49 第二部のプロローグ
侯爵令嬢ロアンナには、幽霊が見えている。
白く丸い幽霊達は、ロアンナに何かをしてくるわけではない。ただ、おしゃべり好きが多いので、八歳になったばかりのロアンナは、ある日うっかり「うるさい」と言ってしまった。
いつもなら幽霊なんて見えていないふりをするのに、今日はそれができなかった。なぜなら、三つ年上の兄であるマックスと、馬の駆け比べをして負けてしまったからだ。
(あんなにたくさん練習したのに、お兄様に追いつけなかった……)
スタートと同時に引き離されて、馬上のマックスはどんどん遠ざかっていく。その背中が豆粒になったころ、ロアンナはまだ半分も進んでいなかったのに兄はゴールしていた。
そのことが悔しくて、ロアンナの紫色の瞳にうっすらと涙が滲む。
そのとき、ロアンナの視界の端を通りすぎた幽霊がこう言ったのだ。
『勝負にすらならなかったなぁ』
嘲笑うような男性の声を聞いて、まだ幼いロアンナはカッとなった。そして、つい「うるさい」と反応してしまったのだ。
そのとたんに幽霊は、ロアンナにすり寄ってきた。
『お、おまえ、俺の声が聞こえるのか!?』
ロアンナが「しまった!」と思ったときには、もう遅かった。その日から、その幽霊に付きまとわれるようになった。
『なぁなぁ、俺の声が聞こえているんだろう? なぁ、無視すんなって!』
澄ました顔で聞き流していても、幽霊は話しかけ続けてくる。朝も昼も夜もずっと。
ときには、急に目の前に現れてわざと脅かそうとしてきた。
ロアンナは、見えないふりと聞こえないふりを続けるしかない。四六時中付きまとわれているので、両親に相談できないでいた。相談したとたんに、付きまとってくる幽霊に、幽霊が見えることと声が聞こえていることがばれてしまう。
寝不足になり、ロアンナの目の下にうっすらとクマができたころ。幽霊の様子がおかしくなった。
『おまえも俺を無視するのか……。あの女と同じだな……』
その声は、今までとは違いゾッとするほど恨みがましい。
聞こえないふりをしながら、ロアンナは自室から出た。今日は、家族みんなでピクニックに行く予定だったので、待ち合わせ場所を目指して足を速める。
そんな、ロアンナの後ろを幽霊がついてきている。
『あの女と同じ……。おまえも、あの女と……ぐっ、うう』
幽霊の唸り声が怖くて、ロアンナは振り返れなかった。いつのまにか早足は、駆け足になっている。
『おまえも、あの女と同じように……ぶち殺してやる!』
ロアンナの息が上がり、恐怖で涙が溢れたとき、両親の姿が見えた。父がロアンナに向かって片手を上げる。
「ロアンナ、急がなくていい。走ると危ないよ」
父の横では、弟のレイと手を繋いでいる母が優しく微笑んでいる。母の隣にいる兄は、不思議そうな顔でロアンナを見つめていた。
「お、お父様!」
泣きながら飛びついたロアンナを、父はしっかりと抱きとめた。
母が「どうしたの?」と言いながら、身をかがめる。レイが「おねーさま」と手をのばしたとたんにバチッと大きな音がして、ロアンナはぎゅっと目を瞑った。
おそるおそる目を開いたときには、恐ろしい幽霊の姿はどこにもない。
レイが身につけている神殿から取り寄せたネックレスのおかげだろうか?
ぼんやりと空を見上げていたロアンナの視界を、別の幽霊が横切った。その幽霊には、立派な白髭があり賢そうだ。
『悪霊になり果て、消え去ったか』
(あくりょう……?)
『自我を失う前に、さっさと未練を捨ててお空に行けばいいものを』
(じが?)
白鬚の幽霊がどこかに行ったことを確かめてから、ロアンナは父を見上げた。
「お父様。あくりょうって? じがを失うってどういう意味なの?」
父がロアンナの耳元で「幽霊がそう言っていたのかい?」と囁いたので、ロアンナはコクリと頷く。
「悪霊は、悪い幽霊のことだね。自我を失うというのは、自分自身ではなくなってしまうという意味だよ」
「悪い幽霊は、自分じゃなくなってしまう……」
兄に「悪い幽霊に追いかけられていたの?」と小声で尋ねられたので、ロアンナはまたコクリと頷いた。
そのあとは、兄に頭をぐしゃぐしゃに撫でられたり、父と母にも「怖かったね」とぎゅうぎゅうに抱きしめられたりしたので、怖い気持ちがどこかへ行ってしまった。
この日の出来事で、ロアンナは幽霊のことが少しだけ分かったような気がした。
(幽霊はお空に行かないと、いつか自我を失って悪霊になってしまうのね。あの幽霊は消えてしまって、お空に行けなかったんだ……)
ロアンナがうっかり「うるさい」と言ってしまったせいだった。しかし、『あの女と同じように、ぶち殺してやる』と言っていたので、もとから悪い幽霊だったのかもしれないと考え直す。
その後、成長と共に幽霊の扱いがうまくなっていったロアンナは、今では幽霊と協力している。




