお嬢ちゃん(プリンチペッシーナ)だと思っていた。


「さあ、楽しみましょう」


 薔薇の香り。花壇を駆け抜けてでも来たのだろうか。外見はそうでもないが、中身は明らかな場違い。この乱暴な祭りの場に、最も似つかわしくない人がいるのだ。


「あっ、いた! リータ――!」


 劇場の舞台を流用しただけの闘技場に立った剣士を見て、フェリチタが歓声を上げる。他の男達が野太い声援を上げる中でひとりだけ彼女を呼び捨てるのだから、浮きもする。

 カヴァリエーレ・リータもそれを感じたのか、僕たちに視線を移すと、相変わらずの無表情のまま手を振った。どうやら顔までは見えなかったようで安心したが、もしフェリチタがこの場にいると知ったらどういう反応しただろうか。考えるまでもないが。

 リータの対戦相手の名が読み上げられる。僕とビアンカは顔を見合わせ、その者の不運を嘆いた。刃を潰した模造剣を手に、ピオが壇上へと駆け上がった。


「あちゃぁ……」


 本人は僕らの同情を知ってか知らずか、意気揚々と剣を構える。憧れの剣士と剣を交えるのだ。それだけでも光栄というのが表情から読み取れるピオの気分だった。


「行け! ピオ! 行けッ!」

「カヴァリエーレ! 蹴散らせ! カヴァリエーレ!」

「リータ! 頑張れ、リータ!」


――エッ! エッ!


 祭りは盛況。ピオの予想外の奮闘に、僕たちは賞賛を惜しまなかった。トマソもアルフォンソも、僕もフェリチタも、儀礼的に顔を出したフェリックス様も、彼につき従うヴィルトも、剣士達を讃えた。


――エッ! エッ!


 素晴らしい。西区のただの喧嘩自慢に過ぎないピオが、リータに肉薄している。民兵とプリンチペ親衛隊は大会への参加権がないが、素人ばかりを集めたわけではない。事実、良き訓練を受けた貴族の子弟は上位入賞の常連だ。その中でも頂点に位置するカヴァリエーレ・リータに、ピオは何度も食い下がる。


――エッ! エッ!


 突然、誰かが僕の袖をつかんだ。


「ビアンカ?」


 振り向くと、ビアンカが顔面蒼白のまま、咳き込んでいた。


「ちょっと、大丈夫? ねぇ、ビアンカ!」

「大変……リータに知らせなければ! ああ、でもどうしよう。リータは今試合中だわ!」

「フェリチタは黙ってて!」


 試合に夢中になって気付かなかった。僕は大急ぎでビアンカを連れて劇場から離れた。


「ゴメン、ビアンカ! 本当にゴメン!」

「エッ! ……エッ! ゲホッ!! ゲボッ……ッハァ、ハァ!」


 咳が収まるまでしばらくかかった。肺を病んでいるくせに空気の悪いところに住むからだ。全くこればかりはヴィルトを恨むしかない。


「ハァ……ハァ……もう大丈夫。ありがとう、エリコ、フェリチタ御嬢様」

「お薬は? お薬はないのかしら?」


 フェリチタが必要以上におろおろしているのが気に障った。今大変なのはビアンカなのに、どこも痛くない人間がうろたえて、ビアンカの不安を煽っている。


「ないよ。朝と夕に飲む分しかない」

「それなら、お屋敷で――」

「面倒を見るの?」


 最も気に障る類の台詞だ。フェリチタがビアンカに投げかけようとしたものも、僕が今フェリチタに投げかけているのも、気に障る。


「最後まで面倒を見るの? すぐに治る病気に思える? 治療費は? ヴィルトからふんだくるの? 無料なの? プリンチペ・マッシモにお願いするの?」


 フェリチタの目にみるみる涙が溜まっていく。ああ、この子はただの可愛い御嬢様だ。


「やめて、エリコ! 心無いことを言ってはダメ」


 がらにもなく低い声だ。ビアンカは怒っている。しかも僕に。心無いとは今のフェリチタではないか。だが、ビアンカは僕がそうだと言う。


「……悪かったよ。ゴメンね、フェリチタ、ビアンカ」


 ビアンカはああ見えて怒らせると凄まじく怖い。早めに謝っておくのが無難というのは、僕やヴィルト、ピオあたりで共有する知恵だ。


「いえ、気にしてないわ……。気にしてないから――」


 明らかに気にしていますという声色で、フェリチタが涙を拭く。

 その場に留まるのもよろしくなく――特に人が多いと空気も悪い――ビアンカを家に送った後、家に留まろうとする僕らはビアンカに追い出される形で劇場に戻った。

 おそらく、自分が苦しんでいる姿を見せたくないのだろう。僕ではなく、フェリチタに。フェリチタもフェリチタで、ビアンカが楽になったのを見ると剣闘大会への興味が蘇ったらしい。この子は一言くらい、「心配だから一緒にいよう」と言えないのだろうか。

 劇場のあたりが妙にざわついている。今年の優勝がまたもやリータであることは道すがら聞いたが、それだけではなかった。剣闘大会などとうの昔に終わっていて、僕がたどり着いた市民劇場は、全く別の催しが開かれていた。

 ふと、クリュプトンは何をしているのかと気になった。この祭りなら、誰かの目にとまるということはないだろう。あるいはひとりで出かけているのかも知れない。

 劇場には、一人の男が立っていた。見慣れない。いや見知ってはいる。だが何故彼がここに――という疑問が先立つ。長い黒髪。漆黒のガウン。熊のような顎鬚。齢五十を越えてなお強靭かつ雄大な体躯。絶大な偉力を秘めた眼光。

 プリンチペ・マッシモ。月光の街キアーロ・ディ・ルーナの支配者が、壇上から僕たちを見下ろしている。

 既に演説は行われていた。誰もがそれに耳を傾ける。数ヶ月前に病に倒れてから、一度も市民の前に姿を現していない彼が、何のためにおちゃらけた祭りに顔を出したのか。


「『君主競争プリンチペ・エ・プリンチペ』だ……」


 観衆の一人が呟いた。


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