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第一話「毒王」(1)

「いた。畜生! 今日も来やがった!」


 わかっている。慣れている。いちいち驚くことじゃない。にも関わらず、僕は総毛立ち、体内にある何かを外に放つように小さく震える。


「エリコ! ぐずぐずするな。鐘を鳴らせ!」


 ピオが僕の名を呼ぶ。僕より一歳年上なだけで偉そうに振舞う。それがよけいに子供っぽく見えることに本人は気付いていない。


――おぉぉ……ぉん……


 遠吠え。思ったより近い。市壁の上から見渡せるどこかに、奴がいる。

 呪うべきは、この雨だ。視界の悪さ以上に、粘つくような雨水が不快でならない。かっとなって上を見上げると、吹き荒れる混沌が一粒の意地悪を僕の瞳に落とした。


「エリコぉ!」


 ピオが急かす。


「わかってるよ。今やる!」


 僕は手元の木槌を探り当てると、混沌避けのために頭まで被っていた毛布を振りほどき、目の前の警鐘を力任せに叩いた。


毒王どくおうだぁ! 毒王が来たぞぉ!」


 鐘が鳴る。亡者ですら耳を塞ぎそうな甲高い音が街中に響く。毒王が街の中まで侵入してきた例は数えるほどもない。しかしゼロではない以上、僕やピオのような若者が日替わりで見回りについている。街の方を見やると、警鐘を聞いた人々が慌しく動き始めていた。

 吹き荒れる黒い混沌が空に群がり、月を紅く濁す。その下に、奴はいた。


「伏せろ、エリコ!」


 ピオはそう言って、たどたどしく毛布にくるまった。僕は小さく舌打つと彼にならった。



            * * *



『毒王』


 誰が最初にこの名で呼んだのか。ある人は吹き荒れる混沌が形を成した化物だとい、別のある人は死者の怨念を喰らった野犬の成れの果てと云う。毒の王(レ・ヴェレーノ)の名のとおり、彼らに噛まれて生き延びた人間はひとりもいない。


「ふぅん……今日は随分近くまで来てるじゃありませんの?」


 薔薇の香り。僕の大嫌いな匂いだ。緊張で震える僕たちに最も似つかない安穏とした声色が、僕の不機嫌に拍車をかける。


「何してるんだ、アンジェラ! 早く頭を下げろ! 喰われたいのか?」


 相変わらず胸元の開いた、挑発的な格好だ。男にこびを売るしか能のない家畜みたいな女だ。

 そんなアンジェラでも毒王に喰われるのを見るのは忍びなく、僕は忠告したのだが、毒王警戒の仕事に一度も顔を出したことがない彼女のことだ。今の自分の態度がどれだけ場違いかをわきまえていないに違いない。

 唸り声。遠雷にも似ている。

 黒い。大きい。こわい。

 三秒に一回は吹き荒れる混沌で視界が黒く濁る。その中で更に黒い巨体が、市壁の近くをうろうろしながら唸っている。外見は犬という表現が妥当なのだろう。だが大人三人分はあろう巨体を犬と呼んでいいかどうかは疑問だ。

 毒王は、人を喰らう。それだけではない。奴はその名のとおり毒を撒き散らす。混沌と呼ばれる黒い気流をまとい、人々に死の病をもたらすと云われている。

 最後に毒王が市壁を越えた時は、市民の十人に一人が漆黒の巨犬によって殺戮さつりくされたらしい。プリンチペ・マッシモによる市壁の強化によって、この街は一応毒王の脅威を拭い去ったが、悪夢は中々忘れられるものでもない。


(このまま去ってくれ……)


 一度として生命の危機にさらされていない僕でも、毒王を一目見ただけでそう思う。恐らくは大半の人間――アンジェラみたいなウスラトンカチ(クレティーノ)以外はきっとそうだろう。

 だが、どうやら今日は特別に悪い日らしい。

 そういえば今朝はじじいの機嫌が妙に悪かった。雌鶏が全く卵を産まなかったのを、僕が隠れて食べたと勘違いしたらしい。五個産んだ時に一つちょろまかすくらいなら何度かやったが、結果がゼロになるような引き算をするほど馬鹿でもないのに。今朝は最初から悪かった。ピオが予定表にもないのに病欠が出たからといって毒王監視を買って出たから、僕まで付き合うはめになった。本当はビアンカに会いに行く約束があったのに。

 悪い、悪い。今日は悪い。悪事は連続する。坂道で雪を転がすようなものだ。よりにもよって、半年に一度見かけるかどうかの毒王と鉢合わせたこと自体がそれを物語っている。

 僕にとっての不運は、どうやらアンジェラという犬ッコロ女そのものだった。


「フフフ……。エリコ、どう?」


 こともあろうに、アンジェラは市壁の上に立ち、毒王を挑発するように向き直ったのだ。

 数秒の間、僕も、ピオも、アンジェラの愚行に呆然となった。市壁に立つ意味。毒王の前に立ちはだかる意味。彼女は理解しているのだろうか。

 思い出した。アンジェラに毒王監視の役目が回ってこない理由。以前もこの女は同じようなことをして、大人連中に大目玉を喰らったのだ。自分の運を試しているだけ――というのがその時の彼女の主張だった。冗談じゃない。アンジェラの不運に巻き込まれる僕たちの身にもなって欲しい。


「うわっ! アンジェラ! アンジェラ!」


 狼狽したピオが声を上げる。爪先をずらせば三十歩は下の大地にまっ逆さまという状況で、彼女は両手を広げて彫像のように立っている。


(頭おかしいんじゃないか、この女は?)


 僕はアンジェラの髪を引っつかんで無理矢理に市壁から降ろそうとした。ピオはバランスを崩した彼女が誤って市壁の外に落ちないように支える。


「痛たたたたぁ! ちょっとエリコ、女の子の髪を何だと思っていらっしゃるのぉ?」

黙りなよ(ズィッタ)、アンジェラ。嫌なら僕みたいに短く切ればいいじゃないか」

「誰がそんな(チェラータ)頭になんか! あなた、今にきっと鍛冶屋のトマソみたいになりましてよ。二の腕がチーズくらいに太くなりましてよ!」


 目に涙を溜めながら愚痴るアンジェラをやりすごしながらも、僕の視線は眼下の化物に釘付けになっている。

 近い。


(近い! 近い! 近い!)


 視界を大きな影が覆う。すでに怪異は跳躍を完了していた。



            * * *



(あれ――そういえば今朝、目玉焼きはいくつ食べたんだっけ? ベーコンは食べたっけ?)


 今朝の献立を思い出す。


(そうだ。あの役立たずの雌鶏は卵を産まなかったんだ。じじいが恨めし気に愚痴ってた。僕だってあんたの分くらい残すさ)


 何てことはない。今朝の僕はベーコンも目玉焼きも食べていない。豆だけのスープをすすった後、早起きのせいで腹痛なのを我慢しつつ、ピオと合流しただけだ。そういえばしばらく用も足してない。何てことはない。今日は悪い日だ。


「エリコぉぉ!」


 視界が開ける。最初に僕の目に入ってきたのは――空。真っ黒な混沌が吹き荒れるだけの空が、僕の正面にあった。自分が市壁から落ちていることに気付いたのは、僕の名を呼ぶピオと目が合ったからだ。


(ウッソだろ……)


 落ちている。


(何処に?)


 地面に。


(叩きつけられる?)


 このままだと、確実に。

 僕の中の全ての時間がゆっくりになった。

 実にまずいことをやらかしたと理解したらしいアンジェラの視線は、僕にではなく市壁に飛びつく毒王に向けられている。ただピオだけが、片時も忘れずに――恐らく、いや確実にこれは一瞬の出来事なのだが――僕の瞳をじっと見ている。

 刹那、ピオの灰色の瞳が揺らいだ。


(何? 何処? どれ?)


 僕はピオの視線を追った。僕の脇の下、そこに手を伸ばした時、凄まじい衝撃とともに僕の中の時間は本来の速さを取り戻した。僕は、市壁のほころびびからたくましくも芽を出し、育った樹木の枝にしがみ付いていた。


「エリコ! 大丈夫か?」

「ピオ! ロープを!」


 どうにか地面への激突を免れたが、市壁の半分程度の高さにある都合、このままもたもたしていると、真横で石の壁をガリガリと削る毒王の餌食になるのは目に見えている。


「アンジェラ!」

「わ、わわわかりましたわ!」


 狼狽しながらも、アンジェラはロープをとりに戻る。

 市壁が大きな音とともに揺れる。毒王が体当たりで壁を崩そうとしているのだ。だが、プリンチペ・マッシモによる市壁の補強以来、一度も外敵の侵入を許していない我らが市壁は、この程度ではびくともしない。

 びくともしない。それがどうやらあだ(・・)となった。

 毒王は、自らの本来の役目を思い出したように、市壁に飛びつくのをやめ、真っ黒な穴としか言いようのない両の目を僕に向けた。巨大なあぎとが、二つに割れる。中からは身震いするほどに底知れぬ闇が顔を見せる。僕をその中にいざなうように混沌が頬を掠める。

 闇の中、確かに見えた。人の腕だ。馬車の車輪と思しきものも顔をのぞかせている。

 ありったけの嘔気が押し寄せる。ガチガチに固まった上下の歯の間から、口の中に充満した酸っぱさが漏れ出そうになる。


(リディアか? モニカか?)


 近隣の街の名を思い出す。何の用事で混沌の中を走って来たのだろう。どんな理由にしろ、毒王に狙われた時点で、もう街に入ることは叶わない。そして、僕の頭の中は死者に対する想像の余地すらなくなっていた。

 喰われる。

 川辺の岩に張り付いた苔のような匂いが、僕の鼻にまとわりつく。生臭い。決して生物とは言い難い化物を前にして、僕はそれを感じている。

 突然、毒王の顔面が激しい光を発して燃えた。

 「月 の 涙ラクリマ・ディ・ルーナ」だ。普通にラクリマとも呼ぶ。普段は燃料に過ぎないが、毒王撃退には欠かせない武器を、何者かが投げつけたのだ。ピオに違いない。


明日死ねドマーニ・シ・ムオーレ!」


 体が、忘れていた震えを思い出す。


「明日死ね、エリコ!」


 アンジェラの口癖だ。確か言い出したのはピオだったか。だがアンジェラはこれを相当気に入ったらしく、ことあるごとに口にする。

 僕は目の前に垂れたロープをつかんだ。必ず這い上がる。必ずよじ登る。

 僕は明日死ぬ。今日死ぬことはありえない。そう心に念じ、登った。


「危ない、エリコ!」


 ピオの声。もう勘弁してくれ――そういった僕の願いを、吹き荒れる混沌が拒む。衝撃。奇妙な浮遊感。浮遊感どころではない。実際に僕は、浮いている。落ちている。

 突き飛ばされた。


(何に?)


 毒王に。


(襲われた?)


 まさに。だが不幸中の幸い。僕の体はあの生臭いあぎとの中にはない。いや、不幸中の不幸。僕は今にも地面に叩きつけられようとして――

 景色が暗転する。

 次の瞬間、僕は地面に両の足でもって立っていた。何が起こったのか全く理解できないまま、僕は眼前の光景に目をやることしかできなかった。

 男がひとり、半身を僕に、残る半身を地面に爪を突き立てる毒王に向けて、立っていた。

 長い銀髪。細長い体。白いシャツ。銀のコート。綺麗に整った細いあごに、すらりと伸びた鼻先。長い睫毛まつげの奥には、灰色の瞳が淡く光っている。


(誰?)


 すぐさま僕が想像したのは、毒王の口内で砕かれた馬車のことだ。この人はリディアか、もしくはモニカの街から来たのではないか。路上で毒王に鉢合わせた不運な連中。その生き残りが僕の前に立っているのではないか。

 空を仰いだ。先ほど僕が引っかかった樹木が邪魔で、ピオもアンジェラも見えない。

 途端に凄まじい獣声が鳴り、僕はいやが応にも視線をそこに戻さなければならなかった。

 毒王が男を、あるいは男を挟んで僕を――いや、もしくは二人とも飲み込もうと、巨大なあぎとをさらに凶悪に、いびつに、広げ、容赦なく僕たちに襲い掛かった。

 銀髪の男は何をするでもなく、半身を僕に向けている。よく見ると喉に火傷のあとがある。

 男の口元が、わずかに動いた。薄い顎鬚が印象的だった。


――はしれ。


 確かに、いや恐らく、彼はそう言った。声が聞こえたわけではないが、口の動きから察するに他にとらえようがない。

 市壁をなぞるように奔った。正門は毒王の向こうだから、壁伝いに西門へと向かった。


「ピオ! 西門に行く! 西門を開けてくれ!」


 見えないが確実に市壁の上にいるピオに向かって叫ぶ。

 その間、三度の咆哮が僕の耳を恐怖に陥れた。三度目に振り向いた。

 三度、毒王。そして僕のすぐ後を追ってきたらしい男は、それに対峙たいじする。


――行け。


 再び、声にならぬ声。徒手空拳で、この男は最上の脅威に立ちはだかる。

 僕はまた走り出した。後方で何が行われているのか、わからない。だが、あの男は間違いなく、毒王と戦っている。


(どうやって?)


 知らない。


(何故?)


 知らない。いや、あるいは――


(僕を逃がすために?)


 西門を前にした時、僕は思わず、走りながら振り向いた。僕の足取りが鈍ることが、自らとあの男の命を縮めるに違いないことがわかっているのに。

 振り向いた先に先ほどの男がいた。宙を舞っている。眼球に飛び込んできた映像に、僕の頭はあまりにも多くを感じ、そして一つの事実を認識した。男は激昂した毒王に跳ね飛ばされたのだ。人の身長の倍ほど宙を舞った男は、市壁に叩きつけられた。

 市壁が音を立てて揺れた。毒王が激突したのだ。そこには憎悪すら感じられなかった。獣特有の感情とは別の激しさ。ただの本能が、破壊と殺戮のためだけに注がれていた。


「おい、エリコ! 早くしろ。こっちだ!」


 西門が開く音とともに、低く太い声が響いた。鍛冶屋のトマソだ。

 門の隙間から、街の明りと、トマソの丸い顔がのぞき見えた。

 飛び込んだ。矢の様に。


(いいのか?)


 このまま逃げても。


(あの男を見捨てて?)


 きっと死んでいる。それに、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 トマソの丸く太った体に体当たりするように門を潜った。門が閉じる間際、最後にもう一度だけ、毒王の方を見た。あの怪物は僕を追わずに、市壁に取り付いたまま何かをかじっていた。いや、何かに口先をつっこんでいる。おかしい。市壁に穴などあいていない。あの様子だと明らかに口先で何かをこじ開けようとしている。

 毒王の下を見やった。うち捨てられたゴミが小さな山を成していた。


「ハァ……ハァ……ッ! ああ、そうか!」

「おっ? どうした、エリコ!」


 僕は門の閉じる音を聞かずに、また走った。今度は何者にも追われていない、安全な街の中だ。だが鼓動はいまだに休まらない。緊張が僕の全身を支配した。

 西区の商店街を抜け、露店がひしめく市場も抜け、裏路地に入った僕は、大量のゴミが積み重ねられた場所にたどり着いた。

 周囲に人はいない。当たり前だ。毒王が来ているのだ。誰が好んで外を出歩くものか。

 いた。確かにいた。

 銀髪の男。どこから来たのかわからない。声も聞いていない。だが、僕を助けてくれた命の恩人。彼は市壁をよじ登り、ゴミ捨て口から市壁の内側に逃げ延びたのだ。

 横たわっている。外傷は見えないが、自慢の銀髪は煉瓦れんがの粉で汚れている。


「ハァ……ハァ……。大丈夫?」


 僕は男に駆け寄り、頬に手を当てた。生きている。その証拠に、男は僕の目を見て、小さく笑ったのだ。


――大したことないよ。


 そう言っているように思えた。唇がそう動いたのだ。

 渇いた息をしている。それが男のものではなく、僕のものであることに気付いたのは、ピオの声が聞こえ、一瞬息を忘れたからだ。

 周囲を見やると、右手にうち捨てられた襤褸ぼろがあった。それで男を覆い、隠した。


「声を出さないで。後で必ず迎えに来るから――」


 男を隠してから一呼吸置いて、ピオが現れた。次にアンジェラ、そしてすぐにトマソや他の大人たちも来た。


「エリコ、何があった?」


 最初に口を開いたのは、鍛冶屋のトマソだった。最低限のことはピオに聞いて知っているといった顔だ。彼が問うたのは、もっと他のことだろう。

 僕は、まだ呼吸が整わないまま、それに答えた。今なら錯乱さくらんを装えると思ったからだ。


「うぅ……毒王の奴、ルーナに来る前に人を喰ってた。リディアかモニカかわからないけど、二人は喰われてた……」

「生き残りはいたのか?」


 鍛冶屋のトマソがピオに訊く。


「いや、いない。エリコが見た以外は誰も知らない」

「そうか。じゃあ、エリコが狙われてるってことでいいのか?」


 僕は体の芯が一度、大きく震えるのを感じた。

 毒王に狙われた者は、街に入れてはいけない。街の中にいてはいけない。

 呼び寄せるから。毒王という名の災厄を、街の中に招き寄せるから。だから、決して許されない。見過ごすことは、ありえない。

 上下の歯が、ガチガチと音を立てて震える。

 僕を見つめる皆の視線が、一瞬、先ほど見た毒王のそれと重なる。真っ黒で、眼球が何処にあるのかもわからない暗黒の目。それが、僕を取り巻くように並んでいた。


「どうなんだ、ピオ?」


 ピオの肩がビクリと動く。蛇に睨まれた蛙のように固まったまま、彼は言葉にならない声で何かを言った。誰も助けてくれない。助けてはならない。


「そういえば、他に誰かいたような……」


 アンジェラが横から意外な言葉を放つ。


「いましたわよね、エリコ? あなたは見たでしょう?」


 否とは決して言わせない。暴力にも似た強い視線を、アンジェラは僕に浴びせかけた。


「あ……うん、いた」

「ほう、毒王はそいつを狙っていたのか。どんな奴だった?」

「毛むくじゃらの大男でしたわ。最初、獣かと見間違えましたもの。ね、エリコ?」


 僕はポカンと口を開けたまま、少しの間呆然としていた。


「おい、エリコ。どうなんだ?」

「え? ああ、アンジェラの言うとおりだよ。毒王はそいつを追ってたんだ。僕が門を潜る直前に食べられちゃったよ」


 トマソはじっと僕の瞳を覗き込んだ。僕はしばらくの間、子供ならば小便を漏らしかねない彼の威圧に耐えねばならなかった。


「そうか。なら、大丈夫だな」


 途端に、トマソは明るい声を放つ。同時に、周囲から安堵の息が漏れた。


「いやぁ、よかったよ。エリコが毒王に狙われてなくて」


 大人たちは僕の頭をくしゃくしゃに撫でながら、「クソ餓鬼め」と笑顔で言った。

 トマソはピオから事情を聴き、数人の大人達に市壁の破損箇所を調べるように命じた。彼は西区防衛団の長でもあるから、てきぱきと命令を下してゆく。

 それらのことをあらかた終えた後、トマソは人ごみに紛れてこの場を去ろうとしていたアンジェラの首根っこをつかんだ。


「ぴゃぁ!」

「さて、後は――」


 アンジェラの顔色が蒼白に変わる。口調こそ御嬢様風だが、根っからの下町育ちだ。素行の悪さも僕やピオの比ではないから、トマソに叱られるのは慣れているはずなのに、彼のお仕置きが常軌を逸しているせいか、アンジェラが怯える貴重な瞬間が拝めた。


「このクソ餓鬼が! 街を危険にさらしやがって!」


 アンジェラがピオを睨むも、逆恨みに近い。


「行こう、エリコ」


 ピオが僕の手をとる。彼でもアンジェラが酷い目に遭うのは見たくないらしい。

 僕はピオに連れられて裏路地を離れた。途中、一度だけゴミ捨て場を振り返った。混沌が弱まったのか、襤褸はピクリとも動かない。彼が死んでいないことを祈るしかなかった。


「雨、やんでる……」


 いつからそうだったのか、思い出せない。


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